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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

今こそ「訂正する力」を蘇らせよう!~東浩紀著『訂正する力』から学ぶ①~

 ずっと気になっていた本である。それは、以前からその言論活動に注目していた評論家の東浩紀氏が上梓した朝日新書の『訂正する力』というタイトルの本である。昨年の11月頃から職場近くのデパート内に入っている紀伊国屋書店に平積みしているのは知っていたが、あの東氏の本なので気後れしてしまい、いざ読んでみようと思い立つことができなかったのである。ところが、先日、市立中央図書館から借りた同氏の『ゆるく考える』というエッセイ集を拾い読みしていて急に現在の思想について知りたくなり、新刊本の一つである本書のことを思い出して入手したという次第である。

 

    本書の「はじめに」の冒頭において、筆者は日本にいま必要なのは「訂正する力」だと主張している。では、「訂正する力」とはどのような力なのか。それについては、「ものごとを前に進めるために、現在と過去をつなぎなおす力」「まちがいを認めて改めるという力」「リセットすることとぶれないことのあいだでバランスを取る力」「成熟する力」などと言い換えている。市井のリベラリストを自認する私は、この時点で「何だ、保守主義的な思想を表明した本なのか!」と早合点して、やや落胆した気分に陥ってしまった。

 

 ところが、気落ちしながらも読み進めていくと、哲学は「時事」と「理論」と「実存」の3つを兼ね備えて、はじめて魅力的になるものであり、本書は第1章が時事篇、第2章が理論篇、第3章が実存篇、最後の第4章がいわば応用篇になっていると示していた。また、本書では「訂正する力」を使って日本の思想や文化を批判的に継承し、戦後日本の自画像をどのようにアップデートすればよいかを提案していると綴っていたので、「待てよ。単なる保守主義的な思想ではなさそうだな。」と気持ちを新たにして、著者の主張されている哲学・思想をしっかりと読んでみようと思ったのである。

 

 そこで今回は、本書の前半(第1~2章)の内容の中で私の心に深く刻み込まれたことを、各章の終わりの部分に位置付けている「本章のまとめ」を活用しながらまとめ、それに対する私なりの所感を簡潔に綴ってみようと考えている。

 

 まず一つ目は、今の日本で「訂正する力」が機能していない理由とそれを回復するための手立てについて。著者は、リベラル派と保守派の双方にいる「ぶれない」ことをアイデンティティにしている「訂正しない勢力」が、議論を硬直化させ社会の停滞を招いていると指摘している。そして、その背景には今の日本人が対話において信頼関係を築く訓練をしておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を抱えている。つまり、そのような社会全体を規定している「訂正できない土壌」があると言っている。それに対して、著者は日本には本来「訂正する力」の豊かな伝統があったことや、現在の動画配信などの新たな伝達手段も生まれていることなどによって、余剰の情報を提供することで「訂正する力」を新たに強める可能性を秘めていると希望的なことも述べている。

 

 また、「訂正できる土壌」をつくるために、小学校ぐらいから話合いの時間をつくり「たしかにあなたの意見は正しいかも」と気付き自分の意見を変えていく、また他人の変化も認め合うという訓練を積み重ねるべきだと主張している。この点に関しては、現職中にこのような主旨を生かした授業改善を積極的に進めてその手応えを実感してきた経験が私にはあるので、この主張に全面的に賛成である。また、退職後もなるべく機会を生かして「哲学対話」の実践を試みようとしているのは、同様の主旨の具現化の営みである。私はこのような実践は、日本の民主主義がよりよく発展していくためのシチズンシップ教育の一環だと考えているので、今後もささやかな取り組みではあるが、続けていくつもりである。

 

 二つ目は、「訂正する力」の核心が「じつは・・・・・・だった」という過去の再発見の感覚にあるということについて。著者は、困難な課題を抱えて危機的な状況を迎えている日本の今後を見据えたとき、未来とつながる形で「じつは日本はこういう国だった」といった物語をつくべきだと提案している。そして、この「じつは・・・・・・だった」という訂正の精神は、本質的には過去との連続性を大切にする保守主義に近いものであることを認めている。その根拠は、過去を全てリセットして新しい社会をつくろうとした今までの試みが歴史的に失敗しているからである。フランス革命然り、ロシア革命然りである。だから、社会は過去の記憶を訂正しながら、だましだまし(脱構築しつつ)改良していくしかない。人間や集団のアイデンティティは、じつは過去と現在をつなぐ「遡行的訂正のダイナミズム」がなくては成立しないのである。

 

 このダイナミズムは、過去がリセットされる「反証可能性」の原理に基づく自然科学ではなく、過去が訂正される「訂正可能性」の原理に基づく新文学の役割に深く関係している。特に現代のようにあらゆるコンテンツが生成AIで作成可能になる時代には、「じつは・・・・・・だった」という発見の感覚で生み出され、「訂正する力」で支えられている<作家性>が重要になる。生成AIには<作家性>が欠けるからである。したがって、AI時代にあっても、「訂正する力」について考える人文学の意義は決して色褪せることなく、それどころか文化産業において「訂正する力」や「訂正の経験」そのものが商品化され、新たなビジネスに結びつく可能性も秘めているのである。

 

 今、世界は切実な「分断」の危機が迫ってきている。また、生成AIの急激な進展によって、人類は「人間とは何か」という根源的な問いを突き付けられている。そのような時代だからこそ、人間固有の「生」を肯定的に生きるために、過去と現在をつなげる力、持続する力、聞く力、読み替える力、「正しさ」を変えていく力などとも言い換えることができる「訂正する力」が必要なのである。私は、著者のこのような考えを最初は保守主義的な思想ではないかと短絡的にとらえてしまいそうになったが、本書をじっくりと読み通した後には、それとは「似て非なるもの」だと認識を新たにすることができた。現在、第3章以降を再読しているところだが、その中で私の心に深く刻まれたことをまた、次回の記事で綴ってみたいと思っている。

目を見張った孫たちの成長ぶり!~二人の孫の近況報告を兼ねて~

 3月中旬から4月中旬の週末の休日は、私的な行事や活動等で忙しく、ブログの記事を執筆する心身の余裕がなかった。そのため、ここ3週間ほど近く更新することができず、何となく焦りのような気持ちに襲われていた。そこで今回は、それらの行事や活動等における孫たちの様子を綴りながら、その成長ぶりを少し自慢してみたい。他人の不幸事には興味をもつが、他人の幸福事には見向きをしないのが世間の常のようだが、あえて私は自分が幸せだと実感していることを綴ろうと思う。

 

    さて、最初に取り上げるのは3月16日(土)の土曜日の出来事。私たち夫婦は2月の誕生日で満7歳になった初孫Hと一緒に、約1年ぶりに「えひめこどもの城」へ遊びに行った。目的は、新しく完成した木造の「コシロ・アドベンチャー」をHに体験させたかったのである。Hは初めてのアスレチックコースに、自分からどんどんチャレンジし一つ一つクリアしていった。幼い頃なら怖がっていたと思われる揺れる木橋のようなコースも、難なく渡っていった。そして、ゴール地点にあった鐘を鳴らすと、「もう一度やりたい!」と叫んでいた。二度目のチャレンジ後に昼食を取ったレストランでは、自分から進んで私たちの分までお冷をコップに入れて持ってきてくれた。人のために自分ができることをしようとする優しさが現れていた。小学校1年生になったHは、様々な経験を積み重ねてきたことで、心身共に逞しく、そして優しくなっていると実感した一日になった。

