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「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

出臍コンプレックスについて~帚木蓬生著『風花病棟』所収「チチジマ」に触発されて~

 今年の1月、埼玉県ふじみ野市の住宅地で、男が散弾銃を発砲し、在宅クリニックの医師を殺害するという事件があった。殺された医師は、その人柄や診療振りが地域の人々や患者から評判のよい良医だったという。長らく介護していた母親を事件前日に亡くした容疑者は、「これから先、いいことはない。」と自暴自棄になって負の感情を爆発させ、凶行に及んだらしい。このような事態に巻き込まれた訳だから、医師にとって全く理不尽極まりない事件である。私は殺された医師と遺族の心情に思いを馳せ、何ともやるせない気持ちになってしまった。亡くなった医師に対しては心からご冥福をお祈りするとともに、遺族に対しては慎んでお悔やみを申し上げたい。

 

 私は当ブログを始めた頃に、医師に対してやや批判的な記事を綴ったことがある。そのきっかけは、硬式テニスのゲーム中に腰を強く振ったことが原因で発症した「腰椎椎間板ヘルニア」を最初に診察してくれた整形外科医の、あまりにも患者の気持ちを逆なでするような診療態度に対して、怒りにも似た感情をもったことであった。しかし、世の多くの医師は患者に対して誠実に接し、最善の診療をしていると信じている。散弾銃によって殺害された医師もそのような良医だったのではないか。そんなことを考えていた私は「ごく普通の良医の姿を描いた小説を読みたい。」と急に思い立ち、長く積読状態にしていた『風花病棟』(帚木蓬生著)を取り出した。それ以後、この2週間ほど私の寝床における読書の対象になっていたのだが、最近やっと読了した。

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 本書に所収されている10篇の短編小説は、1998年から2007年の小説新潮7月号の山本周五郎賞発表特集に毎年掲載された作品群である。患者という教科書によって教育されている「普通の良医」を登場させた豊饒なストーリーは、私の心に清々しい春風を吹き込んでくれた。どの作品も著者特有の細やかな心象表現が描かれ、温かい人間愛に満ちていた私好みの作風だったが、その中でも戦時中、父島で見かけた米兵と偶然再会し友情を深め、その米兵が見せる日本への贖罪の気持ちを現わした言動を描いている「チチジマ」が、特に気に入った。だが、それ以外にも「チチジマ」という短編の内容の中に惹かれた部分があった。それは、県立病院の院長になった主人公が感染症国際学会で発表する演題が「臍の垢による破傷風三例」であったことである。

 

 なぜ私はこの演題に惹かれたのか。破傷風を発症した三症例に共通していたのが、70代の患者が子どもの頃から臍を洗ったことがなく、臍窩につまった垢の厚みが1㎝から2㎝もあり、その垢栓塞から破傷風菌を分離することができた点であったことに興味を抱いたからである。どうして今まで一度も臍を洗わなかったのか?その理由は、日本には昔から臍の中は洗うなかれという言い伝えがあり、この高齢者たちはその因習を後生大事に半世紀以上にわたって守ってきたからである。

 

 実は私も今まで臍をあまり洗った記憶がない。しかし、私の場合は言い伝えを守っていた訳ではなく、少し出臍なので臍窩があまりないから垢が溜まりにくいので洗う必要がないのである。もちろん少しは垢が溜まる部分があるけど、垢栓塞ができるような構造にはなっていないのである。私は今までの人生で出臍であることのよさを感じたことはなかったが、今回初めて出臍でよかったと思った。私は小さい頃から自分が出臍であることにコンプレックスを持ち続けてきた。出臍は恥ずかしいことだから、銭湯に行った時もタオルで隠そうとしてきたのである。

 

