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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「胃弱」が意味することについて~「100分de名著」における夏目漱石著『道草』に関する解説内容から学ぶ~

     3月のNHK・Eテレ「100分de名著」で取り上げられていた「夏目漱石スペシャル」の放送はもう終わったが、前回の記事はその第2回放送分、『夢十夜』に関する阿部公彦氏の解説内容から学んだことを綴った。そして、私がそのブログ更新についてTwitterで呟いたところ、何と!講師の東京大学教授の阿部氏本人がTwitterで取り上げてくださった。おかげで、このブログのPV数が一挙に増え、私のテンションも一気に上がった。そこで、今回も私自身の複雑な生い立ちや青年期の悶々とした内面的葛藤などと重なる内容が含まれていた第3回放送分、『道草』に関する阿部氏の解説内容から学んだことを綴ってみたい。

 

 阿部氏は、『道草』を「胃弱小説」だと評している。その理由として、作品の冒頭に示唆された無限大の不安や恐怖が、慢性的な胃部不快感のエピソードを通して「胃弱」という型の中に収められ、少しずつ鎮められていく物語の展開を挙げている。つまり、『道草』は胃部不快感を得た主人公の健三が、そのおかげで無限大の闇からこの世に連れ戻される小説なのである。ただし、大事なのは胃部の不快感がいつもそれ以上の何か、言い換えれば何かの「兆し」を示すもののように描かれていることである。例えば、健三が姉から食べたくもない海苔巻きを無理矢理に勧められたり、金の無心をされたりする場面。肉親からの逃れられない圧迫感が、まるで胃部不快感のような重みとともに健三を苦しめるように感じられる。また、この内側からの不快感は、養父の島田に対する感情とも通じている。島田の使いの者が訪ねてきたことを知らされる場面。食欲なく床についている健三は、それを生理的、身体的な不快として受け取る。うまく言葉にならない「嫌悪感」に、慢性的な胃部不快感という「居場所」を与えることで物語は前に進むのである。さらに、この傾向は健三が幼少期のことを思い出す場面にも表れる。島田のうとましさが「腐った泥」や「嫌な臭」となって表れた心理的描写。ここにも嫌悪感が滲み出しているが、特にそれが生理的な不快感―嘔吐感を催すようなそれ―と結びついているのが『道草』の特徴であると、阿部氏は解説している。

 

 このように『道草』のいくつかの場面には、ゴシック的と言ってもいい異界や魔界の不気味さがたっぷりと出ている。しかし、前半のほとんど無限大の不快感や不安は、後半になって夫婦関係のもつれや胃部不快感として具体性を持つようになる。主人公の健三の病が目に見えるようになる。それでも、健三の日常はあいかわらず闇をたたえている。その一つが、健三の幼少期の思い出の描写。子どもが魚を釣るという牧歌的な場面であるはずが、糸を引っ張る不気味な力や、死んだ状態で水面に浮かぶ緋鯉のイメージからは底知れぬ気持ち悪さが伝わってくる。この場面において緋鯉が死体として登場することに、阿部氏は注目している。そして、緋鯉の死体と出会って健三が気持ち悪いと思ったのは、彼が緋鯉を殺した過去の自分と出会ったからではないかと独自の解釈をしている。このような場面に限らず、漱石が恐怖の感情を描くとき、「過去からの懲罰」というイメージが繰り返し出てくる。この「過去からの懲罰」という感覚は、お腹の痛み、胃部の不快の感覚とよく似ている。というのは、多くの場合、胃腸の不具合は食後に訪れるからである。漱石にとって、胃のむかつきが過去の自分に起因する痛み、「過去からの懲罰」という形をとることは多かったのではないかと、阿部氏は鋭く洞察するのである。

 

 最後に、阿部氏は次のようなまとめを行っている。漱石の病には、精神の病と胃の病の二系統があった。精神の病は自分をまるごと呑みこんでしまうような果てしない闇と感じられた。未知のものへの不安も伴う。これに対し、胃病のほうは慢性的で日常的。いつものやつがやってきたという既視感がある。つまり、「精神病の不安が未来的」であるなら、「胃病は過去からの集積」を暗示する。漱石にとっては、未来の不安よりも過去の「片付かない」という不快感の方が安心だったのかもしれない。「胃の病気がこのあたまの病気の救い」という言葉はそういうことだったのではないか。胃病のおかげで健三は不健康な健康さの中で、片付かないがらくたの中で、一服の安定を得た小説として『道草』を読むことができると締めくくっている。

 

 この『道草』という小説は、漱石の自伝的事実に基づいて「私生活」を描いているが、単に私小説作家の赤裸々な告白とは違っている。上述したような捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚を描いたものである。しかし、それは「精神病の不安を胃病の不快感で隠すような、不健康な健康さを何とか保っている物語」なのではないだろうか。少なくとも阿部氏はそのように解釈していると思われる。この解釈を踏まえて私なりの言い換えをすれば、『道草』は「胃弱」の意味することを表現しつつ、「過去の不快感によって未来の不安がかき消され、現在の魂がかろうじて救われる物語」ということになる。また、別の表現にすれば、近代的個人主義に立脚した実存的な不安を抱えた私たち日本人が、「胃弱」の意味すること、つまり「過去からの懲罰」を意識することで、何とか「不安や恐怖に満ちた現在を生きようとする意志」を保っている日常生活を描いたものになる。さらに、私の勝手気ままな解釈に基づけば、100年以上前に生きた漱石が、近代的な人間観や価値観の中で生きる現代の私たちの複雑な心理情況を見抜いて、「日本人は自己に自閉する“実体的な個人”として生きるより、開かれた自己である“関係的な間人”として生きる方が、日本的な風土の中ではまだマシな生き方ができるのでは…。」と呟いているような小説と言ってもいいのではないだろうか。これは、素人ゆえのあまりに意訳的過ぎる解釈なのか…。それはともかく「100分de名著」において夏目漱石四作品についての独自な解釈に基づいた解説をして、私に未読の漱石作品を読もうとするモチベーションを与えてくださった阿部公彦氏に対して心から感謝の意を表しつつ、今回の記事はここら辺りで筆を擱きたい。