    次は、3月31日の土曜日の出来事。私たち夫婦は長女とその長男(初孫H)を同乗させて、二女の住む新居浜市にある滝ノ宮公園へ車で出かけた。朝7時半頃に松山市の自宅を出発して、約1時間半のドライブだった。現地に到着してすぐに大型遊具群を見付けたHは、早速チャレンジしようと一直線に駆け出していた。最初はロープを編んで上へ登ることができる遊具にチャレンジしたが、高い所で平行移動する箇所に来ると「怖い!」と言って途中で止めてしまった。私は「まだ高い所は苦手なんだなあ。」とちょっと残念な気持ちになったが、その後、トンネル状の滑り台や移動式のブランコなど今までなら苦手意識がある遊具にも挑戦していった。そして、最後の方になって「僕、途中で止めたさっきのロープの所にもう一度挑戦してみる!」と私に宣言して、何と自分だけの力でクリアしたのである。達成感と満足感に満ち溢れた笑顔のHを見て、私の心まで喜びが湧き上がってきた。

 

    しばらくすると、二女とその長男(私たち夫婦にとっての2番目の孫M)や松山市から車でやって来た義理の姉夫婦たちと合流した。皆で花見をしながらお弁当を食べることが目的だった。久し振りに会うHとMはお互いに嬉しそうな表情を浮かべながら、最初はボール遊びを一緒に楽しんだ。2月の誕生日で満3歳になったMは、半年ほど前にはまだボール扱いが上手にできていなかったが、ドリブルがとても上手になっていた。もうすぐ保育園の年少組(ほし組)になる自覚もできてきて、ちょっとお兄ちゃんになったようだった。その後、別の海浜公園へ移動してからも、二人はまるで本当の兄弟のように手を繋いだり、HがMをおんぶしてやったりしていたので、周りの大人たちもつい目尻を下げてしまった。

 

 また、4月に入って6日の土曜日には、二人の孫にとっての曾祖母(母方/私の妻の実母)の一周忌法要があり、HとMも参加した。Mは以前とは違い、お寺の本堂へ入ってからも自分の思いのままに動き回っていた。元々はやや臆病な性格だったが、満3歳になったからか住職や親戚の方々に対しても臆することなく接する様子を見せた。Mが少し逞しくなったように感じた。それに対して、4月から小学校2年生になったHは、自分の席にじっと座って神妙な表情で法要に参加し、大人の真似をするようにお経を唱えていた。時や場面の状況を考えて適切な行動を取ることができていて、少しずつ社会の一員となっていくHを見ながら私は感慨深い思いに浸っていた。

 

 懐石料理を中心とした和食レストラン「梅の花」で、故人を偲びながら一周忌法要に参列した親戚の方々と共に孫たちも昼食を取った。孫たちはボリュームのある「お子様ランチ」だったが、二人ともよく食べた。特にまだ小柄なMだが、食欲はHよりもあり配膳された料理のほとんどを食べてしまった。「Mちゃんのお腹、パンパンになったね。」と皆で笑い合うほどの大食漢ぶりを発揮していた。きっと長身の父親ぐらいに成長してくれるのではないかと、私も将来のMの姿を想像して、頬が緩んでしまっていた。

 

 昼食後、長女とHは用事があるとかで帰宅してしまったので、私たち夫婦は二女とMを連れていろいろな滑り台がある三津浜中須賀公園へ行った。まだ急な滑り台が苦手なMに少しでも経験させる機会を増やそうという思いがあったが、Mは滑り台よりも「ストライダー」に乗る遊びの方を好み、公園内に植えている木の根っこが盛り上がっている所を乗り越えることに夢中になった。そこで、私たちはストライダー専用の公式コースがある「マテラの森」へ行くことにした。今までに数回しかストライダーに乗ったことがないMは、でこぼこや急カーブのある走路を、最初はサドルにお尻を乗せないような格好でこわごわと歩いていた。しかし、周りでかなりのスピードで走る年上の子たちに刺激を受けてか、徐々にスピードを増して走るような感じになってきた。嬉しそうな表情でストライダーに乗るMの姿を見て、私は「やっぱり習うより慣れろだなあ。」と一人嬉しそうに呟いていた。

 

 次の日の7日の日曜日は、まだ伊予鉄道の市内バスに乗ったことがないMに初体験させようと、義理の姉夫婦が住んでいる妻の実家までバスに乗って行くことにした。私の自宅近くにバスの車庫があり、Mが乳児期から抱っこして何回も見せに行っていたので、Mはバスの色や大きさ、形等に興味を示すようになり、「バスに乗ってみたい。」と言っていたのである。松山市駅前から出発する路線バスに乗って、私たち4人は20分ほどのバス旅行を楽しんだ。初めてバスに乗ったMは、最初は緊張した表情をしていたが、すぐに慣れてきたのか次のバス停名を案内する車内アナウンスが流れる度に、大きな声でそれを復唱し始めた。幸い同乗する客が一人だったので、私たちもあまり周りの迷惑にならないだろうと判断して認めた。まだ3歳になったばかりのMだが、はっきりとした発音で復唱するので、私たち夫婦は「Mちゃんはバス停名がよく言えるねえ。」と交互に褒めると、Mは得意満面の表情になっていた。スマホで必死にMの写真を撮りながら、Mの知的な発達の速さについつい期待を膨らませる「ジジばか」の私がいた。

 この1か月ほどの週末の休日は、二人の孫たちの成長ぶりを実感する機会が多かった。でも、まだまだその機会は続く。今週末の20日の土曜日は、今年度初のHの参観日があり、私たちジジババも出掛ける予定ある。2年生になったHの授業中の様子を参観するのは、少し心配する面もあるもののやはり楽しみの方が大きい。また、今月末の3連休には、二女とMが泊まりにやってくる。今から今度はどこに連れて行ってやろうかと、楽しみながらいろいろと思案している。孫たちの目を見張る成長ぶりを見ることができる私は、本当に幸せである。少年期には家庭的に何かと苦労が多かった私だが、老年期になってこんな幸せな家族的な境遇を迎えることができて、有難いことだなあとしみじみ感じる日々である。

“多様性”を尊重するって、軽々しく言えないかも…~朝井リョウ著『正欲』を読んで~

 『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著)を読み、著者の瑞々しい感性に強い刺激を受けて以来、私は常に自分の意識を覚醒させて認識の再構成を図っていこうと、なるべく若い世代の作家の小説を意図的に選んで読むようにしている。そのような中で今回チャレンジしたのが、『正欲』(朝井リョウ著)である。本書は、朝井氏が自らの作家生活10周年を記念して著した長編小説で、第34回柴田錬三郎賞や第3回読者による文学賞等を受賞し、2022年本屋大賞にもノミネートされた作品である。累計発行部数が50万部を超えて、2023年には稲垣吾郎新垣結衣等の豪華な俳優陣が共演して映画化もされ、衝撃的な問題作として評価を高めているらしい。

 登場人物の一人が言い放った言葉「自分が想像できる“多様性”だけを礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな。」は、本書のテーマに直結しているキー・センテンスになっている。“多様性”を尊重するという信条をもっていると自認する人でも、自分の想像も及ばない特殊性癖をもった人が身近に存在していたら、蔑視したり生理的に排除したりしてしまうのではないか!そのような厳しく根源的な問いを私たちに突き付けてくるのが、本書なのである。

 

 主な登場人物は、息子が不登校になってしまい戸惑う検事の今井啓喜。地元モールにある寝具店で働く中ある秘密を抱えて生きる契約社員の桐生夏月。学園祭の実行委員を務める中で初恋に気付いてしまった女子大生の神戸八重子。その初恋の相手でダンスサークル所属の美しい男子学生の諸橋大也。夏月のかつての同級生で夏月とある秘密を共有する大手食品勤務の佐々木佳道。

 

 物語の前半では、それぞれに何のつながりもない啓喜と夏月と八重子の日常を描きながら、ある人物の死をきっかけにして3人の糸がいつしか絡まってしまう様が描写されていく。後半は、それに大也と佳道らが関わってくることで、徐々に本書のテーマに物語が収束していく展開になっていく。私にとって、終始息苦しさを感じながら読み進めていかなければならない物語であった。

 