 では、なぜ出臍を恥ずかしいと思ったのか。それは幼い頃に「おまえの母ちゃん、出臍、電車にしゃがれて、ペッチャンコ…」と友達が揶揄しているのを見聞きしたことが影響していると思う。この揶揄する言葉は相手をバカにする時に発するのだから、「出臍」は恥ずかしいことだと私の心に刻印されたのだと思う。それ以来、私は自分の出臍に対してコンプレックスを感じてしまったのである。だから、銭湯に行った時だけでなく、学校で水泳の授業がある時にはいつも水泳パンツを臍の上まで引き上げてはいていた。少なくとも、常にそれを意識して行動していたと思う。私は他者の視線が常に気になり、特に中学生の頃は思春期の敏感さも加わって自意識過剰な精神状態に陥っていたのである。

 

 このような自意識過剰の精神状態は成人してからも続いていたが、この出臍コンプレックスを克服するためには人生において容姿よりも人格の方が大切な価値なのだと自分に言い聞かせるようになっていった。だから、私は勉強や仕事などに一生懸命取り組み、家族の一員として誠実に生きることを通じて、自分の人間的・人格的価値を高めようとしたのだ。その結果、大人になってからはそのコンプレックスを意識することはなくなったが、多くの子どもにとっては多数派ではないことや普通ではないことに対してコンプレックスを感じてしまうものなのではないか。現在、<多様性>や<ダイバーシティ>を保障するということが、我が国でも大きな社会的な課題になっている。この喫緊の課題を達成していくためには、<多数派や普通とは違う存在>としてとらえられているマイノリティー、特に障害者に対して合理的配慮や環境調整を行うことで、社会的な障害を作らないという「特別支援教育の理念」がもっと社会全体に浸透していかなくてはならないと実感している。私もそのためのささやかな実践を、これからも積み重ねていきたいと考えている。

「子ども虐待」という発達障害?~杉山登志郎著『発達障害の子ども』『発達障害のいま』を読んで~

 「子ども虐待」によって死に至らせたのではないかと思われる痛ましい事件が起こった。テレビニュースによると、神奈川県大和市で母親が7歳になる次男を窒息死させたという殺人容疑で逮捕されたらしい。今までに、その母親の長男、長女、そして三男も、生後半年未満で死亡している。母親は今回の容疑を否認しているらしいが、亡くなった次男の後頭部には強い圧迫痕が残っていたという。母親は限りなく黒に近いと私は思うが、まだ容疑者の段階なので犯人扱いをしてはならないので、本件についてこれ以上に言及することは控えたい。しかし、それにしても近年、「子ども虐待」に関連する事件の報道が多いように思う。

 

 子どもを虐待する養育者の動機は、その人の成育歴や生活環境の条件等を精査していくと、様々な背景や要因等が入り組んで形成しているのであろう。よく「虐待の連鎖」という言葉を聞くので、養育者も虐待の被害者だった事例も多いのではないかと思うが、だからと言って「子ども虐待」の正当な口実にはならない。心身共に幼く、手厚く養育されるべき弱者の立場にある子どもに対して、身体的・精神的な虐待を与えるということはどんな言い訳も容認できないものである。ただし、それを道徳的・倫理的に非難すれば事足りるとも私は思っていない。やはり、虐待する動機や背景、要因等についてきちんと分析することを通して、「子ども虐待」を未然に防ぐ手立てを講じることが、私たち大人や社会に求められているのである。

 

 そんな思いを抱いていた中、「子ども虐待」と発達障害との複雑な関係やトラウマの問題、また「子ども虐待」という発達障害という独特の考え方について知る機会を得た。それは、初版を発刊してからもう随分年月を経ている『発達障害の子ども』『発達障害のいま』(杉山登志郎著)を読んだからである。2冊とも私が今の仕事に携わるようになって、ある古書店で購入したものであり、著者の杉山氏が2001年秋から2010年秋までの9年間勤務していた「あいち小児保健医療総合センター」における臨床事例を数多く取り上げている。特に「子ども虐待」臨床と発達障害臨床が密接に絡み合うことや、こころの臨床におけるテーマが精神分析ではなく、発達障害とトラウマであることなどについて当時としては新たな知見を提出している点、私は大変に興味深く読み進めることができた。