「ネガティブ・ケイパビリティ」のもつ意義について~「100分de名著」における夏目漱石著『夢十夜』に関する解説内容から学ぶ~

    3月のNHK・Eテレ「100分de名著」は、「夏目漱石スペシャル」。取り上げているのは、漱石が西洋小説の形式と格闘した『三四郎』『夢十夜』『道草』『明暗』の四作である。毎回四作の内の一冊ずつ取り上げて行う放送内容は、NHKアナウンサーの安部みちこさんとタレントの伊集院光さんによる軽妙な司会の下、講師の東京大学教授の阿部公彦氏が独自の作品解釈によって解説をしていくもの。「100分de名著」ファンであり、夏目漱石に多少なりとも関心をもっている私は、その作品世界の魅力を堪能しながら毎回視聴している。

 

 我が郷土とのかかわりが深い青春小説『坊ちゃん』や、飼い猫の視線から人間社会を滑稽に風刺的に描いた『吾輩は猫である』、罪の意識に苛まれ続けた男の末路を描いた『こころ』などの漱石作品を私は読んでいたが、その他の作品の多くはずっと書棚に行儀よく並んだままで今までは手を出すことがなかった。いつか読もう、いつか読もうと思い続けていたものの、なかなかそれを実行することはなかった。今回の「夏目漱石スペシャル」の視聴を契機にして、少なくとも私の書棚に並んでいる未読の作品には遅からず目を通してみようと思っている。しかし、今回取り上げられている四冊の内で私の書棚にない本がある。それは、『夢十夜』である。では、なぜ私は買わなかったのか。それは、書店でさっと目を通した時に、おどろおどろしい夢の話が多く、何となく楽しめそうにないと直感したからである。ところが、今回『夢十夜』が取り上げられた2回目の放送を視聴したり、その部分のテキストの解説内容を読んだりしてみて、私の意識は変わった。俄然、興味が掻き立てられたのである。

 

 そこで今回の記事では、その私の意識が変わった理由とも関係している「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念のもつ意義について、阿部氏の解説内容を参考にしながら書いてみたい。

 

 『夢十夜』は漱石が西洋小説的なルールを無視し、もっと自由な書き方をして読者をおもしろがらせようとした作品ではないかと、阿部氏はとらえている。その際に漱石が意識して使ったと思われるのが、人間の魂の根底にある「ゴシック(暗黒時代の中世をイメージさせる語)的想像力」。具体的には、夢という設定を用いることで、日頃は見えない怪奇なものを読者の前に展開させている。『夢十夜』には死、遠い過去、荒涼とした風景、謎めいたセリフなどがふんだんに出てくるのである。しかも、全てが夢にすぎず、しかもその夢に対する「感動」が欠落している。言ってみれば、「こころ」がないのである。しかし、『夢十夜』には『三四郎』とは一味違う「こころ」が描かれていると、阿部氏は主張する。その「こころ」を描く手法として注目しているのが「ネガティブ・ケイパビリティ」という批評用語なのである。

 

 「ネガティブ・ケイパビリティ」とは、19世紀の英詩人ジョン・キーツシェイクスピア作品の力を説明するために用いた批評用語で、「世界や対象のわからなさや不可解さを分からないままに捉える消極的能力」のことを表す。そして、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という語は、近年、狭い文学の領域を越えて、医療と哲学や文学などを繋ぐメディカル・ヒューマニティーズ(医療人文学)の領域で使われるようになっているらしい。例えば、死を目前にした患者に医師はどう対応すべきか、という問いに答えを出すには、科学の知見だけでは十分でないことも多く、とりわけ精神医療の現場において、この概念が活用されているという。精神科ではマニュアルから外れる症例も多く、患者との対話を重ねれば、理論に当てはまらないことも多く出てくる。精神科医には、謎や不思議さを、そのままぐっと受け止めねばならない場面が出てくるのである。だから、この概念が有効なのである。

 

 「わかったふりをしない。無理に答えを出さない。」という宙ぶらりんの力。これは文学が得意とするところであるが、医療は文学からヒントを得たのである。反対に、文学もこの医療の態度を参考にしていいと阿部氏は言っている。また、漱石が晩年に唱えた「則天去私」、自然をそのまま受け止めて自我から解放されるという考え方と、「ネガティブ・ケイパビリティ」には近いものがあると、大変重要な指摘をしている。漱石は、近代個人主義の考え方を我が国の歴史的・社会的経緯を踏まえて高く評価し「自己本位」の生き方を肯定している。反面、その近代的自我による「自己本位」の生き方の矛盾や苦悩などについても深く洞察していたのではないかと私は考えている。その漱石が悪戦苦闘しながら近代的自我の在り方についての思索を深めた末に、晩年になって「則天去私」という宗教的な思想を提示した事実を考えれば、私たち現代人の自我の在り方を問い直す上でも、この「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念は大きな意義をもっているのではないだろうか。

孫にとっての〈ことば〉の世界について考える(2)~浜田寿美男著『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』を参考にして~

     前回の記事では、『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』(浜田寿美男著)を参考にしながら、初孫Hにとっての「〈ことば〉の世界」の手前になる「意味世界」形成の構図や道筋について、特に私たちじじばばとHとの間における「三項関係」の具体的な様相を交えながら説明してみた。多分に言葉足らずの記事だったのではないかと反省しているが、そこは私の説明能力の乏しさが原因になっているので、その点ご容赦願いたい。

 

 そこで今回は、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へどのように移行・発展していくのか、その構図や道筋についてHの今の発達情況も踏まえながら説明してみたい。この作業を通じて、できれば私たちじじばばのHへの今のかかわり方に妥当性があるものなのかどうかを知る手掛かりにしたいというのが、私の本音である。

 

 著者は、人間の声が〈意味するもの〉としての〈ことば〉の要素となるのは、自分と相手が相互に声を「かける-かけられる」関係として、声を介した「三項関係」を成り立たせているからにほかならないと言っている。また、その声は深く情動とつながっており、このことは〈ことば〉の発生の過程で大きな意味を持っていると強調している。つまり、声=情動の世界の共有ということがあるからこそ、声は〈意味するもの〉という、〈ことば〉の交換を担う不可欠の要素として、人間の世界に根を下ろしてきたのである。具体的に述べよう。この世に生れて間もない頃から私たち周りの大人は、Hが〈ことば〉を理解することができないことを重々承知の上で、しきりに声をかけ、しっかりと〈ことば〉でもって語りかけてきた。一方、Hの方も、最初は泣き声で、次第に喃語を発しながら、その声の調子で何かを訴えようとし、また現にそれだけのことで何かが伝わる実感を得てきたと思う。また、それ以外にもまなざしを交わし、身体を触れ合わせ、抱き合い、ものを受け渡しし、そのもので一緒に遊び、声をかけあう…まさにこのような何気ない日常のやりとりこそが、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へと移行・発展する過程を保障することになっているのである。

 

 では、そのような中からHにとってはっきりと「〈ことば〉の世界」が成り立っていくのは、どのような道筋があるのであろうか。

 

 この点について著者は、声をテーマにする「三項関係」と、ものの体験をテーマにする「三項関係」が、〈ことば〉につながるものとして問題になると指摘している。例えば「母親が子どもと一緒になって犬と遊びながら、『ワンワン、かわいいね。』と声をかける」という一つの事態の中に、この二つの「三項関係」が重なり合っていると言っている。そして、この重なり合いの中で、「ワンワン」が犬であるという結びつきを、大人の側から子どもの側に同型的に敷き写して、〈意味するもの-意味されるもの〉の記号的関係を染み込ませていくのである。つまり、この二つの「三項関係」の重なり合いによって声が体験とつながり、〈ことば〉が成り立つという訳である。前回の記事で構図として描いた「意味世界」の敷き写しと同じように、「〈ことば〉の世界」についても、大人から子どもに向けて、互いの共同の生活を通して敷き写しが行われていくのである。もちろん忘れてはならないことは、このような「〈ことば〉の世界」の敷き写しが可能になるのは、人間の脳が本来的に備えている言語獲得装置的な基盤を前提としているということである。したがって、脳のこの部分に欠損があれば、前述したようなコミュニケーション基盤が整ったとしても、言語獲得的な機能が働かないことになり、「〈ことば〉の世界」が成り立たないことになる。

 

 私はHが発語する有意味言語数が少ないことを心配し、脳が備えている言語獲得装置的な基盤の欠損について多少不安を持っていたが、前回の記事で記したような今のHの発語内容を考慮すれば心配することはないと判断している。一般的に男の子の方が女の子より発語に関しては年齢的に遅い傾向があるらしいので、今のところ私たちじじばばのHへのかかわり方は現状のまま、つまり前回及び今回の記事で述べたようなかかわり方を大切にしながら、今後のHの様子を見守っていこうと考えている。

 

 今回の説明も前回同様、あまり要領のよいものにはならなかったなあと反省しきりである。皆さんの中で、もっとこのような内容を詳しく知りたい方や、子育てや孫育ての最中で私と同様な悩みや心配をしている方がいたら、本書はとても参考になるものであり、発達心理学研究における「発達論的還元」の手法を用いた新たな知見を得ることができるので、ぜひ本書をご一読されることをお勧めしたい。私自身、とても多くの学びを得ることができ、本書に出合えたことを心より感謝している。

孫にとっての〈ことば〉の世界について考える(1)~浜田寿美男著『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』を参考にして~

 今までに何度か、初孫Hの成長の様子を話題にした記事を綴ってきた。最初に綴ったのは、Hがまだ1才3か月の頃の様子であった。その際、Hの有意味言語の発語状態やノンバーバル・コミュニケーションの具体的な姿について触れた。今、Hは2才2か月を過ぎている。しかし、有意味言語の発語はまだ数少ない。正直なところ私たちじじばばは、Hのその点については少し心配になっているので、Hと接する時には今まで以上に意識して〈ことば〉によるコミュニケーションを取るようにしている。家族写真を見せる時であれば、「パパ」とか「ママ」とか「ばあば」とかと言いながら指さしている。食事の時であれば、「キュウリ」とか「トマト」とか「ニンジン」とかと言いながらHの食器に入れるようにしている。また、一緒に乗り物のおもちゃで遊ぶ時であれば、「郵便車」とか「飛行機」とか「新幹線」とかと言いながらHに手渡すようにしている。このようなじじばばの〈ことば〉掛けに対して、Hが今のところ発しているのはわずかに「まんま」と「ばあば」くらいである。ただし、Hが好んで視聴する「機関車トーマス」の映像の中に出てくるフランキーというクレーン機が荷物を下ろす音「ギーッ」とか、散歩中に見かけた救急車が鳴らす音「ウー、ウー」とかという擬音語を、それらに関連する動きを交えながら最近よく発するようになっている。

 

 そのような情況の中、私は以前に読んだ時に発達心理学研究における「発達論的還元」の手法の意義を痛感した『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』(浜田寿美男著)を再読してみた。改めて学び直すことが多かったので、今回は本書を参考にして、孫にとっての〈ことば〉の世界について考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 私たち人間は、意味で張り巡らさせているこの世界、つまり「意味世界」の中を生きている。大人はこの「意味世界」を当たり前のようにして生きているが、赤ちゃんはその生の出発点において周囲のものを意味づけることはできない、言わば無意味の状態から始めざるを得ない。もちろん赤ちゃんは誰も教えていないのに、口に母乳や哺乳ビンを触れさせるだけでくわえ込み、舌を啜る。その点で赤ちゃんにとって母乳や哺乳ビンの意味は最初から分かっていると言ってもよいかもしれない。また、赤ちゃんは人の顔を他のものよりよく見るようにできており、人は人としての意味を帯びているとも言える。しかし、これらのように生得的にその意味が与えられているものはむしろ少ない。

 

 では、赤ちゃんはどのようにして周りの世界を意味に満ちた世界としてとらえていくのであろうか。大人になれば当たり前のことだが、誰も自分がどのようにして「無意味世界」から「意味世界」へ移行してきたかを覚えている者はいない。そこで著者はこの過程を探るために、ゼロの地点に立ち戻ろうとする立場、つまり「発達論的還元」の作業を展開することで明らかにしていこうとするのである。

 

 著者が注目するのは、「三項関係」である。「三項」というのは、人と人とが一緒に何かのもの、あるいはテーマを体験するという意味である。これに対して、人が他者を介さずものに直接かかわるとか、人がものを間に挟まず他の人と直接かかわるというのは、二項関係という。赤ちゃんが「無意味世界」から「意味世界」へ移行するために必要なのは、二項関係ではなく「三項関係」なのである。例えば、著者は赤ちゃんと母親が何かを「一緒に見る」という「三項関係」の中に、赤ちゃんの「意味世界」形成にとって重要な働きを見出している。そして、そこに〈ことば〉に至る源を見ているのである。

 

 ただし、人がものを見るという時、ただまなざしを注ぐということではなく、人が見てとらえた世界がその人の身体におのずと表現される。そしてその表現された姿が、そばでその様子を見ている人に伝わる。この回路の中では、見ること自体が人と人とをつなぐ一つの表現になるのである。具体的に述べよう。以前の記事にも書いたが、私たちじじばばの自宅近くの県立病院には「ドクターヘリ」がよく飛んで来て、その屋上に離発着する。家の中にいる時に「ドクターヘリ」の轟音が聞こえてきたら、私たちは急いで乗り物好きのHを抱きかかえて外に飛び出し、「ドクターヘリ」の飛行の様子を一緒に見ることがある。その時、私たちはそれを指さしながら「すごいね。ヘリコプターが飛んでいるね。」と〈ことば〉掛けする。そのような機会が何度となくあった後、私たちはミニチュアのヘリコプターをHに買ってやった。すると、Hはそのヘリコプターを手に持って高くかざしながら、飛ばせるようなしぐさをしたのである。私は「ブルブル、ブルブル」と轟音の真似をしながら、一緒にその様子を見守った。つまり、私たちじじババとHが「ドクターヘリ」を一緒に見ながら、飛ぶ様子を声やしぐさで示す表現をして見せているという「三項関係」の中で、Hはヘリコプターが空を飛ぶ乗り物だという意味世界を敷き写していたのである。このようにHにとって、まだこれという意味を帯びてないものが、周囲の他者(この場合は、私たちじじばば)との「三項関係」を通して、一定の意味のものとしてHの世界に根を下ろしていくのである。

 

 さて、〈ことば〉はこのような「意味世界」の上に成り立つ。語るべき対象のないところに〈ことば〉が成り立つことはないのである。その点、まだ有意味言語数が少ないHとは言え、私たちじじばばと一緒に遊んでいる様子を見ていると、大人と同様な「意味世界」を形成しつつあることは間違いない。とすれば、Hは〈ことば〉の世界の手前まで至っていると言える。後は、Hがより多くの〈ことば〉を発するための神経や運動感覚等の身体的な発育・発達状況が整うのを待つだけである。本書に書かれているここまでの内容から、私は少し安心感を得た。この後、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へどのように移行・発展するのかについての構図や道筋についての内容については、次回に譲りたい。

スポーツは見えない?

    以前、日本経済新聞に「スポーツは見えない」というコラムが掲載されたことがあった。著者は、美学者の伊藤亜紗氏である。私はこの表題を最初に見た時「??」と思った。「スポーツは見えない」とは、どのような意味なのか。また、「見えないスポーツ」などあるのだろうか。頭の中が疑問符だらけになった私は、いつの間にか本文を目で追っていた。

 

 著者は「目の見えない人のスポーツ観戦」をテーマに、NTTと共同研究しているらしい。視覚障がい者のような身体的条件が異なる人と、どうやったら一緒にスポーツを楽しむことができるのか。それは新しいスポーツの楽しみ方を探る挑戦でもあるとのこと。共同研究では、言葉もデバイスも使わないで、「動きの質感」を再現することに焦点化したそうである。使ったのは、手ぬぐい、段ボール、モップ、うちわ、ペンなど。身の回りにある日用品を使って、その種目ならではの質感を表そうと試みたという。例えば、柔道には手ぬぐい。まず、目の見える二人が手ぬぐいの両端を持つ。それぞれ担当する選手を決め、実際の試合の映像を見ながら、手ぬぐいを上下させたり引っ張ったりしながら、選手の動きや攻防を再現する。そして、この上下左右する手ぬぐいの真ん中を、目の見えない人が持つ。手ぬぐいの動きに体ごと翻弄されながら、選手同士の力のせめぎ合いや緩急を感じてもらうという訳である。手ぬぐいは道着と素材が近いから、布の張りを表現しやすいのである。

 

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 私はここまでの内容を読んで、確かに今まで試みられてきた「言葉で説明する方法」(言葉)や「視覚情報を振動や聴覚に変換する方法」(デバイス)とは異なる実感的な観戦になるなと感心した。ただし、この「動きの質感」を再現する方法はデバイスの変形型であり、この上に言葉による説明を加えるとより分かりやすいのではないかと思った。だが、この方法では、それぞれの有効性が相殺されてしまうのだろうか。実際に体験した視覚障がい者の方の感想を聞いてみたいものである。

 

 著者は続いて、次のようなことを述べている。この「動きの質感」を再現する方法は、試合を再現している目の見える側も、何だかとても楽しく感じるらしい。楽しい、というかだんだん本気になってしまうそうなのだ。実際の試合は映像の中で行われているのだが、布を引っ張り合っているうちに、選手が憑依したかのように勝ちたくなってしまう。伝える、というよりは試合をもう一つ起こす感じに近いらしい。そして、研究を進めるうちに、そもそも私たちはスポーツを見ながら何を見ているのかが気になってきたという。リズムや力ならまだしも、「気」としか言いようのないものを見ていることだってある。目に見えないものを見ることなのかもしれない。見えないその種目の本質とは何なのか。著者は、「見えないスポーツ図鑑」を作るのが今後の目標だと締め括っている。

 

 私は「見えないその種目の本質」の中身についてしばらく考えを巡らせてみた。著者が言うように、「気」としか言いようがないものなのか。はたまた、試合中に醸し出される「トポス」(濃密な空間)のようなものなのか。私にはつかみどころがないものだが、これはスポーツを観戦する上で、視覚障がい者だけでなく健常者にとっても面白い視座になるかもしれないとふと思った。

健康づくりに関わる全ての大人に求められることとは…

    30年前ぐらいから子どもの「体力・運動能力の低下傾向」が続いていたが、最近はその傾向に歯止めがかかり向上傾向に転じている。しかし、スポーツの基礎となる走・跳・投に係わるテスト項目や握力は依然低い水準とどまっている。特に小学生は跳・投等の「全身を全力でタイミングよく操作する能力」、中学生以上では「粘り強く全身の運動を持続する能力」の回復が遅れているのが現状である。

 

    これらの現状の背景には、学校や家庭・地域等において子どもが外遊びや運動・スポーツを行う機会が依然として少ない実態がある。少し古い資料になるが、文科省刊『体力・運動能力調査報告書』(2014年)によると、学校体育においても発達段階に応じた運動指導ができる指導者が少なく、楽しく運動できるような指導の工夫が不十分であること。また、「体力・運動能力の二極化」が進んでいることも問題点として指摘されている。これらのことから、ともすると運動していない子どもばかりが問題視されがちだが、よく運動している子どもの中にも「特定のスポーツしかできない」、あるいは「やり過ぎによって体や心に歪みが生じてしまう」という問題点が浮び上がっている。何事も中庸が大切なのだが…。この点、前回の記事でも取り上げた「総合型地域スポーツクラブ」において、運動やスポーツを楽しむことを志向する教室を開催することができればいいのではないか。

 

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 ところで、子どもの体力・運動能力の低下は、それ自体に問題があるというよりも、中高年齢時に重大な疾患として発症する生活習慣病の予備軍となる原因になることから、その背景にある生活習慣の誤りを問題視していると考えるべきであろう。具体的には、体力・運動能力の低い子どものライフスタイルは、「運動をしていない・夜更かしをする・朝起きられない・朝ごはんを食べない」などの生活習慣の誤りが負の連鎖に陥りがちであることが指摘されている。つまり、体力テストの成績が子どもたちの健全な発育発達を反映する大きな指標の一つであるととらえれば、それが全国的に低下しているという事実は、子どもだけでなく大人も含めた国民全体の生涯にわたっての健康づくりに警鐘を鳴らしているといってもよいのである。言い換えれば、子どもの体力・運動能力の低下問題は、日本国民にとって社会的な健康問題なのである。

 

 したがって、平成29年3月にスポーツ庁が公表した『第2期スポーツ基本計画』の中で具体的な施策目標として「学校における体育活動を通じ,生涯にわたって豊かなスポーツライフを実現する資質・能力を育てるとともに,放課後や地域における子供のスポーツ機会を充実する。その結果として,自主的にスポーツをする時間を持ちたいと思う中学生を80%(平成28年度現在58.7%→80%)にすること,スポーツが「嫌い」・「やや嫌い」である中学生を半減(平成28年度現在 16.4%→8%)すること,子どもの体力水準 を昭和60年頃の水準まで引き上げることを目指す。」が設定されたことは、大きな意義があると思う。今後この目標を実現するために、スポーツ庁を中心に幼児期からの子どもの体力向上策の推進、学校の体育に関する活動の充実、子どもを取り巻く社会のスポーツ環境の充実等に向けて様々な事業が一層展開されていくことを大いに期待したい。

 

 そこで、学校・家庭・地域等において健康づくりに関わる全ての大人は、子ども自らが運動・スポーツを行うことができるように、特に幼児期や小学生年代での運動遊びや運動・スポーツの時間・空間・仲間という「三間」を取り戻すための「仕掛け」や「仕組み」づくりにこれまで以上に取り組むことが求められている。そのためには、私たち大人が運動・スポーツのもつ意味や価値、特に運動・スポーツの楽しさや喜びを味わうという欲求充足機能について再認識する必要があるのではないだろうか。

どうなる?「総合型地域スポーツクラブ」の登録・認証制度の行方…

    前回の記事において、人生100年時代におけるスポーツの役割を考える中で、「スポーツを中心としたコミュニティの構築」の大切さを述べた。その際に触れることができなかったが、その役割を我が国の各地域で担っている団体の一つが以前紹介したことがある「総合型地域スポーツクラブ」(以下、「総合型クラブ」)である。本県で実際に定期的に活動しているのは、昨年度末では41クラブあったが現在では32クラブに減少している。その主な理由は、各地域において少子高齢化の波が押し寄せて会員が激減したり、運営スタッフが高齢化している上に後継者が見つからなかったりして、各種のスポーツ教室の継続を始めとするクラブ運営全般が円滑にできなくなってきたからである。因みに、「総合型クラブ」は現在のところ全国で約3,600クラブ設立しており、一番多いのが兵庫県の781クラブ、次が愛知県の142クラブ、3番目が東京都の137クラブとなっている。反対に一番少ないのが鳥取県の22クラブ、次が佐賀県福井県の27クラブとなっている。本県は全国的に見て少ない方の県である。

 

 そのような状況下、平成29年3月にスポーツ庁が策定した「第2期スポーツ基本計画」の具体的施策の中で「総合型クラブ」の質的充実が謳われ、そのために「総合型クラブ」の登録・認証制度を新たに構築することになった。そして、スポーツ庁は「スポーツ活動支援事業(総合型地域スポーツクラブの質的充実に向けた支援推進事業)」を公益財団法人・日本スポーツ協会へ委託した。現在、日本スポーツ協会は「総合型クラブ」の登録・認証制度の整備に向けてプロジェクトを発足させ、「総合型地域スポーツクラブ全国協議会(SC全国ネットワーク)」と連携しながらその具体案を策定しているところである。

 

 ところで、私は2月25日(月)に東京都で開催された「SC全国ネットワーク総会」にオブザーバーとして参加する機会を得て、今のところの「総合型クラブ」の登録・認証制度(案)概要を知ることができた。そこで、今回はその概要を簡単にまとめながら、私なりの所感を付け加えてみたい。

 

 まず、この制度の目的は「総合型クラブ」の質的充実を図ることである。そして、本制度を創設・運用することで「総合型クラブ」と行政機関との連携が深まることを期待しているのである。しかし、この期待に関して私はやや疑問をもっている。その理由は、現在までのプロジェクト推進過程において、国及び地方公共団体等の行政機関との連携が十分に図れているとは言い難い状況なのに、登録・認証制度を創設・運用し始めたら急にそれらとの連携が深まることは難しいのではないかと思うからである。今後、この点を考慮しながらプロジェクトを推進してほしいものである。

 

 次に、この制度は基本的に「登録」(「総合型クラブ」からの申請に基づき、制度の運営主体が「登録基準」に合致したと判断した場合に「総合型クラブ」としての名簿に記載する手続き)と、「認証」(当該クラブが登録手続きを完了した後に、制度の運営主体があらかじめタイプ別に用意した「認定基準」のいずれかのタイプに当該クラブをあてはめ、タイプに応じた認定証を当該クラブに対し発行する手続き)の2段階で構想しているとのこと。ただし、「登録基準」はある県で検討している例を示しただけであり、「認定基準」についてはまだ示す状況にないとのことであった。つまり、この制度の根幹の部分はまだ定まっていないのである。私はこの「登録基準」の設定に関して、「総合型クラブ」の質的充実という目的に適うためには「多世代・多種目・多志向」の確保という視点は外せないと思うが、その他の条件はあまり厳しくしない方がよいと考える。その理由は、全国約3,600クラブの中には今まで地域の有志が細々とクラブ運営を行ってきて、地域住民の生涯スポーツの機会を保障することに貢献しているクラブも多いので、それらのクラブが登録できないような事態に陥らないようにしてほしいからである。特に人口減少社会と言われ、過疎化を余儀なくされている地域においては、地元に数少ない「総合型クラブ」の活動の灯が消えないように配慮してほしいと願っている。

 

 さらに、この制度の運営体制図や組織等の概要説明があった。基本的には、中間支援組織は都道府県体育・スポーツ協会(県体協)が担い、その中に「総合型クラブ登録審査委員会(仮称)」の事務局を設置するという案であった。この点に関しては、現在は本県において中間支援組織として機能しているのは、私の勤務している公益財団法人の中に設置している「広域スポーツセンター」であるので、本県の県体協にその機能を移譲するというのは困難ではないかと考えている。各都道府県の実情を十分配慮した柔軟な対応を期待したい。

 

 その他、登録申請から登録認定までのフローチャート(案)やこの制度の創設・運用に向けたスケジュール(案)も示されたが、参加者の多くはそこまで問題意識が至っていない雰囲気であった。この制度の策定予定は来年度末(来年3月まで)であり、運用実施予定は再来年度(来年4月から)である。私はこの制度の創設・運用まで漕ぎ着けるには、まだ数多くの課題を解決しなければならないのではないかと考えているので、「間に合うのだろうか?」という疑問と不安が頭の中を覆ってきたのが正直なところであった。

 

 以上、今のところの「総合型クラブ」の登録・認証制度(案)概要の内容と私なりの所感を述べた。所感の内容がやや否定的なものになったが、私としてはこの制度の創設・運用が全国の、そして本県の「総合型クラブ」にとってその存在意義や認知度を高め、持続可能な運営組織になるきっかけになってほしいと思っている。全ての国民の生涯スポーツの機会が保障されるハード及びソフト環境が整備されることを心より念願しつつ、今回はそろそろ筆を擱きたい。

人生100年時代におけるスポーツの役割とは…

    最近の記事において、「教育・子育て」というカテゴリーの中で『日本進化論』(落合陽一著)の内容を取り上げてきたが、今回は「健康・スポーツ」というカテゴリーでも本書を取り上げてみたい。具体的には、本書の第6章「人生100年時代の『スポーツ』の役割とは?-『健康』のための運動から『Well-Being』へ」の内容概要をまとめながら、私なりの思いや考えを述べてみたいと思う。

 

 人生100年時代と言われる現在、「健康の保持・増進」のためだけでなく、新たな役割がスポーツに求められるようになっている。その中でも特に高く評価されているのが、「ストレスの解消」「コミュニティの形成」「予防医学的効果」の3点だと著者は主張している。

 

    1つ目の「ストレスの解消」については、継続的な運動の習慣はストレス体制を高め、精神の安定に役立つ点を挙げている。メンタルヘルスを損なう人が多い昨今の労働環境においては、改めて自己防衛のための手段として見直されるべきである。2つ目の「コミュニティの形成」については、スポーツを介して他の人と交流することで、人と人のつながりを生み出す効果を挙げている。地域や会社組織の共同体が、以前ほど機能しなくなった今日、スポーツのもつコミュニティ形成機能は非常に貴重である。3つ目の「予防医学的効果」については、スポーツによる健康の増進が人間の健康寿命を伸ばすことに繋がる点を挙げている。日常的な運動は、歩行能力を維持しロコモティブシンドローム(運動器症候群、歩行や立ち・座りの切り替えといった日常生活の基本動作に障害をきたすような状態)を予防するための重要な要因になる。さらにそれは幸福な生活、つまり「Well-Being」な人生を送るためのカギになるのである。

 

 では、現代の日本において、スポーツはどの程度、社会に浸透しているのか。この実態について著者は、スポーツ庁による基本データに基づいて次のようにまとめている。週1日以上のスポーツ実施率は20~79歳の男女平均値で51.5%、10代・20代と60代・70代は5割を超えているが、30代~50代では4割程度。さらに、週3日以上になると、30代・40代の平均は2割を割っている。総括して言えば、若い頃には活発に運動するが、中年になると運動の習慣を失い、高齢者になってから運動をはじめるというのが、一般的な日本人のスポーツとの付き合い方である。また、30代・40代になると運動から遠ざかる理由は、この時期の社会人の多くが仕事や家庭に時間を奪われてしまうからである。

 

 それに対して海外の事情はと言うと、欧州委員会による基本データではFUに加盟する28か国の平均では、週1日以上のスポーツ実施率は52%と我が国よりやや高い数値である。ただし、オランダやデンマーク、ドイツといった上位国では70~80%と、我が国を大きく上回っており、その背景には政府が主導している様々な施策があるとのこと。例えば、スポーツのための公共施設の拡充。特にドイツはスポーツクラブにおける活動が盛んで、総人口の3分の1がどこかのスポーツクラブに所属しているらしい。1960年代に策定された「ゴールデンプラン」という政策は現在も継続的に進められており、ドイツ国内には「スポーツシューレ」と呼ばれるグラウンド、体育館、宿泊所、会議室などが一体化した複合施設が20か所以上もあるとのこと。

 

 一方、日本に目を向けると、スポーツに利用できる公共施設の数自体が多くないのである。運動やスポーツの実施場所についての調査によると、1位が「道路」で全体の36.3%、2位が「自然環境」、3位が「自宅」、4位が「公園」となっており、公共的なスポーツ施設は5%程度に留まっており、日本ではスポーツ施設で運動を行う文化が、国民の間でほとんど定着していないのである。

 

 以上の内容をまとめると、日本人が運動をしない大きな理由は、「忙しい」と「場所がない」の2点に集約される。「忙しさ」の問題解決にもっとも効果的なのは、所属する組織が運動・スポーツのための時間を強制的に確保すること。例えば、企業が福利厚生の一環としてフィッネスクラブと契約したり、スポーツ系のサークルづくりを推奨したりすることを今後もっと拡充するとよい。また、「場所がない」の問題解決のためには、スポーツが行えるパブリックスペースを整備すること。そのためには、狭い空間でも運動が可能となるようなテクノロジーを活用したサポートが必要である。例えば、VR・AR技術によって空間を効率よく活用すれば、ビルの一室でも広い体育館で身体を動かすのと同じぐらいの運動量と開放感を得ることができるかもしれないのである。

 

 最後に、著者は上述のことと同時に、「スポーツを中心としたコミュニティの構築」を進めたいと言っている。日本ではランニングやウォーキングといった個人単位で行う運動が盛んなので、公共的なスポーツ施設で交流のための場が用意されれば、人間関係の横の広がりが期待できる。スポーツコミュニティへの参加は運動を継続するモチベーションにもなるし、相互補助的なセーフティネットとしての役割を担う可能性も期待できるのである。今後の少子高齢化の中で健康寿命を伸ばし、何歳になっても活躍できる社会をつくることを考えたときに、スポーツがもたらす文化はとても大事な要素になると著者は強調している。

 

 私も現在、運動・スポーツの振興を図ることを職務とする立場にあるので、著者の主張する内容には共感する部分が多い。昨年度、30代~40代の親とその子どもたちを主な対象にした新たなイベント事業「ファミリースポーツの祭典」に取り組んだのは、まさにその世代の運動不足を解消しようとする1つの試みであった。今後は全ての県民が「Well-being」な生活を送るために、「スポーツを中心としたコミュニティの構築」を企図した新たな事業を積極的に構想・企画していきたいと考えている。

薬は飲む方がいいの、飲まない方がいいの、どっち?

    今春のスギ・ヒノキ花粉の飛散量は、私の住んでいる地域では例年並みらしい。しかし、最近になって私は鼻水が流れたり、目がかゆくなったりする症状が少しひどくなってきた。また、それに付け加えて少し微熱があるように感じた。そこで、花粉症の症状が悪化する前に対処しようと、仕事が休みの日に掛かり付けの耳鼻咽喉科を受診した。約1年振りの受診だったが、馴染みの医者は問診の際にやたら微熱の症状にこだわり、結果的に処方してくれた薬は、通常の風邪薬ととん服、花粉症等の薬で5種類にもなった。今は微熱の症状はほとんどないと何回も説明したのに…。「こんなに薬を飲まないといけないのだろうか。」というのが正直な私の疑問であった。

 

 そのようなことがあった日の何日後かに、私は普段からよく立ち寄る古書店で興味を引いた本と出合った。『薬剤師は薬を飲まない~あなたの病気が治らない本当の理由~』(宇多川久美子著)という本である。私は用事が多少あったが、止むに止まれない気持ちで一気に読み通してみた。すると、薬との賢い付き合い方について学ぶことが多かったので、今回はその学びの内容概要と私なりの所感をまとめてみようと思う。

 

 著者は4人兄妹の内、一番目の兄と二番目の姉を早くに亡くし、すぐ上の姉は心臓弁膜症を患うという家庭環境の中で、「一人でも多くの人の健康を守りたい」という思いを抱き、薬剤師になった女性である。その彼女が薬はその人の身体によからぬ作用を及ぼすかも知れないことを知りながら、「一生のおつきあい」=「命がある限り飲み続けてください」と患者さんに笑顔で言う自分が許せずに、ついに白衣を脱ぐ決意をした。そして、今は「薬を使わない薬剤師」として、食やエクササイズを通して、必要以上に薬に頼らずに元気になる方法を広める活動をしていると言う。本書は、そのような経験に基づいて、薬が効くメカニズムを解説した上で、人が生まれながら持っている自然治癒力や自己免疫力の重要性を伝えようとしたものである。

 

 本書の中で私が改めて認識し直したことは、「漢方など天然素材のもの以外、薬の多くは石油から作られた合成品であり、私たちの身体にとって異物であること」。また、「私たちは無意識に薬が病気を治すという錯覚をしているが、薬は病気の症状を抑えるものであり、実際に病気を治すのは私たちの自然治癒力や自己免疫力であること」などである。また、私が初めて認識したことは、「薬はどんなに便利でも、飲み続けてはいけないこと」や「その理由として重要なのは、酵素であること」などである。

 

  そこで、薬を飲み続けてはいけない理由としてなぜ「酵素」が重要なのかを、私なりに理解したことに基づいて少し説明してみたい。

 

 身体の中で起こる化学反応に対して触媒として機能する分子のことを「酵素」と言い、口から入った食べ物を消化したり、アルコールを分解したり、血液や皮膚を作ったりする際に使っているのが酵素である。つまり、私たちは酵素があるから、生物としての活動を営むことができるのである。また、酵素にはもともと体内にある「体内酵素」と、外部から取り入れる「食物酵素」があり、「体内酵素」は加齢とともに減少していく。その上、体内で無尽蔵に作られるわけではなく、一日に作られる量には上限がある。さらに、「体内酵素」は、食物の消化・吸収に使われる「消化酵素」と、身体を正常に動かすために使われる「代謝酵素」に分かれており、この二つの酵素は互いに影響し合っている。例えば、全体の体内酵素を10とした場合、仮に消化酵素を6使うと代謝酵素は4になり、消化酵素を9使うと代謝酵素は1になる。そして、食べ物と同じく、薬も消化酵素によって体内で消化・吸収される。しかし、薬は私たちにとって異物であり、私たちの身体は異物を消化・吸収する方法を知らないので、試行錯誤のために無駄遣いをしたり、解毒のために大量消費したりすることになる。そうなれば、使える代謝酵素が減ってしまい、結果的に代謝が悪くなって体温が下がることになる。そして、体温が下がれば免疫力も低下してしまうのである。因みに、体温が1度下がると免疫力は30%低くなるそうである。病気になった時にこそ免疫力を発揮してほしいところだが、病気を治すために薬を飲むと結果的に免疫力を低下させてしまうのだから、皮肉な話である。とはいえ、急性の症状に対して、薬の主作用が副作用を上回る場合は、むしろ積極的に薬を使うべきである。ただし、生活習慣病に対しては、薬を長期にわたって使用すれば、上述したように薬としてのよい一面が薄れ、毒としての一面が濃くなってしまうのである。

 

 薬を常用することのデメリットは他にもある。その一つは、薬に対する「耐性」ができてしまうために、薬が効かなくなってしまうことである。そうなると、薬の量を増やすようになり、その結果今まで出なかった副作用が出るようになったり、使用する酵素の量も増えてしまったりする。したがって、身体になるべく負担をかけずに薬を効果的に使うためには、薬に対する耐性を持たせないようにすることが重要である。生活習慣病なら薬に頼らずに、生活を改善することが大切になる。また、薬を常用することは、心理的にストレスを与えることになる。現代人の病気の70%は、ストレスによる交感神経の過緊張によって起こると言われており、この点もデメリットと考えられる。

 

 以上の内容以外にも学ぶことが多かった。私は本書を読んで学んだことに基づいて、耳鼻咽頭科から処方してもらった薬を飲むかどうかについて、次のように判断した。まず、風邪薬は飲まない。また、花粉症の薬は、花粉飛散量が多いと予報される日には決められた服用量を飲む。その結果、今のところ体調はまずまずよいのである。…「急性の症状以外は、原則的に薬は飲まず、栄養のあるものを食べ睡眠をよく取るようにして、自分が持っている自然治癒力や自己免疫力によって病気を治す。また、普段から病気にならないように体温を上げる運動やエクササイズを定期的に行う。」…これを私の養生法にしようと思う。皆さんは薬との付き合い方や養生法について、どのように考えますか?

生きていくために大事なことを身に付けるための教育とは…

    我が国の学校教育のカリキュラムの基準を示す現学習指導要領の理念は、「生きる力」(確かな学力、豊かな心、健やかな体のバランスがとれた力)の育成であり、この理念は新学習指導要領においても継承されている。そのためには、各学校において「ゆとり」か「詰め込み」かという二項対立的な選択ではなく、それらを共に生かすような学び方によって効果的に育成することが求められている。特に今回の学習指導要領の改訂においては、「何を知っているか、何ができるか(個別の知識・技能)」・「知っていること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力等)」・「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(人間性や学びに向かう力等)」という、新しい時代に必要となる資質・能力の育成が強調されている。また、その実現のためには「主体的で対話的な深い学び」(アクティブ・ラーニングのこと)や「カリキュラム・マネジメント」の視点を重視することが求められている。なお、この新学習指導要領の全面実施については、小学校は2020年度から、中学校は2021年度から、高等学校は2022年度入学生からと、年次進行で行われる運びになっている。

 

 さて、今回の記事で取り上げる「生きていくために大事なことを身に付けるための教育」というのは、もちろん上述した新学習指導要領の理念や方策等を踏まえてはいるものの、それらとは少し位相の異なる視座からとらえようとしている。具体的には、前回の記事でも取り上げた『日本進化論』(落合陽一著)の中にある第4章「今の教育は、生きていくために大事なことを教えているのか?-『詰め込み型教育』と『多様性』を共存させる」の内容に依拠しながら、特に高等教育における問題を解決するという視座から学校教育の在り方を問おうとするものである。

 

 まず、現在の我が国の高等教育は、標準的な知識を効率的に詰め込むという点では世界でもトップクラスだが、グローバルに通用するクリエイティビティと多様性を備えた人材を輩出できている状況だと到底言えないと、著者は「THE 世界大学ランキング」のデータに基づいて分析している。では、どうすればよい方向に向かうのか。著者は、我が国の教育改革の重要な指針は、教育の目的を「標準化」から「多様化」にシフトさせることだと主張している。

 

 次に、これからの「教育」に求められる学び方について言及している。それは、「Ph.D(博士学位)の学習」と「詰め込み型の学習」の両立が大切であり、現状では大学入試が終わった瞬間に、それまでやってきた勉強についての価値観を全て忘れることだと提案している。そして、この学び方のアンラーニングを経ることで、「あらゆる前提は偽の可能性がある」という、懐疑的な思考に基づいたマインドセットを身に付け、「自ら問題を設定し、その解決を考えていく」という方向への教育のアップデートが求められているのである。

 

 さらに、我が国の大学が上述したような役割を果たそうとするとき、最大のライバルはオンライン教育になるだろうと著者は予測している。例えば、「MOOC」(マッシブ・オープン・オンライン・コース)は、一流大学の人気講師の授業をオンラインで受けられるサービス。また、「オンラインサロン」は、特定の分野の専門家が、持っている知識やスキルを活かして、Webを中心にファンの人たちと交流し、共に学び合うコミュニティ。それぞれが強みを持っており、何よりも既成の大学教育よりも学習効率が高く、学び方が多様化するのが確実である。もちろんこれまで通り大学による人材育成も大事であるが、これからの学びはこのような多様な教育機関を同時並行的に活用することが重要になってくるのである。

 

 今、大学は自らが果たすべき役割を考え直す時期にきている。高等学校までの画一的な価値観を意に介せず、評価基準を自分でつくり、自分で「美しい」と認めるものを追求するのがアカデミズムの世界であり、これからの時代に求められるのは、こうしたアカデミズム的な人材なのである。各大学は「多様性」のある教育を進めていく必要があると、著者は最後に締め括っている。

 

    私は著者のこのような主張の意図はよく理解しているつもりだが、義務教育学校の元教員の立場や経験等を踏まえて、初等・中等教育段階でも基本的には同様の主張を実践することができると考えており、実際に私は今までにそのような取組を精力的に行ってきた。言い換えれば、「ゆとり」か「詰め込み」かという二項対立的な選択ではなく、それらを共に生かすような学び方を保障する教育実践を積み重ねてきたのである。その中で、日ごと賢く、優しく、逞しく変容しながら成長していく子どもたちの姿を見て、そのような教育実践の成果を実感してきた。…「生きていくために大事なことを身に付ける教育」は、高等教育はもちろんだが初等・中等教育の現場でも積極的に実践すべきではないのだろうか。