 本書の中で次のような件がある。「まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちらの側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰でもが、昨日からみた対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。」この文章は、自分は普通で常識的だと思っている人々に対する警告になっているが、私自身に対しても他人事ではないぞと詰問しているように感じた。“多様性”を尊重するという信条をもっていると自認している自分の、ある呑気さ加減に喝を入れられた思いである。

 

 最近読んだ『夏目漱石「こころ」をどう読むか』(石原千秋責任編集/河出書房新社)という本の中に、批評家で作家の東浩紀氏が書いた「少数派として生きること」というエッセイが掲載されていた。そこで、「先生」と「私」の同性愛的な表現の豊かさを取り上げて、先生の自殺の原因に自分が同性愛者であることを自覚したことがあるのではないかと述べている。マイノリティとして生きることが辛いのは、自分が少数派だからではなく、誰も最初は自分がマジョリティだと誤解してしまうから、自分がマイノリティだと気付くのに時間が掛かるからではないかと問題提起をしているのである。そうなのだ、自分がいつマイノリティ側になると意識するのか分からない。

 

 では、私たちは“多様性”を本当につくるために、どのような考えを持ち、どのように行動すればいいのだろうか。本書の中に、そのヒントになりそうな一文があった。「自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。」まさにこの考えは、特別支援教育の理念であり実践原理と同じである。障がい者にとって過ごしやすい環境に調整することは、結局誰にとっても過ごしやすい環境設定になる。障がい児の困り感を軽減したり解消したりするための合理的配慮が行き届いた授業=ユニバーサルデザインの授業は、健常児にとっても分かりやすく安心できる授業になる。私たちは自分と異なる他者のことをできるだけ理解しようと努力し、その上で相手の抱える困難さを少しでも無くしていくようにして、全ての人々が「共に生きる世界」を共創していかないといけないのである。

 

 ところが、本書で取り上げられている“多様性”の中身は、私たちの想像を遥かに超える特殊性癖なのである。だから、当人たちにとっての性的対象は別にあるのに、それと関連した小児性欲と疑われ犯罪処罰の対象者にされてしまう。私は自分にとって生理的に忌避したい性癖であっても、その行為が相手の意思に反したり傷つけたりするものでなかったら、その特異な性癖をもつ人であっても差別したり排除してはならないと考える。しかし、その行為が他の犯罪行為と看做されたり、そもそも当人たちがその性癖を他者に認めてもらうことを望んでいなかったりしたら、どのように対応すればいいのだろうか!?

 

 本書で著者から問題提起された“多様性”の中身を、私たちはどのように受け止めればいいのだろう。美しく魅力的な言葉である“多様性”の実相を様々に思い巡らせながら、異質な他者同士の相克的な関係性の厳しさについてリアルなイメージをもつことが、この世に生きる人々全てに要請されていると私は受け止めた。このテーマはあまりに重く、私を押しつぶすようなものだったが、若い世代の著者が提起した根源的な問いに対して、私はこれからも真摯に向かい合っていかねばならないと考えている。

「親和的な秩序」と「疎遠な秩序」をめぐる考察について~村瀬学著『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』から学ぶ~

 若い頃にチャレンジしてみたものの、途中で頓挫してしまった本が数冊かある。その中の一冊に『初期心的現象の世界―理解のおくれの本質を考える―』(村瀬学著)があり、その続編に位置づく『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』に至っては40年近くも積読状態になっていて、本の存在自体が私の意識外に置かれてしまっていた。ところが、65歳を過ぎてから松山市教育委員会特別支援教育・指導員という職に就き、何らかの困り感をもつ子どもに対する適切な関わり方や支援の仕方等について担任の先生や保護者に助言するという立場になった私は、まず発達障害と言われる「自閉スペクトラム症」(ASD)や「注意欠如・多動性障害」(ADHD)、「学習障害」(LD)等の特性について理解しようと、自分なりに研修を進めてきた。しかし、今振り返るとその研修内容は人間学的な視座から見ると、まだまだ表層的なものだったと反省する点が多い。そこで、本年度の教育相談業務がほぼ開店休業になっているこの時期を活用して、忘却の彼方に追いやっていた未読の『理解のおくれの本質―子ども論と宇宙論の間で―』を読み、人間学的な視座に立って障害特性についての理解を深めようと考えた。

 当ブログの以前の記事(2021.8.1付)で、村瀬氏の『自閉症―これまでの見解に異議あり!―』を取り上げて、自閉症のこころの世界についての見解をまとめたことがある。その際に、「自閉症」の原因を訳の分からない「脳障害」や「知覚・言語・認知障害」などに求めて特別視しなくても、身近な自分たちの「記憶」の現象を突き詰めるだけでも、私たち自身のもつ「謎」と共通しているものであることが理解してもらえるはずだと、私は著者の言葉を借りて分かった風なことを綴っていた。しかし、本書の「第二部 理解のおくれの本質」の中の「[二] おくれる子どもたちの世界 Ⅱ 自閉症論批判 二 どんぐりをこわがる子―親和の秩序・疎遠な秩序をめぐって―」という文章を読んで、私は自分が過去に綴ったブログの記事内容は表層的なものであったことを認めざるを得なかった。

 

 そこで今回は、先に挙げた文章中で取り上げている「どんぐりをこわがる子」の事例を要約しつつ紹介し、その後に私の「自閉症」の内面世界に対する理解がどうして浅薄だと判断したのかについて綴ってみようと思う。

 

 著者は、どんぐりをこわがる6歳のDくんの事例を取り上げ、そのこわがる原因について考察している。Dくんのどんぐりのこわがり様は並大抵ではないが、どんぐりを虫と間違えるほどの分別がないとは考えられない。もしかしたら過去の負の経験や心的外傷、無意識等々といった精神分析の持ち込んだ概念の可能性について否定はできないが、一時的にどんぐりに触れることができていた時期があったらしく、現在の時点でこわがるためには現在における動機や理由が同時になければならないはずだと考えた。

 

 著者は、Dくんの生活の中で「どんぐりを異常にこわがる」のと似たような現象を探してみた。すると、「ヨ―グルトを異常にほしがる」という分別の見境のない現象を見つけた。2つの現象の共通点は、一点の破局が全体の破局に及んでしまうこと。確かにDくんはまだことばが出ないし、そういう面ではおくれている子どもであるが、いろいろな面では人のやることをよく見ていて、きちんと真似ができたり、指示通りの行動が取れたりできている子である。だから、施設の職員たちから「力をもっている子」と見られている。彼のもっている力からすると、先のような現象を起こすのはおよそ考えにくいのである。

 

 著者は、これらの現象を「変化への抵抗」や「特定のものへのおそれ」という自閉的傾向の特長と安易にとらえず、それらの現象を子どもの「心の広がり方のしくみ」として理解していく方向で追究していく。そして、私たちを取り巻く世界が常に多元的で重層的であり、そのうちの身近な世界だけを「親和的な世界」として了解しているが、それ以外の世界に対して極めて「疎遠な世界」として理解しているという視点に着目した。私たちが普通「経験を積む」と言っている現象は、見知らぬ世界・見慣れぬ世界を、自分たちが知っている世界として取り込み、「親和的な世界」として馴染んでいく過程なのである。したがって、私たちは誰でも「新しい世界」を体験する際には、「変化への抵抗」や「見慣れぬものへのおそれ」を示す心性を持っているのだと理解されなければならない。

 

 ここで著者が考えたのは、私たちのもつ「親和的な世界の広げ方」である。もしその人が自らの「親和的な世界」だけを秩序だと《確信》している度合いがければ強いだけ、見慣れぬ世界を親和的に感じることは難しくなっているはずである。Dくんも自分の見知らぬ場面、場所、秩序に出会うと、それを親和化することができず「疎遠な世界」として拒絶してしまうのである。こうした「親和的な世界」と「疎遠な世界」の二分化現象が強化されると、「親和的な世界」では物分かりのよいおりこうさんなのに、別の場所や場面では物分かりの大変悪い子として現れてしまうのである。

 

 では、なぜこうした極端な二分化現象が生じてしまうのか。ここで著者は、一般的に言われている「秩序」とは少し違ったとらえ方で「秩序」をとらえる視点を提示する。例えば、自分の机の上や部屋等にも秩序があり、自分の朝の置き方や顔の洗い方、服の着方、喋り方、笑い方、怒り方、歩き方にも秩序があると考える。道路も街並みも景色も秩序である。マーケットも病院も遊園地もまたそれぞれ込み入った多層な秩序をもっている。そう考えると、私たちが「物事を知る」とか「ある出来事を体験する」という時、結局のところ、それらの物事のもつ「秩序」を体験していると言える。そして、「物事=秩序」というものは、必ずや一つの「背景=背後」をもったものとしてそこにあるととらえられる。また、「物事=秩序」というのはどこから始まり、どこかで終わるという「勢い」の中でそれぞれの秩序を見せている。さらに、「秩序」には早い動きをもつものとほとんど動きをもたないように見えるものがある。ただし、私たちはそれらの秩序を共に逆に見積もることができるような世界の見方ができて、その見方を著者は《確信の世界》と呼んでいる。

 

 そこで改めてDくんの場合を考えてみる。彼は世界のもつ多元的な秩序に対して、それらを「動いているもの=背後があるもの」として受け止めすぎる面がある。言い換えれば、彼は「動いていない=背後がない」と感じる秩序が極めて限定されているのである。むろん一般的に子どもの場合は、石ころやお月様にも心があると思うアニミズム的な世界観をもっていることが多く、それらのものを「生きている=出自がある」ものとして受け止めている。しかし、Dくんの場合には、このような世界のもつ動きのひとつずつを次々に固定化し、出自が明らかになった秩序=「親和的な秩序」に持ち込んでいくことができにくい。特定の場面だけを親和化させて、その周りに敷居を作ってしまっているのである。だから、その中では安定し、そこから一歩出ると、そこは見知らぬ世界になって、不安になってしまっているのである。

 

 私たちはDくんがことさらどんぐりをこわがるのは、かつてそれで何か怖い体験をしたからに違いないと思ってしまう。しかし本当のところは、どんぐりそのものを恐れているのではなく、そのどんぐりがある背景をもっており、その背景が何かわからないものとして見えてしまったり、感じてしまったりするところに問題があったのである。著者は、Dくんのような子を見ていて、多元的な秩序の背景を読み取り、そこにすばやく根を下ろしていくことができにくい、繊細で不安定な存在様式を感じ取らないわけにはゆかないと語っている。そして、このような子どもをひとまとめにして、「自閉症」と呼んで特別視するのは、彼らを身近に理解する手がかりを失ってしまうだけだと主張している。

 

 私は、市教委の特別支援教育・指導員という職に就き、発達障害等の特性について理解をして、何らかの困り感をもつ子どもの行動観察を何回も経験する中で、「変化への抵抗」や「特定のものへのおそれ」を示す子どもをすぐにASD的な傾向があると判断してしまうようになっていた。そして、その子の担任や保護者に対して適切な関わり方や支援の仕方等を助言する際に、ASDの対応した定石的な支援方法に基づいて話していた。でも、そのような教育相談のあり方は、個々の子どもをASDとして特別視することを前提としていたのではないか。私は、一人一人の子どもの行動特性をもっと人間学的な視座から解釈する努力をすべきではなかったか。

 

 本年度も終わりが近づいてきた。来年度も現職で仕事をすることができることになったので、改めて特別視支援教育・指導員としての自分のあり方を振り返る時期である。子どもが抱える何らかの困り感を一人の人間としてあるがまま共感的に受け止め、著者の村瀬氏が今回示してくれた「親和的な秩序」と「疎遠な秩序」をめぐる考察のように、人間学的な視座からじっくりと解釈した上で教育相談の場に臨もうと、私は自分の心に強く誓った次第である。

言語の誕生と進化の謎を紐解き、ヒトの根源に迫る探究の書!!~今井むつみ・秋田喜美著『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』から学ぶ~

 探究による学びの過程をワクワクしながら追体験することができる本に出合った。『言語の本質―ことばはどう生まれ、進化したか―』(今井むつみ・秋田喜美著)である。著者の一人である今井氏は、言語と身体の関わり、特に音と意味のつながりが言語の発達にどのような役割を果たすのかという問題に興味を持ち、成人と乳児、幼児を対象に数多くの実験を行ってきた認知科学発達心理学者。もう一人の秋田氏は、大学院生の時から一貫して、他言語との比較や言語理論を用いた考察により、オノマトペがいかに言語的な特徴を持つことばであるかを考えてきた言語学者。今井氏が実験をデザインする時にいつも頼りにしてきたのが、世界中のオノマトペ研究の文献を熟知している秋田氏だったそうである。

 二人の著者たちは、言語のあり方と人間の思考という二つの基地を行ったり来たりしながら、言語学認知科学、脳神経科学など、異なる学問分野をまたいで世界のオノマトペ研究者が行ってきた膨大な研究の成果を俯瞰的に見つめ、一緒に考えていけば、「記号接地問題」「言語習得」「言語進化」「言語の本質」という言語研究の本丸に迫っていけるのではないかと考え、本書の執筆を始めた。執筆に当たっては、二人が思考のキャッチボールをしながら、言語という高い山に挑戦すべく、すべての章を一緒に執筆したと言う。つまり、オノマトペに魅了された二人が「言語の本質は何か」を理解するために探究していった旅について著したのが本書なのである。

 

 ここでいつもなら、本書の中で私が特に心に残った内容の概要についてまとめ、その所感を綴るという流れになるのだが、今回はそうはしない。なぜなら、著者たちの「言語の本質とは何か」を理解するための旅を追体験するワクワク感を、読者の皆さんにぜひ味わってほしいと願っているからである。言い換えれば、探究の過程と結果について具体的に書くことは、これから本書を読もうと考えている読者にとって興醒めの仕儀になってしまうからである。

 

 では今回の記事は何を綴ればいいのか。未読者が本書のどのような情報を得れば読む意欲を掻き立てられるかと、私は想像してみた。探究の過程と結果についてその概要とは言え先に知ることは、ミステリーやサスペンスのストーリーや犯人を先に知ってしまうネタバレと同様になるので、これは避けなければならない。また、私の独断的な所感を主張することも押しつけがましい。いろいろと思索を重ねた結果、私は単純に「本書の構成と最重要ポイントのみ」を綴ることを決めた。

 

 ということで、まずは本書の構成(章立てのみ)を目次から書き写してみる。

〇 第1章 オノマトペとは何か

〇 第2章 アイコン性―形式と意味の類似性

〇 第3章 オノマトペは言語か

〇 第4章 子どもの言語習得Ⅰ―オノマトペ

〇 第5章 言語の進化

〇 第6章 子どもの言語習得Ⅱ―アブダクション

〇 第7章 ヒトと動物を分かつもの―推論と思考バイアス 

〇 終 章 言語の本質

 

 次に、本書の最重要ポイントについてだが、著者たちの「言語の本質は何か」に迫る探究の旅の道中には大きなターニングポイントが幾度かあり、その度に押さえておきたいキーコンセプトがあるので、その中のどれを取り上げればよいか判断に迷ってしまう。しかし、言語の本質を問うことは人間とは何かを考えることになるということを考えると、やはり「オノマトペ」と「アブダクション推理」という2つのキーコンセプトが最重要ポイントになるであろう。

 

 日本の研究者たちは「オノマトペ」を、擬音語、擬態語、擬情語(「わくわく」などの内的な感覚・感情を表す語)を含む包括的な用語として用いているが、欧米では表意語という用語が一般的になっているらしい。だからか、「オノマトペとは何か」を定義しようとすると、かなり難しくなかなか納得する定義には至っていない。ただし、現在、世界の「オノマトペ」を大まかに捉える定義としては、オランダの言語学者マーク・ディンゲマンセによる「感覚イメージを写し取る、特徴的な形式を持ち、新たに作り出せる語」という定義が広く受け入れられている。