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 そこで今回は、その興味深い内容の中でも特に私が意表を突かれた「子ども虐待」という発達障害の考え方について、『発達障害の子ども』の<第7章 子ども虐待という発達障害>の内容を紹介しながらその概要をまとめてみたい。そして、いつもながら私なりの簡潔な所感を付け加えてみたいと思う。

 

 著者が勤務していた小児センターは、軽度発達障害のセンターであると共に、子ども虐待の専門外来である「子育て支援外来」を開設することで子ども虐待治療センターとしても機能していた。そして、開院後5年間における子ども虐待患児575名について調べた結果、広汎性発達障害(現在は概ねSAD=自閉症スペクトラム)が全体の24%、ADHDが全体の20%おり、何らかの発達障害と診断される子は何と全体の54%もいたそうである。また、その内の85%までがIQ70以上だという。つまり、軽度発達障害が虐待の高い危険因子となることが示されたのである。

 

 反面、「子ども虐待」に認められる後遺症として「反応性愛着障害」(子どもの愛着行動の形成に支障が生じた症状が出る)や「解離性障害」(脳に器質的な傷を受けていないのに、心身の統一が崩れ、記憶や体験がバラバラになる解離という症状が出る)が起きるのだが、それらは多動性行動障害を軸とした発達障害症候群(広汎性発達障害ADHD様の症状を示す)を示すことが少なからずあると言われている。例えば、被虐待児の示す症状は幼児期には「反応性愛着障害」としてまず現れ、次いで小学生になると「多動性行動障害」が中心になり、思春期に向けて「解離性障害」が出て、その一部は非行に推移していくのである。さらに、治療がされない場合は、複雑性PTSD(解離が日常化し、感情のコントロールや衝動コントロールが非常に困難になり、重度のうつ、自殺未遂、様々な依存症、多重人格等の症状を特徴とする重症の精神障害)の病態に陥ることになる。

 

 以上のようなこと以外にも、近年は脳の機能画像研究が急速に進み、その結果が示されるようになった。具体的には、脳梁の機能不全が解離症状と関連するなど、被虐待児の示す症状との間に連関を見ることができたり、広汎性発達障害ADHDにおいても基盤となる器質的な所見が明らかになったりしている。しかし、被虐待児に示されたほど明確な器質的な変化は認められていないので、一般的な発達障害より「子ども虐待」の方がより広範な脳の発達の障害をもたらすことが示されているのである。このような事実から著者は、「子ども虐待」を一つの発達障害症候群としてとらえるべきではないかと提言している。

 

 著者が発達障害という規定を行う目的は、不可治性を強調することではなく、治療と教育により軽快し、恒常的な変化に対する修正が可能であることを強調するためである。被虐待児への治療および教育を、発達障害児への療育という視点から見直すことは意義があるのである。特に重度の被虐待児を通常教育のシステムの中だけで教育するのは不可能だから、どうしても特別支援教育が必要であると強く訴えている。私は家庭に恵まれなかった子どもたちの子育てに学校が積極的に関与することは必要だと思うが、それがより効果を上げるためには<教育だけでなく、医療や福祉との連携をより深め、強力な子育てネットワークを構築していくこと>が不可欠はないかと考えている。しかし、実際の現場ではまだまだ有効に機能していない現実があり、その実態を詳細に分析した上でより有効的な対応策を講じていく必要があると強く感じている。私は、この課題解決に向けて特別支援教育の指導員という立場で多少なりとも尽力していきたい。

発達障害のある子の育て方で大事なポイントについて~本田秀夫著『子どもの発達障害―子育てで大切なこと、やってはいけないこと―』から学ぶ~

 昨日、新型コロナウイルスの第3回のワクチンとして半分量のモデルナを接種した。テレビニュースによると、「第1・2回がファイザー、第3回がモデルナという交互接種による抗体の増え方は第3回もファイザーを接種した場合よりも約1.5倍あるが、副反応の方は発熱を起こす割合が約2倍になる。」と言っていたので、少しビビッていた。しかし、今、接種後24時間以上を経て、接種局部の多少の筋肉痛以外の副反応はないのでホッとしながら、この記事を書いている。

 

 新年を迎えてオミクロン株が感染爆発して、感染者が一気に高齢者や子どもにも拡大してきた。3学期になり当市の小中学校の関係者でも陽性者や濃厚接触者が出てきて、一時は学校を休校する事態が発生していたが、オミクロン株の性格等を考慮して現在はその対応は縮小して3日ほどの学級閉鎖の措置に変わってきた。この間、何らかの「困り感」のある子どもに対する適切な支援についての教育相談に応じるために学校現場へ出掛けることが多い私は、徹底した感染予防をしてはいるものの、やはり気持ちの上では気が気でない状態であった。しかし、今回第3回の追加接種をしたので、少しは感染リスクを下げることができるのではないかと、ちょっと胸をなで下ろしている。

 

 ところで、本年度も後わずかになり教育相談の申請数も少なくなってきたが、気になる我が子が進学・進級する次年度へ向けて今の心配や不安を少しでも取り除きたいという思いを込めた保護者からの申請がまだある。その中には、学校の先生方は学校生活の様子を見たり実際に接してみたりして当該の子の「困り感」を実感しているから、保護者へ教育相談を受けないかと今までに何度か働き掛けている保護者がいる。その保護者は、現実から目を反らしながら逡巡していたのだが、この年度末になってあるがまま現実を見てみると何かと心配や不安が膨らんできたので思い立ったらしい。だから、そのような保護者の心理情況を踏まえて、私たち特別支援教育・指導員は保護者に対する教育相談に臨む必要がある。

 

 先日、私は何かヒントになる本を探しに職場近くの大型書店へ昼休みに足を運んでみた。すると、当ブログの記事で以前に紹介したこともある精神医学者で医学博士の本田秀夫氏の著書『子どもの発達障害―子育てで大切なこと、やってはいけないこと―』を見つけ、早速購入して読んでみた。「これは、幼児期から思春期にさしかかる時期までの子どもの保護者に対する教育相談に臨むにあたって、心得ておくとよいことがたくさん書かれている!」と思いながら、私はページを捲った。その理由は、発達障害のある子だけではなく、保護者が何となく気付いている「困り感」をもっている子どもも想定して、その対応例を具体的に紹介してくれているからである。そこで今回は、私がなるほどと納得した内容の一部を紹介しながら、その簡単な所感も付け加えてみようと考えている。

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 著者は、発達障害のある子の育て方で大事にしたいポイントとして、次の3つのポイントを挙げている。

① グレーとは、白ではなくて 薄い黒

② 「せめてこれぐらい」はNGワード

③ 「友達と仲良く」と言ってはいけない

 

 ①の意味は、発達障害のある子に多数派の子ども(白のこと)と同じように行動したり、勉強をしたりすることを求めてはいけない。薄い黒のグレーなら、グレーのままで無理なく過ごせるような環境調整を心掛けるとよいということ。②の意味は、①と同様に発達障害のある子を、心配や期待を込めて平均値の子ども(白のこと)に近づける「せめてこれぐらい」という意識から切り替えることが必要であること。③の意味は、発達障害のある子の中には、親に「友達と仲良く」と言われると、そうしなければいけないと無理に相手に会わせようとして過剰適応してしまい、ストレスを溜め込んでしまう子がいるから、「友達と仲良く」と言ってはいけないのである。どのポイントも「発達障害のある子に世間一般の基準に合わせることを求めないで、無理をさせないこと」を言っており、当該の保護者にとってはなかなか受け入れるのは難しいかもしれないが、我が子をちょっと客観的に、親戚の子どもぐらいの距離感であるがまま見てもらうように働き掛ける必要があるであろう。

 

 特に保護者にとって、③のポイントが受け入れがたいのではないか。日本のように「世間」がまだ日常的に機能している社会では、常に「同調圧力」が働いているので、共同体内における他者との協調性、つまり「友達と仲良く」することを無言のうちに強制させられているのが現状ではないかと思う。だから、親としては我が子が共同体から排除されたり差別されたりしないように、幼い頃から「友達と仲良く」と言ってしまうのである。しかし、発達障害のある子の中には興味の幅が狭く、自分のペースで活動をしてしまう子もいる。そのような子の場合には、自分の好きなことを楽しんでいる内に結果として誰かと仲良くなれることもあることを知らせよう。私は、本来「友達と仲良く」ということを目標にするのではなく、結果として実現する願いぐらいにとらえている。だから、保護者にもそのようなとらえ方に意識を変えなければ我が子に強いストレスが掛かり、精神的に追い込まれしまうことをしっかりと伝えたいと考えている。

 

 もう一つ、著者が発達障害のある子の育て方で大事にしたいポイントとして強調していることがある。それは、「勉強を教えるなんて、100年早い!」ということである。ほとんどの保護者は、「いやいや学校では勉強ができなければ、本人が劣等感を抱くことになり、その結果として自己肯定感を低下させてしまうではないか。」と考えるであろう。私も本書を読むまでは、そう思っていた。しかし、著者の次のような説明を読んでいくと、一応納得できる。

 

 …勉強は、何歳になってもできます。大人になって仕事についてから業務に興味をもち、自主的に勉強して大成する人もいます。本当に学びたいと思うことがあれば、学習する習慣を身につけることは、いつでもできるのです。勉強は、身のまわりのことをあとまわしにしてまで、教えるようなことではありません。…

 

 確かに、人間が自立して生きていくためにまず求められる最低限のスキルは、身だしなみや食事・家事・持ち物や時間、お金、健康の管理等という生活面のスキルである。しかし、勉強や対人関係のスキルも、その後の人生において求められるスキルである。特に小学校低学年で学習する「読み書き、計算」という基礎学力は将来、社会的・経済的な自立をしていく上で不可欠になるスキルであろう。私たち特別支援教育・指導員が学校現場に出向いて、先生方や保護者に対する教育相談の内容は、むしろ勉強や対人関係に関するものが中心である。

 

 著者は、そのような実態だからこそ、あえて「勉強を教えるなんて、100年早い!」と極端なことを言っているのかもしれない。だから、私としては常にバランス感覚を保持しながら、保護者が我が子に対して勉強や対人関係のスキルだけに偏った願いや期待をしていると受け止められた際には、生活面のスキルについても適切なアドバイスができるように、もう一度本書の当該箇所をじっくりと読み直し、しっかりと理解を深めておきたいと考えている。

哲学とは何か?~萱野稔人著『哲学はなぜ役に立つのか?』から学ぶ~

 私は今までの人生において様々な困難に出合った時、それをどのように克服すればよいかと思案する中で、ともすると安易で短絡的な解決策を取ろうとする気持ちが起きることがあった。しかし、その度に「それでいいのか。その解決策は自分の良心に恥じない選択になっているのか。」と自問自答しながら、たとえその解決策が自分にとって苦しい選択であったとしても道徳的に考えてより善い行いだと判断すれば実行してきたつもりである。ただ、そのような決断は本当に妥当だったのかという問いをいつまでも引きずってしまうこともあった。だから、その決断の妥当性を確かめたいという欲求から、「哲学」や「倫理学」という学問に関心をもち、時々はそれらに関連する本を読んできたのである。

 

 私にとって「哲学」や「倫理学」という学問は、ある意味で自己の思考や判断の正当性を意味付けたり価値付けたりするために役立てようとする道具になっているのかもしれない。だが、それは「哲学」や「倫理学」を学ぶ動機としては邪道なのではないか。では、真っ当な学ぶ動機とはどのような動機なのか。また、「哲学」や「倫理学」はそもそも何の役に立つのだろうか、いや人は何かの役に立つから学ぶのだろうか。・・・様々な疑問の渦の中に未だにいる私は、それらに対するすっきりとした解答をどこかに求めているのである。

 

 そんな袋小路に入り込んだ気分の中で、最近読んだのが『哲学はなぜ役に立つのか?』(萱野稔人著)である。本書は、津田塾大学教授の萱野氏が月刊誌「サイゾー」において『哲学者・萱野稔人の“超”現代哲学講座』というタイトルで連載した40講座の中の前半を大幅に加筆・修正した「哲学の入門書」である。ただし、本書は哲学の入門書によくある哲学書を単に解説するものではなく、「哲学書を使って時事的な問題を考えることで、役に立つものとして示すこと」を第一の目的とした本なのである。

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 私は本書を読んで袋小路に入り込んだ気分を少しは晴らすことができたと思ったので、今回の記事で本書の特に第1講「哲学とは何か?」の内容から学んだことをまとめてみたいと考えている。

 

 著者は、フランスの哲学者、ジル・ドゥルーズ氏とフェリックス・ガタリ氏が著した『哲学とは何か』を参考にして、「哲学とは概念の創造である」という言葉を紹介している。また、分子生物学者の福岡伸一氏が著した『生物と無生物のあいだ』の中で、「生物とは何か」という問いに対して実証的なデータだけでなく、それを総合して概念的に考えていることに言及して、「哲学とは,ものごとをとらえるために概念的に考えたり、概念を練り上げたり、新たに概念を創出したりする知的営みのことである」と結論付けている。したがって、著者は哲学を一つの学問分野だと考えず、どんな分野でも概念的に考えるという「知の営み」だと考えているのである。そう言えば、当ブログで以前に取り上げた『暇と退屈の倫理学』の著者である哲学者・國分功一郎氏も同書の中で、「哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである」と述べていたことを思い出した。

 

 では、「概念的に考える」とはどういうことを指すのだろうか。著者は、例えば「国家とは何か」という問いに対して、「国家とは、領土、主権、国民(人民)によってなりたっている政治共同体である」という答えで満足するならば、それは哲学とは言えないと断定している。なぜなら、その答えは国家の構成要素を並べたにすぎないからである。著者は「そもそも国家なんていうものが社会のなかに存在しているのか」や「どのような原理によって国家というものがなりたっているのか」という疑問を解明することこそ、「国家とは何か」という問いを概念的に考えることであると述べている。そして、17世紀の哲学者・スピノザが語った「ものごとを定義するとはその起成原因(ものごとをなりたたせている原因や原理のこと)をとらえることである」という言葉を紹介し、例えば「国家とは何か」という問いに答えるということは国家を定義することに外ならず、学問的にはそれを通じてどのような理論を打ち立てられるか、その理論がどこまで妥当性や汎用性をもつのかが問題になる知的営み全てを貫いていることこそ、概念的に思考するという実践なのだと意味付けている。

 

 また、哲学という知の営みはどんな領域に対しても適応されることから派生する「領域横断性」と、哲学はできるだけものごとのトータルな把握を目指すという「総体性」の2つの性質が、哲学の大きな特徴だと言っている。だから、哲学の授業は単に哲学者の思想をそのまま解説するのではなく、ものごとを概念的に考えることを実践して示すことが大切だと主張して、「概念を通じて考えると世界で起こっていることはどのように見えてくるのか」が本書のテーマだと言明している。その意味で、本書は確かに「哲学は役に立つ」ということを実践化したものであり、本書を読んで私なりに「哲学とは何か」という問いの答えを見つけることができ、ずっと薄い霧がかかっていた私の頭の中が少し晴れたような気になった。これからは、自分の人生で出合った困難な事態について意識して概念的に考えながら、より善い解決策を見出していきたいと思う。それが哲学するということだから…。

「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換していこう!~伊藤亜紗著『手の倫理』から学ぶ~

 当ブログの2021年9月19日付けの記事で、『日本哲学の最前線』(山口尚著)という新書を取り上げた際に、日本の「J哲学」の担い手の一人である美学者・伊藤亜紗氏の『手の倫理』について言及した。記事の中で、私は本書で使用されていた「道徳」と「倫理」という言葉の概念を援用して、今回の学習指導要領において新設された「特別の教科 道徳」の授業は「倫理」を中核にした議論を大切にすべきではないかと提言しておいた。しかし、その時はまだ『手の倫理』を読んでいなかったので、『日本哲学の最前線』で述べられていた内容を拠り所として私なりの思いを綴ったものであった。

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 ところが、先日、その『手の倫理』を市立中央図書館で見つけた。私は小躍りして借り出し、数日間で読み通した。想像していた通り、著者の触覚に関する研究視点の面白さに惹かれるとともに、思考を深めて追究していく研究内容に引き込まれていった。本書のテーマは、「触覚の倫理」、特に人間関係という意味で主要な役割を果たす「手の倫理」であり、それを別の言い方で表せば「さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならではの関わりのかたちを明らかにすること」になる。このテーマそのものが魅力的ではないか。私はこのテーマに込められた著者の独自の課題意識に強い興味を覚えた。

 

 次に、本書の構成は、第1章「倫理」第2章「触覚」第3章「信頼」第4章「コミュニケーション」第5章「共鳴」第6章「不埒な手」という章立てになっている。どの章も、著者自身の体験に基づいた議論を展開しているが、今回の記事では特に第4章におけるコミュニケーションのモード(態度や調子のこと)に関する内容を取り上げながら、授業における教師と子どもたちとのコミュニケーションの在り方について問い直してみたいと考えている。

 

 著者はコミュニケーションについてモードを軸にして、その特徴から「伝達モード」と「生成モード」とに分類している。「伝達モード」の特徴というのは、伝えるべきメッセージが発信者の中にあり、それが一方向に受信者に伝わってくると想定されていて、「発信者/受信者」という役割が明確であるところ。それに対して「生成モード」の特徴というのは、「発信者/受信者」という役割が不明確で、やりとりの中でメッセージが持つ意味やメッセージそのものが生み出されるという、「その場で作られていく」ライブ感があるところ。そして倫理学者の水谷雅彦氏や社会人類学者の谷泰氏が、この「生成モード」というコミュニケーションの発想を高く評価していることを認めながらも、全てのコミュニケーションを「生成モード」で捉えることには異を唱え、場面によって「伝達/生成」の割合が異なると考えた方が自然だと述べている。私は、コミュニケーションのモードに焦点化した場面の事実認識は、カッコ書きで妥当性があると思った。カッコ書きの意味は、それぞれのモードの背後にある権力関係との関係性は別に問われるべき問題だと考えからである。

 

 ところで、このコミュニケーションの二つのモードは、教師と子どもという教育関係に基づいて行われる授業におけるコミュニケーションの在り方にも適用できるのではないだろうか。というのは、私が特別支援教育・指導員として何らかの「困り感」をもつ子どもの行動観察をするために学校現場へ出向き、主に授業を参観させてもらう時の教師と子どもたちのコミュニケーションはその多くが「伝達モード」中心である。もちろん全ての場面という訳ではなく、時には「生成モード」のコミュニケーションが発生する場面もあるが、比重としては「伝達>生成」モードである。だから、あまり意味創造の場にはならずに結果的に平板な面白味のない授業になっている。しかし、たまに比重が「伝達<生成」モードのコミュニケーションで展開されている授業を参観する時があり、その教室は意味創造が起こり結果的に学ぶ楽しさに満ちたダイナミックな授業になっている。

 

 様々な個性や特性をもった子どもたちが集まった学級集団を対象にして授業を行う大変さは、元教員の私にもよく分かる。特に近年は何らかの「困り感」をもつ子どもの数が増えているようなので、教師には特別支援教育の視点を踏まえた授業を実践することができる力量が求められており、そのための研修にも多くの時間が費やされるのであろう。多忙な日々の中で、「生成モード」のコミュニケーションを中心とした授業を展開する精神的な余裕もないかもしれないが、せめて現状の「伝達>生成」モードの授業を「伝達<生成」モードの授業へと転換してほしいと、私は強く願っている。子どもたちの豊かな学びと育ちを保障するために。

特別支援教育って、「発達障害」のある子どもたちを支援する教育のこと?~岡崎勝編著『発達障害 学校で困った子?』から学ぶ~

 愛知県名古屋市で40年以上、小学校教員を経験して現在は非常勤講師(理科)をしている「岡崎勝」という人がいる。おそらくもう70歳を迎えようとする年齢ではないかと思うが、今から約30年前に私は彼の名前をある本を読んで知った。その本というのは当時、愛知教育大学教授で体育・スポーツ社会学を専攻していた影山建氏らと共に刊行していた『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』である。私が地元国立大学教育学部附属小学校で体育科の実践研究に取り組んでいる中で、勝利至上主義に陥っていたスポーツ指導の在り方を相対化し、新しい発想で行う運動文化を創造できないかと模索をしていた際に、大いに刺激を受けた本なのである。

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 「トロプス」という名称は、Sport(スポーツ)を逆に綴ったTrops(トロプス)に由来しており、その定義を簡潔に言えば「スポーツのいやらしさに辟易している人々や、スポーツから落ちこぼれた人たちのための楽しい運動ゲーム」というものである。本書はその「トロプス」を生み出した経緯や意味付けた考え方等による理論編と、それを新たな運動文化として具体化したゲーム編の構成で作られている。当時、附属小学校は「個の自律化を図る授業」という研究テーマで各教科等の実践研究を進めており、最終的には新たな教育課程を編成しようとしていたので、体育科でも研究テーマの実現を図る教育課程づくりに専心していた。そこで、私が注目したのが「トロプス」という運動ゲームだったのである。

 

 当時の思い出話はこれぐらいにして、本題に入りたい。前振りが長くなったが、今回取り上げたい本は、この『スポーツからトロプスへ―続・敗者のないゲーム入門―』の編著者の一人である岡崎氏が、「発達障害」と向き合いながら学校の在り方を考え直そうとして刊行した『発達障害 学校で困った子?』である。現在の仕事をするようになった私は本書を市立図書館で見つけた時、「あの岡崎氏が特別支援教育関係の本を出している!どんな見解を披露しているのだろうか?」と興味をもち、読んでみたくなった。かつて近代スポーツ批判をしていた彼は一小学校教員として、一学級担任として、「発達障害」のある子どもたちと今までどのように接してきたのだろうか。本書のメインは、彼が2018年8月31日に神奈川県秦野市で行った講演〈「障害」の支援って何?〉の記録を基に構成した内容であるので、今回はその文章の中から特に印象に残った内容をまとめつつ、私なりの所感を付け加えてみたいと考えている。

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 本文章の中で彼は、「…子どもは一人ひとりちがいますから、実際につきあっていくうえでのボクの意識は『発達障害』か否かではなく、子どもの動きの振れ幅が大きいか小さいかという問題しかないわけですね。」と語り、その後ダウン症の子に対する配慮について述べた後、「…そういった対応をするのは、『障害はない』といわれるほかの子もみんな同じはずなのです。」と言い切っている。つまり、障害があろうがなかろうが、子どもは全て一人一人違った存在なので、各々に応じた個別の対応を心掛けることが教育の基本なのである。その意味では、教育という営み自体が「特別支援教育」なのであるという考え方であり、「発達障害」を始め何らかの障害をもっている子どもたちだけに対して行うのが「特別支援教育なのではないのである。この点について、私は彼と全く同様のとらえ方をしている。

 

 そして、最後の部分で彼はこんなことを語って結んでいる。「教員や保護者は一生懸命になりすぎちