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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

私が「好きなこと」とは何だろう?~國分功一郎著『暇と退屈の倫理学』から学ぶ①~

 二女の夫が我が妻と子Mに会うため先週の金曜日夜に我が家に来て、その晩泊まり土曜日の夜まで丸一日過ごして帰った。その間、Mのオムツ替えや沐浴等の世話を甲斐甲斐しくしてくれたおかげで、私は久し振りで何をするでもなく、土曜日は久し振りに「暇」な一日を過ごすことができた。そんな中、書斎の椅子に身を沈めて、しばらく物思いに耽っていた時、ふと次のようなことが私の心の中に浮かんできた。…これから数週間経って二女と孫のMが我が家にいなくなったら、毎日このように「暇」な時間ができる。その時間を活用して、好きな読書をしたり、ブログを書いたり、たまにテニスをしたりしていれば、「退屈」はしないだろうけど、それで充実した人生を送ることになるのだろうか。…

 

 私は、ハッとした。…充実した人生を送るためには、社会的に有意義な仕事に打ち込むことが不可欠で、趣味や私的なことだけに生活時間を使うのは、人生を無駄にしていると私は考えているのか。また、無意識の深層にまで目を向ければ、生活の中で「暇」であることや「退屈」な状態になることを、私は恐れているのではないだろうか。…

 

 そんなことに思いが及んだ時、本箱に並べていた『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著)に、私の目が自然に惹き付けられた。2年前の12月のNHK・Eテレ「100de名著」においてスピノザ著『エチカ』が取り上げられた際に、講師役を務めた國分氏の明快な論理的解説に魅入られ、その後すぐに馴染みの古書店で購入し、いつものことながら積読状態にしてあった本である。私は「今が読み時だ!」とばかりに、先週の土曜日から日曜日に掛けて暇を見つけて通読した。面白かった。「これぞ、哲学の本だ!!」と興奮した。 

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 そこで、本書の全体構成に即して再読しながら、今回から10回連続して私が面白いと感じたり自分の在り方について考えさされたりした内容をまとめた記事をアップしていこうと考えた。これだけの回数を掛けて同一の本について記事にするのは、当ブログを開設して初めての試みになる。なぜこのようなことを考えたかというと、本書で取り上げている問題が自分事として切実に受け止められたので、実存としての私が納得したことを何とか形にしておきたいと強く願ったからである。

 

 まず、本書の執筆意図や取り上げる問いについて触れておく。「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。」と考える著者が、それまで妥協していた「暇と退屈」の問題へ本腰を入れて取り組んだ過程を記録したもの、それが本書である。言い換えると、著者が本書で問いたいのは、「暇のなかでいかに生きるべきか」「退屈とどう向き合うべきか」という問いなのである。そして、著者はこの問いに対して、本書で一応の結論を導き出している。また、私が手にしている新版の本書には、旧版において残された問いをさらに追究して論じた試論も収録している。

 

 次に、今後の連続する記事の展開も考慮して、ここで本書の全体構成についてその概要に触れておく。「まえがき」と「あとがき」を除くと、次のような章立てになっている。

① 序 章 「好きなこと」とは何か?

② 第1章 暇と退屈の原理論-ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?

③ 第2章 暇と退屈の系譜論-人間はいつから退屈しているのか?

④ 第3章 暇と退屈の経済史-なぜ“ひまじん”が尊敬されてきたのか?

⑤ 第4章 暇と退屈の疎外論-贅沢とは何か?

⑥ 第5章 暇と退屈の哲学-そもそも退屈とは何か?

⑦ 第6章 暇と退屈の人間学-トカゲの世界をのぞくことは可能か?

⑧ 第7章 暇と退屈の倫理学-決断することは人間の証しか?

⑨ 結 論

⑩ 付 録 傷と運命-『暇と退屈の倫理学』新刊によせて

 

 さて、第1回目に当たる今回の記事は、①の序章の内容についてまとめながら、私なりの所感を綴ってみようと思う。

 

 著者は序章において、経済学者ジョン・ガルブレイスが1958年に著した『ゆたかな社会』を取り上げ、現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することができなくなってしまっている状況について指摘している。「ゆたかな社会」において金銭的・時間的に余裕ができた人は、その余裕を「好きなこと」のために使うことができるが、その「好きなこと」とは生産者が自分たちの都合のよいように広告やその他の手段によって作り出しているかもしれないと言うのだ。つまり、「好きなこと」とは、余裕がなかった時に「願いつつも叶わなかったこと」ではないのではないかと言っているのである。私は改めて、自分の趣味だと思っている「読書」「ブログ」「テニス」などについて問い直してみた。どれも自分がそのことに取り組んでいる時に「楽しい」「面白い」と感じていることではあるが、それらは「生産によって満たされる欲望」の影響を受けていないのかと問われれば、絶対的に否定することはできない。では、私は余裕を得た時に叶えたい「好きなこと」をどうとらえていたのだろうか。何だか自信がぐらついてくる。

 

 このことに関連して、著者はマックス・ホルクハイマーとテオドール・アドルノが1947年に書いた『啓蒙の弁証法』を紹介し、文化産業が支配的な現代資本主義社会においては、消費者の感性そのものがあらかじめ製作プロダクションのうちに先取りされていることを指摘している。つまり、私たち現代人は文化産業に「好きなこと」を与えてもらっていると言っているのである。かつて労働者の労働力が搾取されていると言われたが、現代では労働者の「暇」が搾取されているという訳だ。「暇」を得た人々は、この「暇」を何に使えばよいか分からない。このままだと「暇」の中で「退屈」してしまう。だから、与えられた楽しみ、準備・用意された快楽に身を委ね、安心を得ることになってしまう。私は、まるで自分のことを言われているようで、恥ずかしくなってきてしまった。

 

 では、どうすればよいのだろうか?著者はこの疑問に対する回答者として二人の人物を紹介し、その思想を素描している。一人は、イギリスの社会主義者ウィリアム・モリス。その思想を簡潔にまとめれば、「革命が到来し、私たちが自由と暇を得られれば、その時に大切なのは、その生活をどう飾るかだ。」ということ。モリスは、消費社会が提供するような贅沢とは違う贅沢について考えていたようである。著者の國分氏は、この答えを称賛し、参考になると評価している。だが、もう一人のアンカレ・ジュパンチッチという哲学者の「大義のために死ぬのをうらやましいと思えるのは、暇と退屈に悩まされている人間だ。」という衝撃的な指摘には同意しない。ただし、人が暇や退屈に悩まされている時、何かに「打ち込む」こと、「没頭する」ことを渇望するものであることは認めている。この点、私も同感である。

 

 著者がこの二人の思想を紹介したのは、著者なりの「暇のなかでいかに生きるべきか」「退屈とどう向き合うべきか」という問いへの回答内容を用意するための複線なのだと思う。著者の回答内容(結論)は、モリスの思想がその方向性を、ジュパンチッチの思想がその限界性を示しているのだ。読者の皆さんも今からどんな結論に至るのか楽しみにしてほしい。

 

 それにしても、私の「好きなこと」とは何だろう?連続10回の記事を書き終えるまでには、明確にさせたいものである。あ~あ、なかなか眠れぬ夜が続きそうだ。

「母乳育児」に関する疑問点を解決する!?~山口慎太郎著『「家族の幸せ」の経済学―データ分析でわかった結婚、出産、子育ての真実―』を参考にして~

 前々回の記事「二人目の孫Mとの初対面をやっと果たせました!」に対して、神崎和幸さんが嬉しいコメントを送ってくださった。また、Country TeacherさんからはHatena Starの☆を3つくださり、共に私は大きな喜びを感じました。ブログもSNSの一つだと考えている私としては、何とかそのお礼の気持ちを伝えたいと思って、今この記事を綴っています。皆さんが私のブログ記事に目を通してくださったことだけでも嬉しいことなのに、コメントを書いたり、☆を付けたりしてくださったこと。私の心の中を明るくしてくれました。有難うございました。拙い記事しか書けませんが、これからも暇があれば当ブログに立ち寄ってくだされば幸いです。

 

 さて、その二人目の孫Mを連れて二女が里帰りしてから、早や10日ほどになる。気分的にはもう1か月ぐらい経ったように感じるぐらい、Mの世話に追われる日々である。いやいや、世話に追われているのは二女とばあばの二人。じいじは二人の世話の合間に、自己流の子守歌で寝かしつけたり、お風呂上りに髪を拭いたり、オムツ替えの時に機嫌を取ったりするなどの世話しかしていない。でも、Mの子育てサポートは、私にとって何とも楽しく、充実感に満ちたものになる。幸せを実感!

 

 ところで、Mはまだ生後20日にも達していない乳飲み子なので、空腹のために泣き始めたら当然の如くほとんどは二女が母乳を飲ませている。ただし、夜には粉ミルクも40~60ccぐらい飲ませる時もある。その理由を尋ねてみると、粉ミルクの方が母乳よりも消化するまでに時間がかかるので、眠っている時間が少し長くなるらしい。夜は大人も少しでも長く睡眠時間を確保したいので、そのような対応をしているとのこと。なるほど、こんなことも最初の孫Hの子育てサポートの時には知らなかった。あの時はまだフルで仕事をしていたので、そこまで気に掛ける余裕がなかった。今は、一日中フリーな立場なので、乳児の子育てに関する様々な疑問点が沸いてくるのである。例えば、「じゃあ、最初から粉ミルクで授乳させたらいけないの?なぜ母乳での授乳を優先しているの?」という疑問だ。その理由も尋ねてみると、「母乳育児」は子どもの健康面や発達面でよい効果があるとのこと。「でも、それって本当?仮に本当だとして、育休期間中は母乳育児ができても、復職したら無理だと思うけど、どうするの?そもそも粉ミルク育児はどこに問題点があるの?…」次々と疑問点が浮かんでくる。

 

 そこで今回は、このような「母乳育児」に関する疑問点について、最近読んだ『「家族の幸せ」の経済学―データ分析でわかった結婚、出産、子育ての真実―』(山口慎太郎著)の中でその解決に役立ちそうな〈第2章 赤ちゃんの経済学 3 母乳育児は「メリット」ばかりなのか〉の内容概要を紹介してみようと思う。二女に正確に教えるためにも…。 

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 著者によると、今までの数ある「母乳育児」に関する研究の中で最も多いのは、母乳で育った子どもと粉ミルク(人工乳)で育った子どもを比較するものだそうだが、この研究成果は信頼性が低いらしい。その理由は、母乳で育った子どもと粉ミルクで育った子どもの家庭環境が大きく異なるからである。その点、1996年にベラルーシで行われたカナダのマルギ大学のクラマー教授らが行った母乳育児推進プログラムから生まれた研究成果は、最も信頼性が高く、しかも日本にとっても妥当性のあるものだそうである。

 

 その主な理由を挙げると、おおよそ次のような内容になる。

① 調査目的が、母乳育児促進のための研修を行った病院で生まれた子どもと、行われなかった病院で生まれた子どもを比べることで、「母乳育児」の効果について理解しようとするものであった。

② 医師・看護師・助産師が母乳促進推進のための研修を受ける病院を抽選によって16病院決めた。これらの病院と抽選で選ばれなかった15病院の間では、平均的な質や規模に違いがなく、地理的な偏りもなかった。

③ 結果的に、研修を行った病院で出産したお母さんたちの年齢・学歴・家族構成等は、研修を行わなかった病院で出産したお母さんたちとほとんど変わりがなかった。ただ一点、母乳促進プログラムで研修済みの医師、看護師らに指導を受けたかどうかだけが異なっていた。

④ 調査対象が17,046人の子どもとそのお母さんで、出生時から子どもの健康状態、発達状態を追跡調査した。最新の調査は子どもが16歳時点で行われた。

⑤ ベルラーシは、先進諸国と同様にこのプログラムが実施された当時から基本的な医療体制が整っている上、衛生状態も良好。安全・清潔な水道が整備されており、都市部だけでなく地方部にも十分な数の病院がある。

 

 では、その調査結果はどのようになったのだろうか。その主な内容を次に挙げてみる。

① 「母乳育児」は、生後1年間の子どもの健康面に好ましい影響を与えることが確認された。胃腸炎アトピー性湿疹を抑え、乳幼児突然死症候群を減らしている可能性が示さている。

② 健康面や知能面に対する長期的なメリットは確認されなかった。健康面では肥満・アレルギー・喘息に加え、虫歯についても効果が認められず、知能面では6歳半時点では好ましい効果が見られたものの、16歳時点では効果が消えてしまっているようである。

結論的に言えば、「母乳育児」は乳児にとって健康面のメリットがあることは疑いがないが、その他の一部で喧伝されているメリットは必ずしも確認されたわけではないということである。

 

 以上、私の「母乳育児」に関する疑問点について、本書の中でその解決に役立ちそうな箇所の内容概要をまとめてみた。私としてはこのような知見を基にして、二女に次のようなアドバイスをしようと思っている。

○ 「母乳育児」は、育休期間は乳児の健康面でメリットがあるからできるだけ続けるといいよ。復職したら、可能な時は母乳で、そうでないときは粉ミルクか液体ミルクでの育児という併用型の「混合育児」でいいんじゃないかな。ともかく、「母乳信仰」みたいなものに惑わされずに、自分の生活スタイルに応じた無理のない選択をしたらいいね。(後で気付いたんだけど、復職する前にはもう離乳食へ移行しているんだよネ…。

 

 

 何だか偉そうなアドバイスに聞こえるなあ。まあ実際は、さり気なく本書の内容を紹介しながら対話的に語り掛けてみたい。ただ、この「母乳信仰」みたいなことが、まだまだ世間には流布されている。例えば、「3歳児神話」や「母性愛神話」等々。もちろん私も無意識にどこかで信じている「母親幻想」があるかもしれない。だから、機会があれば関連図書を読んだ上で、その欺瞞性について解明して記事にしてみたいと考えている。

自分事としてとらえる在り方と資質について~「100分de名著」におけるフランツ・ファノン著『黒い皮膚・白い仮面』の放送とそのテキストから学ぶ~

 気が付くと、もう3月になっていた。先月中旬までは、退職後の様々な事務手続きに追われながらも蓄積していた心身の疲労を回復することに専念したが、下旬になると二人目の孫になる二女の第1子Mの子育てサポートを手探り状態でしていたので、あっという間に「逃げる」2月になってしまった。そのために、楽しみにしていた2月のNHK・Eテレ「100分de名著」の放送はもちろんそのテキストにも目を通す余裕がなかったので、先月末の土・日を活用して暇を見つけて、全4回のテキスト内容を回毎に読んでは、その放送録画を視聴するという学習を繰り返した。その番組中、講師の作家で早稲田大学教授の小野正嗣氏が的確な解説をしたり、司会者の一人である伊集院光氏が絶妙な話題を取り上げたりしてくれたおかげで、私は人種差別問題に対する認識を深めることができた。

 

 そこで今回は、「100分de名著」におけるフランツ・ファノン著『黒い皮膚・白い仮面』の放送とそのテキストの内容から私なりに学んだことの概要をまとめた上で、最後に第4回分の放送において語られた、差別問題一般を解消していく手がかりとして「自分事としてとらえる在り方と資質」について綴ってみようと思う。 

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 『黒い皮膚・白い仮面』は、1925年フランス領のカリブ海に浮かぶ島の一つ、マルティニークに産まれたフランツ・ファノンがまだ20代半ばの医学生だった頃、人種差別問題についてみずからの差別体験を出発点に、精神医学の知見を支えに、哲学や精神分析を参照し、例としてふんだんに文学作品を引用しながら考察した著書であり、ある意味でファノンの自伝的テキストでもある。(私はこの名著のことを今回取り上げられるまで知らなかったが…)本書は今から70年近く前の1952年に刊行されているが、未だに世界から人種差別はなくなっていない現実がある。例えば、昨年5月25日、アメリカのミネソタ州ミネアポリスで、無抵抗の黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警官に窒息死させられる事件が起き、それをきっかけにして黒人の命の尊重と人種差別の是正を訴える「Black Lives Matter/ブラック・ライヴズ・マター」がアメリカ各地で、そして世界の様々な地域で展開されたことは耳目に新しい出来事である。特に女子プロテニスの大阪なおみ選手が、全米オープンにおいて人種差別の暴力等で犠牲になった黒人の名前が書かれたマスクをして試合に臨んだことは、読者の皆さんにも記憶に残っているのではないかと思う。

 

 では、ファノンは人種差別問題をどのようにとらえ、どのように解消しようとしたのか。講師の小野氏が放送やそのテキストで解説した内容の概要、特にファノンが人種差別問題に気付き、それを解消しようと迷いながら辿った思索の足跡について、なるべく簡潔に要約して示してみよう。

① 奴隷制に支えられた植民地支配が、被支配者であった黒人の間に支配者=白人のフランス語に憧れ、母語クレオール語を奴隷の言語として嫌悪するような自己否定的な言語観を植え付けていることを指摘する。そして、多くの白人たちが、黒人に対して決して対等な言葉遣いをせず、まるで小さな子どもを相手にするときのような片言で話し掛けるところに、ファノンは抜きがたい差別意識を見てとる。

② 「白乳化」の欲望(白人になりたいという欲望)に駆られ、「青い眼」を持つ者に魅了されること。白い肌や青い眼こそが美しいと信じること。「二グロの娘が白人の世界に受け容れられたいと渇望するのは、自分が劣っていると感じているからだ」とファノンは喝破し、そのような劣等感に病理的なものを見る。そのような神経症的なケースについて、その不安や行動の原因をファノンは社会の差別的な構造に見出す。

③ サルトルの「対他的存在」(他者の対象としての自己)という考え方を参照して、ファノンは白人の子どものまなざしにさらされた差別的体験を基に、白人という他者のまなざしこそが自分を「黒人」にするということを悟る。そして、そのことによって自分が主体的に世界の意味を構成する自由を奪われる(自己を切断される)ことを認識する。

④ ファノンは「ネグリチュード」(自分が「二グロであること」を引き受け、肯定すること)という文化運動の根幹にある態度の中に、疎外された自己を解放し、世界の意味を再構成する可能性を見出そうとする。

⑤ しかし、ファノンは「ネグリチュード」もまた、白人が自らの支配や優越性を強固にするのに貢献する、あるいは白人がいい気分になるのに役立つ道具にされてしまうのではないかと感じてしまう。この不安を決定的にしたのが、ネグリチュードはより高次の目標(人種差別のない解放された人間の世界)を実現するための通過地点であり、「手段」でしかなく、いずれ否定されるべきものと語ったサルトルの言葉であった。

⑥ 最終的にファノンが辿りついたのは、差別される人間を疎外的な状況から解放するためには、人種差別の社会構造そのものを変える方向(その一つが植民地支配から解放する方向)に行動する手助けをすることが自分の務めだと自覚する。後にアルジェリアの植民地解放運動に身を投じたのは、この自覚に基づいた行動である。

 

 このようなファノンの思索の足跡を見てみると、彼の虐げられた者への深い共感力、その絶望や苦悩を「内側から」感じる力が、人種差別問題に気付き、それを解消しようという原動力になっていることに思い至る。『黒い皮膚・白い仮面』を執筆した当時はまだ精神医学を専門とする以前の若き医者であったファノンであったが、同時期に書かれた『北アフリカ症候群』というテキストの中には、前述したような彼の資質を読み取ることができる次のような北アフリカ人に共感している記述がある。「彼は人間関係を持っているのだろうか。彼には友人があるのだろうか。彼は孤独ではないのか。彼らは孤独ではないのか。市電やトロリーバスの中の彼らは、無意識な存在に、いわば、根拠のない存在に見えないだろうか。彼らはどこからやって来るのか。彼らはどこへ行くのか。どこかの建築現場で働いている彼らを時々ちらっと見る。が、人々は彼らを見ない。」

 

 多くのフランス人は北アフリカ人を見ないが、ファノンは見ている。ただし、彼らを物であるかのように、医学的な知の対象として「客観的」に観察するのではない。それは「彼ら」が「自分」でもあるからであり、北アフリカ人の苦しさを内側から感じているからである。ファノンがその後、精神科を専門としていくことになるのは、この苦しむ北アフリカ人たちとの出会いも大きな一因になっているであろう。そして、精神科医として15か月間勤務したフランスの南部にあるサンタルバンの精神病院で、精神病院という制度を人間化しながら、疎外されてきた患者たちの人間的価値を回復させる取組を実践したことで、何よりも患者との人間性と尊厳を大切にするという自らの考え方をより強い確信へと変えたであろうと、講師の小野氏は推察している。私は、このように他者のことを「自分事としてとらえる」というファノン的な在り方が、全ての差別問題を解消する手がかりになるのではないかと思う。したがって、肌の色や言語・宗教・文化・習慣等の違いによって差別しない世界を実現するために、この「自分事としてとらえる在り方や資質」が、全ての人に求められる在り方であり、全ての人に等しく培われなければならない大切な資質なのではないだろうか。

二人目の孫Mとの初対面をやっと果たせました!

 昨日、23日(火)の「天皇誕生日」に、私たちじじばばにとって二人目の孫になる、二女の第1子Mとの初対面をやっと果たすことができた。というのは、二女が嫁いでいる東予地区のある病院の産婦人科で、男児Mが産まれたのは今月17日(水)の早朝。その後1週間、母子共に入院していたのであるが、病院は新型コロナウイルスの感染予防のために、付添人一人以外は面会謝絶の措置を取っていたので、今まで二女夫婦以外の者は誰も直接会うことができなかったのである。

 

    私たちは自宅を9時20分頃出発し、高速自動車道と一般道を利用して1時間10分ほどで目的地の病院前の駐車場に着いた。少し遅れてやってきた二女の夫が病院へ入ってからしばらくして、病院の休日出入口から出てきた二女夫婦とMを私たちは出迎えた。Mが産まれてすぐの画像はスマホで見せてもらっていたが、生での対面はこの時が初めてであった。Mの純真な瞳と目を合わせた私は、当日の快晴の空のように、とても爽やかで清々しい気分になった。

 

 その後、正午前に私たちは二女夫婦たちと一緒に、Mの父方の実家へ伺った。Mの父方の祖父母もその時が初孫Mとの初対面だったので、満面の笑みを湛えながらMを交互に抱いていた。特に祖父は今までにあまり赤ちゃんを抱いた経験がなかったらしく、本当に恐る恐る壊れ物を触るような感じでMを抱いていたのが印象的だった。私たちも代わる代わるMを抱き上げ、記念撮影をした。しばらくすると、Mが眠そうにしていたので、ベビーバウンサーにそっと寝かしつけて、大人たちは床の間に飾っていた命名書を見ては、名付けの由来やMの将来像について語り合いながら、「お七夜」の祝い膳を囲んだ。活き活きした魚介類のさしみや鯛の塩焼き、海老のフライなど大変豪華な折詰膳と鯛の澄まし汁、苺やチョコレートケーキのデザートなど、本当に贅沢な祝い膳だったので、父方の祖父母が男児の孫ができたことを心から喜んでいる気持ちがひしひしと伝わってきた。

 

 「お七夜」の行事を終え、Mの父方の祖父母宅を後にした私たちは、往路とほぼ同じコースで自宅に帰った。時計の針は16時過ぎを示していた。妻は一休みする間もなく、Mを連れた二女夫婦を迎える準備に追われていた。その二女夫婦たちは18時頃にやってきた。到着早々、Mが泣き始めた。「おっぱいを欲しがっているか、おしっこかうんちをしたのか。どちらかじゃないかな。」と私は二女に囁いた。新米ママがオムツを確認してみると、やっぱりうんちをしていた。早速、オムツ替えをしたが、その際に二女の夫が率先してやっていたので、私は感心してしまった。ほとんどの育児を妻に任せていた私の若い頃とは大違い。今のパパは育児に対しても男女共同参画意識が高いのかもしれないが、やはり彼自身が思いやりのある、心優しい男性なのである。私は、つい頬が緩んでしまった。 

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 その後、Mを沐浴させてやることになった。ここでも新米パパは、慣れない手付きながら率先してMを湯船に浸けてやっていた。Mは最初気持ちよさそうにしていた。でも、空気で膨らませるタイプのベビーバスだったので、途中でお湯が溢れそうになった。そのために、皆が少し慌ててしまった。それを察知してか、Mはちょっと不安そうな表情になった。私はつい「Mくん、気持ちいいね~。お風呂に入ったらすっきりするよ。」などと、大人に言うようなことを口走っていた。何とか家での初めての沐浴を済ませ、バスタオルに寝かせてガーゼで身体を拭いてやると、Mは本当に気持ちよさそうな表情になり、皆は一大事業をやり遂げたような気分になった。乳児の世話は大変だ。でも、いよいよ今夜から里帰りした二女は、私たちのサポートの下これから約1か月間我が家でMの子育てをすることになる。じじばばができることはしっかりサポートするから、娘よ、頑張れ!

「全共闘」って、どんな組織だったの?~小阪修平著『思想としての全共闘世代』を参考にして~

 東京オリンピックパラリンピック大会組織委員会の元会長・森喜朗氏の女性蔑視発言は、発言撤回及び謝罪のための会見を開いたが、その際に取った記者への対応態度によって火に油を注いだ結果になり、日本国内はともより国外からも多くの非難の声を浴びた。そのため、森氏が会長を辞任しなくてはならない事態に至った。また、後任選びにおいても密室性を指摘されて、透明性を確保すべきだという政府や世間の意向を尊重して、会長候補者検討委員会を設置する流れへ。その後、数回の審議の結果、候補者を一本化して推薦するという形で、元担当大臣だった橋本聖子氏が新会長に就任した。これでこの一連の騒動は一応決着したように思うが、開催まで5か月ほどしか猶予がない中、橋本新会長はコロナ禍における開催の是非や在り方、理事の男女比の是正等の喫緊の諸課題を解決していかなければならない。橋本新会長の肩にはこのような大きな荷物を背負わされているので大変であろうと推察するが、国民の一人として私は、小池都知事と丸川新担当大臣とによる女性トロイカ体制で何とかこの難局を克服してほしいと唯々祈るばかりである。

 

 ところで、1964年10月に開催された前回の東京オリンピックの時、私は小学校5年生だった。重量挙げフェザー級で三宅義信選手が優勝したシーンや陸上競技ラソンアベベが金、円谷幸吉選手が銅メダルを獲得したシーン、女子バレーボールで「東洋の魔女」と言われた日本チームがソ連を破り優勝したシーンなど、様々な印象的な場面を今でも思い浮かべることができる。この時期は日本経済が飛躍的に成長を遂げた時期、所謂「高度経済成長期」の真っ只中だった。私が生まれた1954年(昭和29年)から地元国立大学教育学部へ入学した1973年(昭和48年)頃まで、日本は右肩上がりの好景気に浮かれていた社会情勢だったのである。

 

 しかし、このような社会情勢の中で思春期を迎えた私にとって、前途に不気味な不安感を抱くような事件群があった。その一つが、私が中学3年生だった1969年1月に起きた東大全共闘による「東大安田講堂攻防戦」。タオルで顔を覆いヘルメットを被った学生たちに向けて、機動隊が催涙弾や放水を浴びせる様子を中継しているテレビ映像を、当時の私は不思議な感覚で眺めていた。貧困な母子家庭の中での日々の暮らしや就職に有利な高校への進学等にしか関心がなかった私は、「恵まれた家庭環境で育ったであろう東大生が、何とバカな騒動を起こしているのだろう。」と批判的な思いを強く抱いた。その時は、彼らが起こした行動の動機や理由等について考えようとする余裕は、私にはなかった。

 

 次に、私に不気味な不安感を抱かせた二つ目の事件は、その翌年3月に起こった赤軍派による「よど号ハイジャック事件」。テレビの報道ニュースから流れる映像とその解説内容を視聴していた私は、戸惑うばかりであった。「ハイジャックされたよど号は、世界革命の根拠地建設という名目で北朝鮮へ向かうようです。…」アナウンサーの声を聞きながら、「世界革命って何のこと?北朝鮮は日本とは違う国家体制なの?」と、私の頭の中は疑問だらけになっていた。「それにしても、一般市民を巻き添えにする反社会的な行動によって革命を起こすという考えは納得できない。」というのが、その時に抱いた率直な気持ちだった。

 

 この気持ちをより一層強めたのは、三つ目の事件である。それは、私が高校2年生だった1972年2月(19日~28日)に起こった連合赤軍による「あさま山荘事件」。長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所の保養所「浅間山荘」において、連合赤軍のメンバー5名が同施設の管理人の妻を人質にして立て籠もった事件である。男たちはバルコニーに畳などでバリケードをつくって籠城し、朝から断続的に猟銃を発射するなどして抵抗した。事件発生から10日目の朝、長野県警は人質の強行救出作戦を敢行して制圧した。テレビ中継の中で、クレーンで吊るした大きな鉄球が壁面を壊す場面は、私の頭の中に鮮明な記憶として残っている。また、この事件以上に私が驚愕したのは、群馬県のアジトなどでリンチ殺人を行い29人のうち12人を殺していることが、事件後に明らかになったことである。「日本を共産主義化しようとする革命のためには、仲間の殺人も厭わないような運動は絶対に許されないことだ。」私は、大きな憤りを覚えた。

 

 そこで今回は、これらの事件群を起こす母体となった「全共闘」(赤軍派連合赤軍は、全共闘から派生していった組織ではないと思うが…)とはどんな組織だったのか、自宅書棚の中で長い間眠っていた『思想としての全共闘世代』(小阪修平著)を参考にしながら、三つの事件を起こした組織の関連性を解きほぐしてみようと思う。そして、そこから学んだことを析出してみたい。

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 まず、東大全共闘による「東大安田講堂攻防戦」について。事の発端は、医学部のインターン制度の廃止を求める運動だった。この医学部の闘争が大学の権威主義的な対応によってこじれてしまい、医学部生と青医連(卒業生の組織)が大学内部の不条理ともいえる当局の傲慢さに対して、1968年6月15日に安田講堂を占拠するという抗議行動に出た。それに対して東大当局が排除のため機動隊を導入したことが、さらに闘争を全学に波及させることに繋がった。口先では進歩的なポーズをとり反権力的なことを言いながら、実際の行動ではそれと全く逆で機動隊に頼ってしまうという落差が、学生を憤激させたのである。この経緯から分かるように、東大闘争の出発点は学生と教官の間に対等な関係を求めるという、戦後民主主義的な要求であった。しかし、この闘争は学問の在り方や大学の社会の中での位置付けから、そういった大学に在籍している自分自身の在り方を問う性格をもっていたことで、戦後民主主義の枠を大きく逸脱していくことになる。この逸脱を加速したのが、「全共闘」(全学共闘会議)という組織のスタイルだった。

 

 医学部以外の学部も次々とストに入り、東大全共闘が結成されたのは、7月5日。それまで学生運動の基本単位は自治会であり、一応委員長選挙や代議員大会等の形式的民主主義の手続きを踏んだものだったが、「全共闘」とは自分たちがいる場所で起こった具体的な問題に対して闘うための学生有志の闘争組織だったのである。この組織の特徴は、メンバーシップが確定していないということ。自分が「全共闘」だと思えば「全共闘」になれるのである。したがって、指導や命令・指揮といった関係が成り立たない。そこが党派とは全く違う。また、「全共闘」には正規の議決機関というものがない。言い換えれば、具体的な行動目標のための、形式的民主主義の枠にとらわれない、自発的な個人参加による、ルーズな闘争組織が「全共闘」だったのである。

 

 これらの経緯を知って、私は「全共闘」という組織の在り方について強く肯定する。特に当事者性や個人の自発性を重視するリゾーム型の組織である点は、その後の市民運動の在り方にも影響を与えている。しかし、いつどこで組織決定がなされるのかがはっきりせず、責任の所在も明確でない点は大きな問題であった。また、権限を委譲された指導部が存在しないということは、いつ闘争を止めるか、どのように止めるかもはっきりしない組織であり、妥協ができない組織であった。著者によると、このような組織スタイルは、結果的に参加している個々の学生の内面への問い掛けを生んでいったと言う。また、このことに関して、「全共闘」運動を「生をめぐる観念の闘争」だったと定義しており、直接問われたのは「どう生きるべきか」といった抽象的な倫理だったと語っている。もし私がその場に居合わせていたら、きっと「全共闘」に入っていたに違いない。

 

 1968年9月5日、各大学の運動を有機的に結合し、70年の沖縄・安保闘争と結びつけようという目的で、178大学の「全共闘」が結集して全国全共闘が結成されたが、このことは「全共闘」運動の終わりも告げていた。というのは、全国全共闘は書記局を構成する8派によって運営され、各党派の草刈り場になっていったからである。この日、全国から集まった3万人近い学生の前に、赤軍派が初めて公然と登場し、他のブント諸派にゲバルト(暴力)を掛けた。赤軍派は、ブントの党内抗争の中で党を軍事組織として改変し前段階武装蜂起(政権をとる武装蜂起の前段階の武装蜂起)するという路線を唱え、全世界的な革命戦争を引き起こすという理論武装をしていた。多くの学生に颯爽としたイメージで受け取られて登場した赤軍派だったが、11月5日には大菩薩峠武装訓練中だったメンバー53人が逮捕される。11月16日には佐藤訪米阻止闘争に惨敗し、2500人を超える逮捕者を出した。このような国内での武装闘争が困難になってきた状況からの脱出という意味合いで起こしたのが、「よど号ハイジャック事件」だったのである。私は、国家権力それ自体を敵として戦争(一般市民を巻き添えにする不条理な「内戦の論理」ではあるが…)を仕掛ける赤軍派に対して、全く共感することはできない。

 

 その後、主要な指導者をほぼ逮捕された赤軍派は、M作戦(マネーのM)を展開し始める。銀行や信用組合等を襲撃して資金を調達する作戦である。またそれ以外に、戦争の名のもとに正当化した爆弾事件を何度も仕掛けている。しかし、実際は強化される取り締まりに対する単なるゲリラ闘争であった。このように赤軍派が悪あがきのような闘争を展開する中で、同じく武装闘争を闘っていた革命左派と合体して誕生したのが、あの「あさま山荘事件」を起こした連合赤軍である。資金をもった赤軍派と銃をもった京浜安保共闘=革命左派が手を取り合ったのである。実は、この革命左派は赤軍派との合同以前に、山岳ベースを離脱したメンバー二人を組織防衛のために処刑していた。このことが、連合赤軍による14名の同士の「総括」の動因の一つであった。もう一つの動因は、二つの異なる組織が合体した結果、自分たちの組織の方がより「革命的」であることを立証するために、より「徹底的」な理論が採用されがちであったこと。三つ目の動因は、「共産主義化」というスローガン。とにかく日本革命運動史上最大の汚点になった連合赤軍事件はなぜ起こったのか、本書をはじめ今までに多くの関連図書によって解説されてきたと思うが、私たち国民は単にその行為を批判するだけではなく、その背景や理由等をもう一度認識し直す必要があるのではないだろうか。

 

 「全共闘世代」のことを別名「団塊の世代」と呼ぶこともある。私は、そのように呼ばれる彼らのすぐ後ろの世代である。当時マスコミから「白け世代」と呼ばれ、その特性として「三無主義」(無気力・無関心・無責任)を挙げられた世代なのである。だから、今まで「全共闘世代」や「全共闘運動」等についてあまり触れることはしなかったが、今回それを解禁した記事を綴ってみた。今更、この歳になって…とも思うが、自分の今までの生き方や在り方を振り返るつもりで、その本質をこれからも追究してみたいと考えている。

孫Hの「ストライダー」とのかかわり方の変容とその魅力について~Hの近況報告を兼ねて~

 今月11日(木)の「建国記念の日」は、男児の初孫Hの満4歳の誕生日であった。…んっ、この冒頭のフレーズは、1年ほど前(昨年2月24日)にアップした「この半年ほどの間に変容してきた初孫Hの育ちの様子と私たちじじばばのかかわり方について反省的に考える」という記事の冒頭と同じような気がする。これって、以前買って積読状態にしていた本をまた古書店で買ってしまうことがあるように、人間は同じような言動を無意識に繰り返すということなのかなあ。それとも、これは老化現象の一つなのだろうか。何だかちょっと不安な気持ちになってしまう。

 

   それは兎も角、Hがこの世に生を受けて4年という月日が流れ、約2か月後には現在通園している「認定こども園」の年中組に進級する。孫の成長スピードは本当に速いものだと実感するが、その成長ぶりを間近に見ることができる私たちじじばばは幸せである。しかも、日常的にHにかかわり合う機会に恵まれていることがとても嬉しい。また、そのおかげでいつも元気と勇気をもらっていることが有難い。

 

 日々そんな思いを抱きながら、私は当ブログでHに関する記事を今までに何度か綴ってきた。最初は一昨年2月27日付けの「孫の「ヒトが人になっていく過程」に感動!そして、感謝!!」という記事。Hが1歳3か月頃の様子について興奮気味に綴った。それからその年の前半で7回も、Hの成長ぶりと私たちじじばばのかかわり合い方について綴った記事をアップしていたが、後半は0回、昨年は年間を通して3回というように少なくなってきた。このような実態の理由は、私たちじじばばのHへの関心が低くなったわけではない。むしろ関心の高さはより増していると思うが、3歳半頃を境にしてHの心身の発達情況が大きく変容して目を見張る成長ぶりを見せてくれており、私たちじじばばはその対応に追われているからである。つまり、Hの成長スピードに私の筆が追い付かないというのが実情なのである。

 

 そこで今回は、久し振りにHの目を見張る成長ぶりの一端として、「ストライダー」(商品名なので一般的には「ランバイク」というべきなのかな?)とのかかわり方の変容の様子を振り返りつつ、その魅力について綴ってみたいと思っている。もし小さいお子さんのいる父母やお孫さんのいる祖父母の方々で、「ストライダー」のことをまだ知らない人に少しでも参考になれば幸いである。

 

 まず、「ストライダー」の紹介から。「ストライダー」とは、ペダルがなく、地面を足で蹴るランニングバイクのこと。重さはわずか3キロと一般的な三輪車より軽く扱いやすい、1歳半から5歳の子どもを対象とした乗り物玩具である。もともとはアメリカのライアン・マクファーランド氏が、2007年に2歳の息子さんのために市販の自転車を改造して作ったことがはじまりだそうである。その後2009年に日本に上陸し、口コミでその良さが広がった。そして、2010年に世界初のレース「STRIDE CUP」が日本で開催されことをきっかけにして、2011年頃から爆発的に売れ始めたらしい。

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 一昨年の5月頃に放映された「羽鳥慎一モーニングショー」で取り上げていた録画を妻に観せられて、私は「ストライダー」のことを初めて知った。昨年の11月中旬頃のことである。「運動に対してやや臆病なHに、今年のクリスマス・プレゼントとして贈ってあげたいのだけど、どう思う?」と、妻は私に尋ねた。私は「2歳ぐらいの子でも乗ることができているから、大丈夫じゃないかなあ。」と賛成し、その週末には近くの自転車販売店へ出掛けた。「ランバイク」の種類はいくつかあったが、私たちは機能性や安全性等を考慮してやはり「ストライダー」にした。その際に、ヘルメットや手袋、肘や膝のプロテクターも一緒に購入した。色はブルーで統一した。そして、私たちじじばばはHになるべく早く挑戦させたくて、クリスマスまで待てず11月下旬にはHに贈ってやった。その後すぐ、長女夫婦はある児童公園にHを連れて行き、初めて「ストライダー」に挑戦させたらしいが、乗って走ることに対する不安があったのか、走るコースが砂地だったので走りにくかったのか、他の子が誰も乗っていなかったからなのか、短時間で挑戦を止めてしまったらしい。

 

 私たちじじばばは、Hが「ストライダー」に喜んで挑戦しなかったのが不本意だったので、12月上旬に当市の郊外にある「ランバイク」専用のコースを設置しているオフィシャル・パーク「○○○の森」へ、私の愛車に乗せてHを連れて行ってやることにした。出発前にはHにヘルメットや手袋等を着用させて「カッコいい!よく似合うよ!!」と少し煽てて、Hに意欲をもたせるように振る舞った。しかし、私たちも初めて行く所だったので、専用コースで速く走る子ばかりがやっていたらHが劣等感をもってしまうのではないか、難しいコースにかえって怯えてしまうのではないかなど、逆効果にならないか様々な心配や不安を 抱えながら現地に着いたのである。

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 ところが、Hは初めて訪れた「○○○の森」の専用コースに興味津々。練習している子は少なく、しかもそのほとんどが初心者レベルだったので、臆病なHでも抵抗なく一緒に参加できるような状況だった。Hはコースの途中に設置されている入場口から入ると、すぐに「ストライダー」に乗って歩き始めた。サドルにはお尻を乗せず、ハンドルをもって歩いているような感じで何ともぎこちなかったが、前を行く何人かの子たちに付いていった。そして、何とかコースを一周して私たちの前を通った時、Hは「たのし~いっ!」と大声で叫んだのである。他の子たちが黙々と練習している中、一人満面の笑みを浮かべながら…。私たちじじばばも自然と笑顔になった。二周目を終えた時には、「じーじ、ばーば、ストライダーはおもしろいよ!」と言いながら私たちの前を通り過ぎて行った。結局、Hは昼食を挟んで4時間ほど専用コースを何回も回って「ストライダー」の練習をした。15時過ぎに会場を後にした車内のバックミラーには、Hの満足気な表情が映っていた。

 

 その後、Hは私たちと3回、長女夫婦と3回、合わせて6回も「○○○の森」に連れて行ってもらい、「ストライダー」に乗って走る楽しさを味わった。ここ最近では1月24日(日)に私たちじじばばと行った。その時のHは、漕ぐ速さがそれまでより速くなり、コーナーもスムーズに回れるようになっていた。そして、たまたまその時に来ていたすごく速く走る子を意識して、何周も練習していた。また、12月26日(土)に私と一緒に行った近所の児童公園では、坂道になっている所で「ストライダー」に乗り、結構なスピードで走る快感を何度も味わった。あの怖がりのHにしては、結構、勇気のいるチャレンジだったのだが…。

 

 以上、Hの「ストライダー」とのかかわり方の変容の概要について綴ってみたが、その様子を私が観察しながら考えた「ストライダー」の魅力は、次のような点である。

○ 足が着けるという安心感の中で、蹴る・進む・曲がる・止まるなどの動作において「うまくいかない⇒うまくいった」という課題達成の楽しさを直感的に味わったり、他の子と競争する楽しさを自然に味わったりすることができるので、自己信頼感や向上心を培うことができる。

○ 安全を守るためには、ヘルメットや手袋・プロテクターを身に付けることが大切だと実感的に分かる。

○ 上述の結果として、身体のバランス感覚が磨かれたり、体幹が鍛えられたり、短距離走のフォームを身に付けたりすることができる。また、安全を守るために必要なルール感覚を身に付けることができる。

 

 Hは今日も長女に「○○○の森」へ連れて行ってもらったようだ。昨年11月下旬にプレゼントとして贈って以来、Hが「ストライダー」に乗って走るという運動遊びに意欲的に取り組んでいる様子なので、私たちじじばばは満更でもない気分に浸っている、今日この頃なのであります。

気候危機を克服する唯一の道としての〈脱成長コミュニズム〉について~斎藤幸平著『人新世の「資本論」』から学ぶ②~

 前回の記事で、気候危機の原因たる資本主義の本質は、人々の生活に必要な「使用価値」よりも人々の欲望を充足する「価値」を優先することで商品の希少性を高めることにより、経済を成長させていくことにあると綴った。また、その資本主義を強力に進展させてきた「グローバル・ノース」と呼ばれる先進国の豊かな生活は、「グローバル・サウス」という「外部」から収奪したり、環境負荷等を転嫁したりすることによって支えられてきたことを確認した上で、今、その「外部」が地球上に存在しなくなった現実にも言及した。だから、著者の斎藤氏は、資本主義下における気候危機に対して抜本的な手を打たなければ、地球環境は元に戻ることができず、その結果として人類の滅亡に繋がる可能性が高いと警鐘を鳴らしていることにも触れた。では、どうすればよいのか。著者はその回答として、あの『共産党宣言』や『資本論』の著者として有名なカール・マルクスの晩期における思想を拠り所にして、〈脱成長コミュニズム〉という未来図を提案していることを予告しておいた。

 

 そこで今回は、その「気候危機を克服する唯一の道としての〈脱成長コミュニズム〉について」本書から学んだことを、私なりになるべく簡潔にまとめてみたい。

 

 気候危機を克服するためには、果てしない利潤追求によって経済成長を図っていく資本主義の下ではなく、「脱成長経済」=「脱資本主義」の下でなければならないと、著者は主張する。そして、「人新世」の時代に選択すべき資本主義ではない社会システムを描く際の理論ベースとして、晩期のマルクスの思索内容を紹介している。特にマルクスが生涯を通じて作成していた膨大な量の「研究ノート」には、今まで人口に膾炙していたマルクス思想、つまり生産力至上主義とヨーロッパ中心主義に基礎付けられた「史的唯物論」とは異なる思索が含まれていたのである。例えば、『資本論』第1巻刊行後、密かにエコロジー研究と共同体研究に取り組んでいたという内容。また、それらの研究内容から導き出された、「脱成長経済」のために〈コモン〉(社会的に人々に共有され、管理されるべき富のこと)に注目した思想。これはとても重要な点なのでもう少し説明を加えると、〈コモン〉というのは、アメリカ型新自由主義旧ソ連型国有化の両方に対峙する「第三の道」であり、水や電力、住居、医療、教育といったものを共有財として、自分たちで民主的に共同管理することを指す。そして、この〈コモン〉の領域をどんどん拡張していくことで、資本主義の超克を目指すという思想なのである。

 

 実はマルクスにとって「コミュニズム」とは、旧ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指すものではなく、生産者たちが生産手段を〈コモン〉として共同で管理・運営する社会であった。さらに、マルクスは人々が生産手段だけでなく、地球をも〈コモン〉として管理する社会を構想していたのである。哲学者のジジェクによれば、「コミュニズム」とは知識、自然環境、人権、社会といった資本主義で解体されてしまった〈コモン〉を意識的に再建する試みのこと。マククスは、この〈コモン〉が再建された社会のことを「アソシエーション」と呼んでおり、将来社会を描く際に「共産主義」や「社会主義」という表現はほとんど使っていなかったらしい。つまり、労働者の自発的な相互扶助(アソシエーション)が〈コモン〉を実現するというわけなのである。

 

 気候危機を克服する唯一の道としての〈脱成長コミュニズム〉。これこそ著者が本書で提唱している新しいコンセプトであり、最晩年のマルクスの資本主義批判の洞察をより発展させた構想である。この今までにないアイデアは、次の5つの柱とその内容概要にまとめられる。

① 「使用価値経済への転換」…「使用価値」に重きを置いた経済に転換して、大量生産・大量消費から脱却する。

② 「労働時間の短縮」…労働時間を削減して、生活の質(QOL)を向上させる。

③ 「画一的な分業の廃止」…画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる。

④ 「生産過程の民主化」…生産のプロセスの民主化を進めて、経済を減速させる。

⑤ 「エッセンシャル・ワークの重視」…使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視する。

 

 一部の富裕層以外のほとんどの生活者は、資本主義によって多くの「欠乏」を強いられる現実から脱出し、人間的な豊かさを伴う「潤沢さ」を享受することができる未来へ繋がっていく構想ではないか。①の柱は、食物ロスによる世界的な食糧危機を克服する道にも繋がっている。また、②・③・④の柱は、最近の私の労働体験を踏まえても、労働者を「疎外」から救い出し「生命」や「人権」を守ることになり、過剰な生産性を低減させていくと確信する。さらに、⑤の柱は、機械化が困難で人間が労働しないといけない労働集約型のエッセンシャル・ワーク、特にその典型である「ケア労働」(「感情労働」とも呼ぶ)を重視することによって、経済はより減速していくことになる。私は元教師なので、看護や介護、教育等に関係している「ケア労働」を重視する構想には大賛成であり、我が国の貧弱な現状を鑑みた時に特に強化してほしい柱である。

 

 本書の最終章において著者は、このような〈脱成長コミュニズム〉の種が世界中で芽吹いている実例を紹介している。例えば、「フィアレス・シティ」(恐れ知らずの都市)の旗を揚げるスペイン・バルセロナの「気候非常事態宣言」や、南アフリカの「南ア食料主権運動」等の動きに見られる<コモン>の共同管理。特にバルセロナが単なる先進国の一都市の運動にとどまらず、「グローバル・サウス」へのまなざしをもっている点が重要である。そのことが、資本の専制に挑む国際的な連帯を生み出しつつある現在に繋がっている。

 

 最後に、本書の「おわりに」の中で、著者は政治学者のエリカ・チェノウェスらの研究から、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で本気で立ち上がると、社会が大きく変わるという成果を述べ、読者に対して力を合わせて連帯し、資本の専制からこの地球という唯一の故郷を守るために、〈脱成長コミュニズム〉を実現していく「3.5%」の一人として加わってほしいと呼び掛けている。さて、皆さんはこれをどう受け止め、どのような行動を起こしますか。私はまだぼんやりとしたレベルではあるが、「3.5%」の一人となれるように、〈脱成長コミュニズム〉の特に⑤の柱に対応して自分の身近なところからできることを見つけ出してみようと思案している。

気候危機の原因たる資本主義の本質について~斎藤幸平著『人新世の「資本論」』から学ぶ①~

 退職して約1週間経った。この間、勤務していた財団の総務課から退職に際しての関係書類が送付されてきて、健康保険の任意継続や雇用保険の受給に必要な離職証明書作成の手続きなどを行っていたので、まだ精神的に落ち着いた気分にはなれない。そこで、一昨日は5年ほど前から入会している同好者によるテニス教室に参加し、気分転換を図った。それまで会場にしていた地元国立大学の専用テニスコートが約1年前から新型コロナウイルスの感染防止のために使用禁止になり、ずっと開催できなかったテニス教室だったが、今月から別の市民テニスコートを利用して開催することになったのである。約1年ぶりにラケットを握ってラリー練習をしたが、思うように身体が動かずなかなか勘が戻らなかった。しかし、その後の試合形式の練習になると、少しずつ自分なりのストロークやサーブができるようになり、本当に久し振りに爽やかな汗を流すことができた。やっぱりスポーツは心身をリフレッシュさせてくれる。毎週決まった曜日に開催されるというので、来週からも参加しようと思っている。

 

    一方、私の読書生活の方はというと、1月のNHK・Eテレの「100分de名著/カール・マルクス資本論』」で講師役を務めた経済思想家で大阪市立大学准教授の斎藤幸平氏の著書で、昨年9月22日第1刷以来、既に第7刷を刊行し売上が8万部を越えているという『人新世の「資本論」』を2月に入ってから読んでいた。そして、やっと昨日読了した。私は読み終えて、「この本は、私が抱いていたマルクス主義の負のイメージを刷新させるもので、人類の存続に大きく影響を及ぼす気候危機の原因たる資本主義の本質を明らかにし、その問題点を克服する唯一の道を晩期マルクスの研究成果に基づいて理論的かつ実践的に提示した画期的なものだ!」と感嘆の声を上げ、年甲斐もなく高揚した気分に浸った。

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 そこで今回は、本書から学んだことの第1弾として「気候危機の原因たる資本主義の本質について」なるべく簡潔にまとめてみたい。そして、次回はその第2弾として「気候危機を克服する唯一の道としての〈脱成長コミュニズム〉について」言及してみたいと考えている。

 

 本書の「はじめに」の中で著者は、国連が掲げて各国政府や大企業が推進している「SDGs(持続可能な開発目標)」では地球全体で起こっている気候変動は止められず、目下の気候危機から目を背けさせる効果しかなく、現代版の「大衆のアヘン」(かつて、資本主義の辛い現実が引き起こす苦悩を和らげる「宗教」に対してマルクスが批判した言葉)だと痛烈に揶揄している。私は、「えーっ、どういうこと?」と最初から面食らってしまった。

 

 では、その理由や真意を著者はどう語っているか。簡単に言えば、それは資本主義の下での経済成長を前提にしているからであり、その世界的な構造から導き出せるのである。資本主義の本質は、人々の生活に必要な「使用価値」よりも人々の欲望を充足する「価値」を優先することで商品の希少性を高めることにより、経済を成長させていくことにある。そして、その資本主義を強力に発展させてきた「グローバル・ノース」(グローバル化によって恩恵を受ける領域およびその住民)と呼ばれる先進国の豊かな生活は、「グローバル・サウス」(グローバル化によって被害を受ける領域およびその住民)という「外部」から収奪したり、環境負荷等を転嫁したりすることによって支えられてきた。しかし、そのような「外部」はもはや地球上のどこにも存在しなくなった。当たり前のことだが、地球の環境資源は有限なのである。だから、資本主義の下での経済成長を前提として豊かな生活を続けながら「SDGs」による取組を実践しても、それは一時しのぎのアリバイ作りにしかならず、転嫁先がない限り「人新世」(人間の活動の痕跡が、地球の表面を覆い尽くした年代)において「気候変動による地球環境の破壊⇒人類の滅亡」は一層進むことになる。言い換えれば、私たちが気候危機に抜本的な手を打たなければ、ポイント・オブ・ノーリターン(もう二度と元の状態に戻れない地点)を超えてしまうかもしれないというのが真意。

 

 著者は本書の前半で上述のような内容を主張しているのだが、そのために「グローバル・サウス」の世界的な事例を少なからず取り上げている。例えば、ブラジル・ブルマジョーニョ尾鉱ダムの決壊事故やインド・バングラデシュの綿花栽培と縫製工場、インドネシアやマレーシアのパーム油生産等の事例。私たち先進国の生活は、このような「どこか遠く」の人々や自然環境に負荷を転嫁し、その真の費用を不払いにするような不公平で理不尽な差別や格差を前提条件としているのである。ところが、その不合理な暴力性は今まで私たち先進国の人々には不可視化されてきた。今、その実態が気候危機という言葉と共に知られるようになり、次第に可視化されてきている。そのために、私たちがその免罪符として「SDGs」による取組、例えばエコバックを買うことによって満足感を得ているとしたら、そのエコバックが作られる際の遠くの地での人間や自然への暴力性の現実について、ますます無関心になってしまうのではないか。著者は、アメリカの社会学者・イマニュエル・ウォーラーステインの「世界システム」論に基づきながら、そのように訴えている。

 

 私たち人類に残されている時間が少ないというのが、紛れもない切実な真実。であるならば、私たちはどうすればいいのだろうか。私たちに残された解決法はないのだろうか。著者は、これに対する回答として、あの『共産党宣言』や『資本論』の著者として有名なカール・マルクスの晩期における思想を拠り所にして、〈脱成長コミュニズム〉という未来図を提案している。次回は、この内容概要について私なりの要約で紹介したいと考えている。

「疎外」と「パワハラ」から脱し、「生命」と「人権」を守るために退職しました!

 前回の記事で1月のEテレ「100分de名著」を取り上げ、『資本論』の中でカール・マルクスは、資本主義社会における生産性の向上によって「構想」と「実行」が分断されることで、資本家が労働者に対する「支配」を強め、そのために労働者が「疎外」されるという事態を最も問題視していたことについて綴った。そして、「構想」と「実行」の分離を乗り越えて、労働における自律性を取り戻すこと、言い換えれば、やりがいのある、豊かで魅力的な労働を実現することをマルクスが目指していたことにも触れた。また、結びには講師役の斎藤幸平氏が、労働の自律性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」を広げていく必要性を訴えていることに私が共感したことを述べ、自分自身の職場環境を見直す決意を示した。その結果、私は昨年の8月から勤務していた当市の男女共同参画推進財団内にあるファミリー・サポート・センターを、この1月末をもって退職することにした。わずか6か月間の勤務であった。

 

 そこで今回は、私が退職するに至った経緯とその要因等について、具体的な事例も絡ませながら綴ってみたいと思う。このことは、無意識に閉じ込めた負の感情を顕在化する作業も伴うと思うので、私としてはなるべく冷静に客観的に述べるように配慮しつつ言葉を紡いでいこうと考えている。

 

 私がアドバイザーとして勤務していたファミリー・サポート・センターとは、地域において育児や介護の援助を受けたい人(「依頼会員」と呼ぶ)と援助を行いたい人(「提供会員」と呼ぶ)が会員となり、育児や介護について助け合う組織である。当センターの業務内容は、育児と介護に分かれており、各二人ずつが担当している。私が担当していたのは、育児に関する業務であった。当初、私は育児担当の先輩女性職員(以後、K)から業務内容とその遂行手順等を教えてもらい、手習い的な仕事をすることから始まった。その際、Kは細かい業務内容や手順等を教えてくれたので、私としては有難いと思っていた。ただし、その指導口調はややきつく、陰険なものであったが…。私としては指導を受ける立場なので、少しぐらいは我慢しなければいけないと謙虚な姿勢を崩さずに、その指導を甘んじて受け入れて業務内容を忠実に遂行することに専念していた。

 

 そのような情況が約2か月続き、私も次第に育児担当の業務内容や手順等にも慣れてきたので、自分なりに見通しをもって自律的に仕事をするように心掛けた。しかし、担当業務を遂行する中で些細な事務的ミスを犯すことがたまにあった。その時、Kからそのミスを厳しく指摘され、他の職員たちの前で感情を露わにして叱責されることがあった。正直、この事態が私には信じられず、自尊心が大きく傷つけられたが、ここで言い争いをすることは職場の雰囲気を乱すとともに来客にも不快な思いをさせることになると思い、その場では穏やかな口調で抗議しただけで自分のミスを素直に謝罪し業務の円滑な遂行を優先した。この時の私は、Kの言動に特別な悪意はないだろうとやや甘く見ていた。

 

 ところが、それ以後も同様なことが度々起こった。また、それだけではなく、Kはその場にいない他の職員や上司に対する悪口を平気で言い募ったり、介護担当の二人の職員に対しても高圧的な態度で接したりすることが目立つようになった。さらに、業務上の諸課題を解決しなければならない場面では、口ではみんなと相談して決めようと民主的なことを言いながら、実際は私が意見を表明しようとすると他の二人の職員を言いくるめて発言を封殺して、自分の考えを押し通そうとする言動を取ることもあった。私が勤務していた当財団は公益財団法人なので当然民間の営利企業ではないが、Kは前回の記事で触れたような「資本家に雇われた現場監督」そのものであり、私を含めた他の職員たちにとっては労働における「構想」と「実行」を分断させるような存在だったのである。特にKは育児業務を担当する先輩職員だったので、私は指示された業務内容をただ遂行するという「実行」のみの労働を強いられていた。

 

 このような職場環境の実情を、私は館長との面談の際に訴えた。館長は私の言い分に理解を示し、財団内の全職員が集まるミーティングの席で、上司によるパワハラはもちろん、同僚による人権侵害的な言動を慎むようにという主旨の指導講話を行ってくれた。しかし、Kの態度は改まらなかった。だから、私はそれ以後も何度か抗議の意思を伝えた。ただし、Kと同じ土俵に立つような言動ではなく、あくまでも相手の人格や人権を尊重した穏やかな言動で…。それでも、態度が大きく改善することはなかった。否、今まで以上の「パワハラ」的な言動を示すことが起こった。それは、今月中旬頃、ある依頼会員と提供会員の間に子どもの体調不良の原因をめぐるトラブルが発生し、その解決過程における対応の在り方について私とKとの考えに違いがあることが表面化した。その際、私はKから職務能力や人格を否定するような暴言を受けたのである。私の我慢の限界は超え、仕事に対するモチベーションも一気に低下した。また、その後、不眠や動悸等の症状が起きてきた。

 

 このような「疎外」と「パワハラ」が常態的な職場環境にこのまま身を置いていたら、大袈裟に聞こえるかもしれないが、私は自らの「生命」と「人権」を守ることができない。私は、この実情を再度、館長に訴えた。そして、この職場環境の実態を認識してもらうために、関係職員への事情聴取を要請した。すぐに館長はこの件を事務局長へ伝え、すぐさま事情聴取が行われた。その結果、Kの「パワハラ」的言動についての事実が一部認定された。しかし、Kに対する何らかの処分が下されることはなさそうだった。また、私が主張した労働における「疎外」的現状については十分に認められなかった。これでは、職場環境をよりよく改善し「労働の民主制」を確立することは困難だと私は判断して、自らの「生命」と「人権」を守るためにこの1月末をもって退職する道を選んだのである。

 

 私には職場環境を改善するために留まるという選択肢もあったが、もうこの時点ではKに対する生理的な拒否反応が強く、それに逆らうことはできなかった。だから、私はこの決断について何の後悔も未練もない。ただし、私の労働意欲そのものはまだ衰えていないので、しばらくはこの半年間の職場でのストレスによる心身の疲労を癒すことに専念した上で、いずれはボランティア的な活動も視野に入れて、何らかの社会的・共同体的意義のある公共性の高い仕事に再度、挑戦したいと考えている。今回の勤務経験を通じて、改めて子どもを教え育むという教師という職業が私の天職だと再認識することができたので、できれば教育という営みと関連性の深い仕事を見つけたい。

 

    それまでは、2月11日に満4歳の誕生日を迎える孫(長女の第1子)のHや、2月下旬に生まれる予定の二女の第1子(私にとっては二人目の孫)の子育て援助、つまり「孫育て」の役割を全力で果たそうと思っている。そのためにも、心身の健康の保持・増進を図って低下した免疫力をアップさせ、万が一、新型コロナウイルスに感染した場合にも重症化しないような抵抗力を付けることを最優先にした日常生活を送りたい。早くワクチンも接種したいが…。

「構想」と「実行」の分離が及ぼす労働者への影響とは…~「100分de名著」におけるカール・マルクス著『資本論』のテキストから学ぶ~

 昨年末から本年にかけてずっと、職場における人間関係や業務内容等、また、それらと関連して変化してきた仕事に対するモチベーションなどの問題について悩むことが多かったので、いつの間にか時間的な感覚が鈍化していた。そのため、気が付くと暦は1月も下旬に入っていた。しばらく休眠状態にしていたTwitterを久し振りに閲覧していると、今月の「100分de名著」で取り上げられているのがカール・マルクス著『資本論』だということを告知するツイートを目にした。しかも、最近刊行され早くも7万部を突破した『人新世の「資本論」』の著者で、若き俊英と言われている経済思想家の大阪市立大学准教授・斎藤幸平氏が、講師役を務めているというではないか。これは遅ればせながら、当番組のテキストを購入して学習しようと思い立ち、既に録画予約していた番組を連続して視聴しながらここ数日間で読み通した。

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 そこで今回は、現在の私の職場環境にも関係している第3回の放送内容の中から、資本主義社会において資本家が生産力を増大することによって必然的に惹起する、労働者の「構想」と「実行」の分離という事態が、労働者にどのような影響を及ぼすかについてまとめ、私なりの簡単な所感を綴ってみたい。

 

 講師の斎藤氏は、資本主義がもたらす生産力の増大に関連して、資本家の労働者に対する「支配」の強化を、マルクスは最も問題視していたと述べている。具体的には、生産力が上がれば上がるほど、労働者はラクになるどころか、資本に「包摂」されて自律性を失い資本の奴隷になると、マルクスが指摘していることを挙げている。では、一体なぜ、生産力の向上が資本による支配の強化につながるのか。斎藤氏は、おおよそ次のような説明をしている。

 

 人間は「意識的かつ合目的な」労働を介して自然との物質代謝を営んでいるが、この労働のプロセスは大きく分けて2つに分けることができる。「構想」と「実行」である。まず、「構想」とは、何かを生産する時にどのような材料でどのような形の物を作ればいいか、どのようにしてその機能性を高めるかなどと頭で考える作業で、マルクスは「精神的労働」と呼んだ。次に、「実行」とは、実際に自身で身体を動かして構想を実現する過程で、マルクスは「肉体的労働」と呼んだ。本来、人間の労働は、「構想」と「実行」、「精神的労働」と「肉体的労働」が統一されたものであった。

 

 ところが、資本主義のもとで生産力が高まると、その過程で「構想」と「実行」が、あるいは「精神的労働」と「肉体的労働」が分断されるとマルクスはいう。「構想」は特定の資本家や、資本家に雇われた現場監督が独占し、労働者は「実行」のみを担うようになるのである。では、どうやって「構想」と「実行」を分離するのだろうか。

 

    一番簡単なのは、生産工程を細分化して、労働者たちに分業させるという方法。これによって労働者は、「構想」する機会を奪われてしまう。また、分業化された工場では、労働者は決められた部分作業を毎日繰り返しやらせされるために、知識や洞察力が身に付かない。つまり、「実行」の面でも豊かな経験を積んで自分の能力を開花させることができないのである。

 

    したがって、この仕事は誰にでもできる単純作業なので、自分の代わりになる人は工場の外にたくさんいる。仕事を失いたくなければ不平・不満はぐっと飲み込んで、ノルマを達成すべく黙々と働かざるを得ない。そうなると、ますます資本家との主従関係が強化されてしまい、労働者はさらに「疎外」(資本主義社会において機械に奉仕する労働を行うことによって、自分たちの欲求や感性がやせ細り、貧しいものになっていくこと=自らの手で何かを生み出す喜びややりがい、達成感・充実感を味わえないこと)されてしまうのである。

 

    このような労働者の「疎外」という問題を、マルクスは何より問題にしていた。そして、人間の労働という豊かな「富」を回復するためにマルクスが目指したのは、「構想」と「実行」の分離を乗り越えて、労働における自律性を取り戻すこと。過酷な労働から解放されることだけでなく、やりがいのある、豊かで魅力的な労働を実現することであったと、斎藤氏は強調している。マルクスが思い描く将来社会の労働者とは、各人がその能力に応じて、「全面的に発達した個人」だったのである。だからこそ、斎藤氏は次のように力説する。本来イノベーションに必要なのは、労働者の「疎外」を克服することなのではないか。パラダイムシフトをもたらすような真のイノベーションのためには、労働者たち自身が絶えざる競争から距離を置いたり、自由にいろいろな発案や挑戦ができたりするような環境整備が必要となるのではないか、と…。

 

    第3回の放送分のテキスト内容の最後に記された、次のような斎藤氏の呼び掛けに私は大きく頷いていた。…若きマルクスが求めたように、「人間的および自然的存在の富全体に適応した人間的感覚」を取り戻しましょう。そのためには、「資本の専制」と「労働の疎外」を乗り越え、労働の自律性と豊かさを取り戻す「労働の民主制」を広げていく必要があるのです。

 

   「労働すること」や「仕事をすること」の本来的・民主的な意義について、現実の職場環境から目を反らさないでもう一度考え直す必要があることを、私は強く感じた。