 

 この定義の中では、とくに「写し取る」という特徴が鍵である。「オノマトペ」は基本的に物事の一部を「アイコン的」に写し取り、残りの部分を換喩的な連想で補う点が、絵や絵文字などとは根本的に異なるのである。ここに「オノマトペ」の言語性が浮かび上がってくる理由がある。また、言語的な特徴を多く持ちながら言語ではない要素も併せ持つという性質から、言語は身体とつながっているという考えと合致し、それは「記号接地問題」「言語習得」に関する内容にも発展していくのである。これらの議論を踏まえると、「オノマトペ」は本書における最重要なポイントの一つになるのである。

 さらに、「言語進化」「言語の本質」へと議論を深めていく際のキーコンセプトになるのが、「アブダクション推理」である。「オノマトペ」に潜むアイコン性を検知する知覚能力だけでは、言語の巨大な語彙システムに行き着くことは不可能である。「オノマトペ」から言語の体系の習得にたどり着くためには、今ある知識からどんどん新しい知識を生み、知識の体系が自己発生的に成長していくサイクル(これを「ブートストラッピング・サイクル」という)を想定する必要がある。この「ブートストラッピング・サイクル」を駆動する立役者こそが、「アブダクション推理」なのである。

 

 論理学では、「推論」と言えば演繹推論と帰納推論であるが、哲学者のチャールズ・サンダース・バースはそれらに加えて「仮説形式(アブダクション)推理」という推論形式を提唱した。演繹推論とは、ある命題(規則)が正しいと仮定し、またその事例が正しいときに、正しい結果を導くという推論。それに対して帰納推論とは、同じ事象の観察が重なったとき、その観察を一般規則として導出する推論のこと。それらに対して、「アブダクション推理」とは、観察データを説明するための仮説を形成する推論であり、推論の過程において直接には観察不可能な何かを仮説し、直接観察したものと違う種類の何かを推論するものである。したがって、帰納推論と「アブダクション推理」は連続し混合して、演繹推論とは違って新しい知識を生む可能性を秘めているのである。

 

 この「アブダクション推理」の起源を探っていき、人間と動物とでは推論能力にどのような違いがあるかを考えていけば、なぜヒトだけが言語を持つのかという問いの答えが見つかるかもしれないのである。そのような意味で、本書のもう一つの最重要なポイントとして、「アブダクション推理」というキーコンセプトを取り上げたのである。

 

 以上、本書における2つの最重要なポイントについて綴ってみたが、この時点でもうネタバレのフライングをしてしまったかもしれない。しかし、本書における著者たちによる「言語の本質とは何か」に迫る探究の旅はもっともっと豊かなエピソードが満載で、アッと唸ってしまう驚きやドキドキする楽しみを味わわせてくれるものである。未読の読者の皆さんも、著者たちと共にワクワクする探究の旅に同道してみませんか。

文化政治としての哲学と「感情教育」による「連帯」の可能性について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ③~

 今回は、いよいよ『偶然性・アイロニー・連帯』の3つ目のキーコンセプトである「連帯」について取り上げる。2月のEテレ「100分de名著」の放送やテキストでは2回分の内容になるので、講師の朱氏の解説を要約するためには、なりの力技が必要になる。私の力量では大変困難な作業になり、文脈が整わない記事になりそうなので、この点について読者の皆様には寛容な気持ちで受け止めて、各自で行間を埋めつつ読んでいただけたら幸いである。

 

 前回、確認した「人間や社会は具体的な姿形をとったボキャブラリー」という本書の中心的なテーゼは、ことばづかいが変われば人間も変わるし、社会も変わるということを意味していた。これをローティはのちに、「文化政治しての哲学」と呼ぶようになった。そして、文化政治を実践することが、真理の探究を放棄したあとの哲学の使命だと考えていた。しかし、この文化政治の実践は、単に理想的なユートピアを現出するものだけでなく、リベラリズムが最も避けるべきとする「残酷さ」と結びつくこともあると語っている。

 

 このことに関連して、ローティは「再記述はしばしば屈辱を与える」と言っている。また、虐殺における言語の働きについての講演では、「人権という概念は実は紛争の抑止や解決に役立っていない。」とも言っている。その理由は、人権が本質だととらえるとそもそも相手が私たちと同じ人間だという感覚がない場合は、それは全体において機能しないことになり、またその立場を採ることによって非-人間とされた者に対する残酷さは一層増してしまうからである。彼は、このような事態を惹き起こさないためには、「人権基礎づけ主義」や「人権本質主義」を批判し、基礎や本質を求める姿勢を放棄することが必要であり、それこそがリベラル・アイロニストのあり方だと説いている。

 

 ここからローティは、リベラル・アイロニストにとって重要なのは実は哲学ではなく、文学やジャーナリズムなのだという、あっと驚くような主張を展開する。一般に哲学は公共的な正義に、文学は私的な関心に関わっていると考えられるが、リベラル・アイロニストの文化ではそれが入れ替わると言う。哲学が本質主義を取ることはもはやできないからこそ、小説やエスノグラフィが他者の苦痛に対する感性を高めるという公共的な目標のために役立つ。そして、小さな共感や、一人一人個別の人間に対しての同情やシンパシーといったものを手がかりにして「連帯」をつくっていかざるを得ないと言うのである。

 

 では、基礎や本質という話を抜きにして、どうやって「連帯」の可能性を探っていけばいいのか。私たちはどうすれば「残酷さ」に対する感性を磨くことができるのか。ローティは上述したように、その手がかりをフィクションやエスノグラフィ、ジャーナリズムに求めたのである。そして、理論ではなく、感情に訴える文芸や報道になしえるものをのちに「感情教育」と呼び、その教育は様々な種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人間と考える傾向に歯止めをかけることができると説いたのである。共感によって「われわれを拡張せよ!」これが彼の考える希望としての感情教育である。

 

 ローティは、本書の第Ⅲ部「残酷さと連帯」において、ウラジミール・ナボコフ著『ロリータ』とジョージ・オーウェル著『1984年』という2つの小説を取り上げて、その詳しい読み解きを披露しながら、フィクションは残酷さに直面した被害者への共感のみならず、「われわれは加害者にもなりうる」ことへの想像力の醸成にも役立ち、「われわれ」を拡張してくれると述べている。彼の言う「連帯」とは、この「われわれの拡張」のことなのである。

 

 「連帯」は「人間らしさ」という本質を基礎として成り立つのではなく、「偶然性」のかたまりとして私たちがたまたま持つようになった終極の語彙によって感じられるものである。そして、その終極の語彙とは決して固定的なものではなく、他人の終極の語彙に触れたり、小説やルポタージュを読んだりすることによって再記述されうる、拡張しうるものなのである。

 

 本書の第Ⅲ部第9章には、「連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人権、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要でないとしだいに考えていく能力、私たちにとってはかなり違った人びとを『われわれ』の範囲のなかに包含されるものと考えていく能力である。」と記載された一節がある。このような「連帯」は、実際は一歩一歩進むしかない慎重な歩みとなるであろう。しかし、伝統的な哲学が自明視した本質主義を棄却した以上、人々の「連帯」はまさにいまここにある小さな断片を手がかりにつくるしかない。

 

 「われわれ」を少しずつ拡張していくことによって、誰かを黙らせることを目指すのではなく、会話そのものを守っていく。ローティの主張は一貫していて、本書の3つのキーコンセプトである「偶然性」「アイロニー」「連帯」がすべてつながってくる。ひとつの正しい立場、正しい主張へと読者を説得するものではなく、むしろそうした「正しさ」を解体し、自身にとって重要な「終極の語彙」を再記述へと開くことを促すことにこそ、ローティ哲学の最重要ポイントがある。・・・彼の旅路を振り返ったとき、その哲学は「文化政治」として、人類の会話を絶やさぬよう守るための道具立てを提供するものであり、それと同時に、私たちの「終極の語彙」を改訂に開くことの醍醐味と魅力を伝えて、絶えず再記述によって自己創造をし続けることのモチベーションもまた教えてくれる、そのような人生をかけた物語でもある。・・・朱氏のこのような結びの言葉が、私の胸の奥に深く刻まれた。

「連帯」への希望をつなぐ「リベラル・アイロニスト」について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ②~

 今回は、2月のEテレ「100分de名著」で取り上げられた『偶然性・アイロニー・連帯』の2つ目のキーコンセプトである「アイロニー」について、テキストの中で朱氏が解説している内容を私なりに大胆に要約しようと思う。特に「リベラル・アイロニスト」というあり方に関する内容が中心になるが、まずはローティの言う「アイロニー」という言葉の意味から入っていこう。

 

 アロニーという言葉は一般的には「皮肉」「冷笑的」「斜に構えた」などというネガティブな意味合いを含んでいるが、ローティが言う「アイロニー」は18世紀末~19世紀はじめのドイツ・ロマン派の批評家シュレーゲルらが用いた「ロマンティク・アイロニー」という言葉に近い意味であり、芸術家が自らの作品を高みから見下ろし、反省し、さらなる創造につなげている態度を指すものである。つまり、彼の言う「アイロニー」は語り直す態度というものに力点が置かれていて、簡潔に言うなら「自己に対して徹底的に懐疑的であること」を意味するのである。

 

 ローティは本書の第Ⅱ部「アイロニズムと理論」第4章「私的なアイロニーとリベラルな希望」において、アイロニストを次の3つの条件を満たす者であると定義している。

① 自分がいま現在使っている「終極の語彙」(それを否定されるともう同語反復以外では二の句が継げなくなる類の語彙)を徹底的に疑い、たえず疑問に思っている。

② 自分がいま使っている語彙で表わされた議論は、こうした疑念を裏打ちしたり解消したりすることができないとわかっている。

③ 自らの状況について哲学的に思考するかぎり、自分の語彙の方が他の語彙よりも実在に近いとは考えてはいない。

そして、彼は「アイロニーの対極にあるのは常識である。」とも言っている。自分は正しい、なぜなら自分の考えは人間としての常識だからと言ってはばからない人は、アイロニストの対極にある人である。それゆえ自身の終極の語彙が「地域特有の性格が強い」ものだと自覚することは、アイロニストへの第一歩になるのである。

 

 しかし、常識など一切無視していいと考えるのは極端であり、ある程度の「常識の共有」が必要なのではないか。このもっともな指摘から見えてくるのは、社会生活に結びつく常識と私的な生活に結びつくイロニーという構図であり、つまるところ公共的な社会正義と私的な利害関心の対立という政治的な問題に発展していく。彼は、本書を書く際にこの問題に決着をつけるというモチベーションももっていて、このことが「連帯」を論ずるにあたっては不可欠だと考えていたのである。そして、本書を執筆する前から「公」と「私」は統合する必要がなく、むしろそうすべきではないという結論に至っていたのである。

 

 自由に自己創造を行うということ、人間は連帯しなければならないということ、この2つは実は理論的に交わらないものだと認めなければならない。そう認めた人のあり方を示す語が「リベラル・アイロニスト」であるとローティは言う。ここで彼が用いている「リベラル」の定義は、「残酷さ(暴力など物理的なものだけでなく、人を辱めたり貶めたりする心理的なものも含む)こそが私たちがなしうる最悪なことだと考え、それを避けることを求める思想」のこと。また、「アイロニスト」については、「自分にとって最も重要な信念や欲求が偶然の産物だということを認められる人物」と定義している。したがって、「リベラル・アイロニスト」とは、公共的なリベラリストと私的なアイロニストとが一人の人間のなかに同時に存在しうるあり方を意味しているのである。

 

 また、このような「リベラル・アイロニスト」は自己の偶然性を認めるのであるから、自らの信念は何らかの本質や必然に結びついているとは考えない。だから、複数のボキャブラリーをある特権的な基準に照らして、どちらがより真に近いかという意味での優劣をつけるようなことはできない。つまり、人間や社会もそういうものだと考える。このような認識は『偶然性・アイロニー・連帯』の中心にある「人間や社会は具体化した姿形をしたボキャブラリーである」というテーゼに表われており、その帰結はことばづかいが変われば人間は変わるし、流通することばづかいが変われば社会も変わるということになる。ここに、ローティが会話や語彙にこだわる背景がある。

 

 ローティ哲学にとっては、公私の区別が決定的に重要であり、それはリベラルの目標である「残酷さを最小化する」ことにも極めて有用なのである。もし公私の統合の要求を放棄すれば、私たちは公的にも私的にも会話を続けることができる。そして、会話を続けるなかで、私たちは他者の語彙に触れ、自分の「終極の語彙」を再記述に開いていくこともできる。この再記述の余地があるからこそ、私たちはそこに、他者とのつながりや重なりという希望を見出すことができるのである。つまり私たちは、「リベラル・アイロニスト」であるからこそ、「連帯」への希望をつなぐことができるのである。

 

 しかし、先に述べたような人間・社会観は、単に理想的なユートピアだけを現出させるものではなく、そこには負の側面もある。そこで次回は、3つ目のキーコンセプトである「連帯」についての朱氏の解説内容を要約する中で、他の2つのキーコンセプトである「偶然性」や「アイロニー」におけるネガティブな面にも目を向けていくことになるであろう。

「哲学が人類の会話を守る」というテーゼと「偶然性」について~「100分de名著」におけるリチャード・ローティ著『偶然性・アイロニー・連帯』のテキストから学ぶ①~

 早いもので今年も3月に入ってしまったが、2月のEテレ「100分de名著」で取り上げられたのは、『偶然性・アイロニー・連帯』(リチャード・ローティ著)だった。私は大変興味があったので先月初旬にテキストを購入し、休日には4回分に構成された解説を予習的に読みながら、各回の放送録画をその都度視聴していった。久し振りに「100分de名著」の放送を活用して自ら学ぶ経験をしてみて、改めて本番組の面白さと醍醐味を味わった。講師の大阪大学招へい教員で哲学者の朱喜哲(ちゅ・ひちょる)氏の要領を得た分かりやすい解説と、司会者の一人タレントの伊集院光氏の相変わらずの的確で具体性に富む解釈によって、私の知的欲求は十分に満たされたのである。

 そこで今回から3回続けて、この充実した学びの中で特に私の心に印象深く残った内容の概要についてまとめてみたいと思う。1回目の今回は、本書の著者であるアメリカの哲学者リチャード・ローティ(1931~2007)の哲学全体を貫くテーゼに触れた上で、本書のキーコンセプトである「偶然性」に関する内容を要約してみよう。

 

 ローティは、英米分析哲学言語哲学の系譜に属しているが、その中で最も異端視されている哲学者である。その理由は、彼自身初の単著『哲学と自然の鏡』において、それまで連綿と積み上げてきた伝統的な哲学や分析哲学言語哲学を全否定するような荒業をやってしまったからである。伝統的な哲学等の営みは「真理を探究すること」であり、それは最終的には真理に到達することを目指すものと言える。だから、探求が終わればそれ以上の議論や会話は不要になる。しかし、彼はそれでいいのか、哲学の使命はむしろそうした議論や会話を絶滅しないようにすることではないのかと考えて、「アンチ哲学」を唱えたのである。

 

 では、哲学は何をすべきだと彼は考えたのか。それを明らかにしたのが『偶然性・アイロニー・連帯』なのである。つまり、本書はデビュー作で放った問いに自らが答えてみせた実践の書なのである。本書の構成は、タイトルにある3つのキーコンセプトに対応しているが、それぞれの言葉は何を意味していて、なぜ私たちが議論や会話を続けるために必要なものだと言えるのか。指南役の朱氏は、それを4回にわたった放送で解説してくれている。この3つのキーコンセプトの主な意味内容とその必要性の根拠なるものについて、私は今回から3回に分けて朱氏の解説の要約をしてみたいと考えている。

 

 さて、第1回の今回は、1つ目のキーコンセプトである「偶然性」についての要約にチャレンジしてみよう。ローティが『哲学と自然の鏡』を通して提唱したのは、「歴史主義」である。「歴史主義」とは、世界に永遠不変の真理や究極の本質などというものはなく、それはその時々の言葉によって作られるものだという主張。このことを言い換えると、それは不変の真理によって基礎づけられた「必然」ではなく、「偶然性」によるということ。彼はデビュー作で、広い意味での私たちの言語(ボキャブラリー、概念、ことばづかい)といったものが、歴史的な産物であるという意味において偶然的なものであり、私たちの自己のありようもまた偶然的なのだと論じたのである。

 

 本書の第Ⅰ部「偶然性」の第1章「言葉の偶然性」におけるローティの議論の要点は、私たちはボキャブラリーを媒介にして真理(必然)に近づくのではなく、ボキャブラリーを駆使し、ただ単に、それゆえ自由に、自分を「再記述」(抽象度を上げて真理に近づくというよりは、並列的な言い換えによって理解の“襞”を増やしていくこと)するというもの。言葉を「減らす」方法ではなく、「増やしていく」方向に価値を見出すことが、言葉の偶然性を認めることであり、このことによって言葉を使って自由に自己創造ができるというポジティブな面も開かれていく。「偶然性」に彼が見出している可能性がここにあると言える。

 

 続く第2章「自己の偶然性」において彼は、「人が自分という存在の原因の根拠をしっかりと辿る唯一の方法は、自分の原因について物語を新しい言語で語ることなのだ」と述べている。そして、自己もまた偶然性のもとで形成されること、その自己を語る言葉も再記述されうる(偶然性を帯びている)ことを、フロイト精神分析の知見を取り上げながら論じている。

 

 そして彼は第3章「共同体の偶然性」へと議論を進める。彼は、道徳を人間に共通して備わる本質的なものとして考えるのではなく、それはあくまで特定の共同体における内輪の約束にすぎないと考える場合のみ、道徳性は維持されると語っている。彼の構想する「リベラルなユートピア」という社会の描像は、目的はバラバラで、「同調を避け」ているけれど、お互いを保護するという意味では協力することができる者たちがそれでも何とかやっていく社会であり、それを構成する市民に必要なのが「自己の偶然性」の認識なのである。お互いに偶然的な存在だからこそ、何かしら一緒にやっていく「連帯」の可能性が出てくるのである。しかし、彼は「偶然性」が「連帯」の契機になるには、「アイロニー」についての議論を経由することが不可欠だと言っている。

 

 次回は、この「アイロニー」というキーコンセプトについて朱氏の解説の要約をしてみようと思う。それまで、しばらくの時間の猶予を・・・。

私たちにとって「推しを推すこと」に代わることは何?~宇佐見りん著『推し、燃ゆ』を読んで~

 文学には、純文学と大衆文学との区別があると思うが、私は推理小説や時代小説等の大衆文学の作品が好きで、どちらかというと芸術性の高い純文学の作品は苦手である。その理由は、文章表現における芸術性というものがよく分からないからである。純文学の中の豊かで個性的な言葉遣いや独自性に満ちた比喩的な表現等に接しても、それらから著者が表現したい表象や心情等を読み取り解釈するという能力が乏しいのだと思う。だから、私は芥川賞より直木賞の受賞作品の方を好む傾向がある。芥川賞受賞作品は、よほど何かのきっかけがないと読まないのである。

 

 そんな私が、今回、第164回(2020年度下半期)芥川賞受賞作品『推し、燃ゆ』(宇佐見りん著)を読んだ。なぜか?それは、すでに文庫化されて書店の平場に並んでいたこと、本書の装丁の不思議な美しさに魅了されたこと、そして何よりもタイトルに興味を惹かれたことなどが理由である。もちろん「推し」という言葉については、「ファンが好きな人物」とか「オタクが執着している対象」とかという程度の理解はあった。しかし、「燃ゆ」という言葉の意味はつかみ切れなかったので、「推し」が火事にあった物語?という的外れなイメージをもっていたのである。

 

 正直言うと、私は誰かのファンになったり何かのオタクになったりするという心情がよく理解できない。でも、かく言う私が当ブログの以前の記事で、自分のことを自嘲気味に「思想・哲学オタク」と使用したことがあるが、それは疑似的であることを自覚してのこと。「推し」の追っかけをしたり、関連グッズを収集したりするなど、好きになった人物や対象に固執するような本物の言動を取ったことは今までにないと思う。ただし、好きな作家や学者の本をつい買ってしまうという傾向はあるが・・・。

 さて、本書の内容に少し触れておこう。物語の主人公は、アイドルの上野真幸を「推す」、高校生の山下あかり。彼女はアルバイト先ではミスが多く、学校では成績が悪く、家庭では家族から怠け者扱いをされるなど、様々な不遇感を抱えて悶々とした日々を過ごしている。でも、バイト代のほとんどを「推し」の所属するアイドルグループのライブチケットやDVD、CDなどのグッズに充てて、「推しを推すこと」でままならない日常を何とかサバイブしていた。ところが、ある日「推し」の真幸がファンを殴るという事件が起きてネットが炎上して(燃えて)しまい、結局は引退へと追い込まれていく。この事態に伴って、彼女の日常の歯車が少しずつ狂い始めていく・・・。

 

 本書の記述の中には、「チェキ」や「スクション」などという私には聞き慣れない言葉が散見される。私はやはり20代前半の女性が書いた物語だとやや困惑しながら、それらの言葉をパソコンの検索機能を使って調べてみる。すると、「チョキ」とは「1998年に登場した、取ったその場でプリントが楽しめるインスタントカメラ」のことらしい。また、「スクション」とは「スクリーンショットの略語で、スマホに表示された画面をそのまま1枚の画像として保存できる機能」のことらしい。そんなことも知らんのかい!とツッコミを入れられそうだ。さらに、<とりま明日会見ってことでいいの?>なる文章の「とりま」って何?という始末。これは「とりあえず、まぁの略語で、2000年代前半から登場したらしく、若い世代では一過性の流行語ではなく、今でも当たり前の言葉として使われている造語」らしい。いや~、これも知らなかった!

 

 自分が知らない言葉や表現等に出合うと、文章を読み進めるのが億劫になってしまうが、最近このような場合には読み飛ばすようにしている。それは、特に純文学を読む際に内容を正しく理解しようとするよりも、文体や文脈のもつ著者独自の個性のようなものを感じ取ろうとする方がいいかなと考えるようになったからだ。今までは理性的に作品を理解しようとしていたために読書を苦行のように感じていた。だから、もっと気楽に純文学を楽しむには理性より感性に重心を移した読書法の方がよいのではないかと思うようになったのである。

 

 今回、そのような読書法で本書を読み通してみると、主人公の不可解で息苦しい言動とは裏腹に、私は著者の文体や表現方法等に意識が向いていき、ワクワクした気分に浸っていた。「これって、初めての感覚だな。」と、ちょっと興奮したのである。特に若い世代の純文学を読む時には、この読書法がいいのではないか。私は何かに開眼したようになり、この勢いで本書の読後所感も綴っていきたくなった。

 

 主人公のひかりは、「推し」が所属するアイドルグループのライブに参加したり、「推し」の関連グッズを買ったり、「推し」に関するブログを綴ったりするという「推しを推す」活動によって、輪郭のぼやけた不安定な自我の崩壊を辛うじて防いで何とか生きていた。ところが、「推し」がファンを殴るという事件を起こしたことがきっかけでネットが炎上して(燃えて)しまい、引退に追いやられてアイドルという存在でなくなってしまう。そのために、彼女は自分が一体化していた「推し」という対象を喪失する事態に陥り、一気に奈落の底に向かっていくことになる。

 

 つまり、日常的な苦痛を抱えている高校生のひかりにとって、「推しを推すこと」は今のアイデンティティを辛うじて保つことができていた生の“背骨”そのものだったのである。その生の“背骨”自体が、「推し」の存在が消滅することで崩壊してしまう。これからひかりは、真幸以外の「推し」を見付けようとするのか?否、それはひかり自身が否定していた。とすれば、ひかりは「推しを推すこと」以外の生の“背骨”を見出すことができるのだろうか?

 

 本書の解説で作家の金原ひとみ氏は、「あかりにとって推しとは生きる糧であり、術であり、目的である。そして同時に、今を生きる多くの人にとって推しが切実なものであるという事実は、私たちが生きる社会の寄る方なさを表している。(中略)最後の砦であった家族すら解体され個として生きる他ない人々は何を求めるのか。何と共に生きることを選ぶのか。」と書いている。今を生きる私たちにとって「推しを推すこと」に代わることは何なのだろうか?それを問い続けて自分なりの納得解を見出すことは、私たちにとって逃げることができない切実な課題なのではないだろうか?

子育てに関する常識的な考えを鵜呑みにすることの愚かさを知る!~本田秀夫著『ひとりひとりの個性を大事にする にじいろ子育て』から学ぶ~

 私には、ともすると子育てに関する常識的な考えを十分に検討し直さないまま鵜呑みにしてしまう傾向があると思う。例えば、「あいさつが基本である。」「たくさんの言葉掛けをする方がよい。」「スマホ育児はよくない。」等々、どれも常識的な子育ての考えだと信じて疑わなかったが、それらに対して「そうでもないのではないか。」と疑問を呈している“目から鱗”の本に出合った。それが今回の記事で取り上げる『ひとりひとりの個性を大事にする にじいろ子育て』(本田秀夫著)である。

 本田氏については、以前の記事でも何度か取り上げた本の著者なので、読者の皆さんもご存じの方が多いのではないだろうか。『発達障害―生きづらさを抱える少数派の「種族」たち―』『子どもの発達障害―子育てで大切なこと、やってはいけないこと―』『学校の中の発達障害―「多数派」「標準」「友達」に合わせられない子どもたち―』等の著者であり、医学博士・児童精神科医の方である。その本田氏が、2013年7月~2017年8月まで山梨日日新聞に連載していた「ドクター本田のにじいろ子育て」というコラムを整理し、ある程度共通するテーマを含む原稿をまとめて章立てし直したのが、本書なのである。

 

 私は本書の中にある、上述したような子育てに関する常識的な考えに疑問を呈しているコラムを読んで、何度もハッとさせられた。あまり深く考えずに教育者としての常識だと思っていた考えが、私の認識の中にはいかに多いか。私は改めて問い直してみる必要性を感じた。以下、その事例を紹介してみたい。

 

 まず、「あいさつは基本だ。」という考えについて。著者は、あいさつの効用を認めつつも、世の中にはアガリ症の人や大声が苦手な人、人見知りが強い人等がおり、それらの人にとって「あいさつが基本」と言われるのは大変困ることだと指摘する。また、あいさつは上手だが仕事はサボってばかりという人もいれば、あいさつは苦手だが仕事は真面目にこなすという人もおり、人物として評価すべきはトータルな人柄や仕事の内容であって、決してあいさつではないと書いている。さらに、あいさつを重視する人の中には、「元気よくあいさつする人に悪い人はいない。」とまで言う人がいるが、どちらかというと、うわべだけのコミュニケーションの巧みさで人を騙すような人も多く、あいさつが苦手な人の中には人見知りが強く世渡りが下手だが実直な人も多いのではないかと疑問を呈している。その通りだなあと思う。私は「あいさつは基本だ。」と声高に言うことだけは少し控えようと反省した。

 

 次に、「たくさんの言葉掛けをする方がよい。」という考えについて。著者は、「乳幼児期の子どもにたくさん言葉掛けをする」ことは間違いだとはっきりと否定している。そして、その理由を二つ挙げている。一つは、言葉の「物事に名前を持たせる」という役割の面から考えて、言葉の量を増やすとある物事の名前が一体どれになるのか分からなくなってしまうからというもの。もう一つは、言葉の「他人にメッセージを伝える」という役割の面から、大人が大量の言葉を投げ掛けてくると子どもはうっとうしく感じ、相手とコミュニケーションしたいという自然な気持ちを萎えさせてしまうから。確かに、乳幼児期の子どもに対する言葉掛けは、必要最低限でもいいのかもしれない。私の二女は寡黙なタイプで、幼い長男(私にとっては二人目の孫Mのこと)に対してあまり言葉掛けをしなかったので、私は「もっと言葉のシャワーを浴びせてあげる方がいいよ。」と常識的なアドバイスをしたことがあったが、それは適切だったのだろうか。その後のMの言葉や精神的な成長ぶりを見ていると、二女のMに対する関わり方は適切だったと納得できる点が多い。これまた反省!

 

 最後に、「スマホ育児はよくない。」という考えについて。著者は、スマホ育児を問題視する代表的な意見を二つ挙げている。一つは、「スマホ育児によって親子のスキンシップが減り、子どものコミュニケーションの発達が遅れる。」という批判。それに対して、著者はスマホがスキンシップ減少の原因ではなく、スキンシップを減らしたいという親の需要を満たす手段になっていることが問題だと指摘している。また、コミュニケーションが苦手な一部の発達障害の人に中には、対人コミュニケーションよりスマホが好きだから、結果としてスマホで遊ぶ時間が長くなっている人もいて、彼らにとってスマホは知識や教養を身に付けるための貴重な手段になっているとも言っている。

 

 もうひとつの意見は、「スマホ依存になる。」という批判。それに対して、著者はスマホ依存になる人はごく一部に過ぎず、スマホばかりやる子どもの多くは他に好きなことややりがいを感じることがなくなっていることが本当の問題だと指摘している。だから、「スマホ以外に好きなことがあれば特に問題はない。」と言っている。教員をしている私の長女は公私共に多忙な生活を送っているので、小学1年生の長男(私にとっては初孫Hのこと)と関わる時間が少なく、Hは一人でゲームをしたりYoutubeを見たりする時間が長くなっている。私の妻は「Hがゲーム依存症になってしまったらいけないので、もっとする時間を制限する方がよい。」と常識的な助言をしていて、私もつい同調的な態度を取ってしまっている。しかし、HにはゲームやYoutube以外にも運動や玩具・言葉遊びなどが好きで、縄跳びやけん玉遊び、ワードバスケットゲームなどが大変得意である。だから、私たちの心配は単なる杞憂なのではないかと思っている。もっとHの生活習慣やリズムの方に配慮して、大人たちのよりよい関わり方について長女と一緒に考えていくようにしたい。

 

 ここまで本書を読んで、私がともすると子育てに関する常識的な考えを鵜呑みにしてしまっていたことを知り、反省する内容を綴ってきた。それにしても、私が常識だと思っていることの中には、子育てに関することだけでなく、その道の専門家や達人と言われる人たちが語った言説を十分に精査しないまま鵜呑みにしていることがあるかもしれない。また、高度情報化社会の中でSNSの爆発的な進展や生成AIの飛躍的な進歩等に伴い、不確かな事実のまま流れている情報やフェイクニュースなどに触れることも多くなっており、それらを十分に精査せず鵜呑みにして受け入れ安易に他人に伝えてしまうことは、結果として他人を騙したり傷つけたりしてしまうかもしれない。世の中にはさも事実や真実かの如く溢れかえっている情報があることを認識し、常に慎重かつ意識的に取り扱うことが求められている。さらに、自分の認識を絶対化せず、常に相対化しておく心の余裕も必要だなあと、今回改めて自覚した次第であります。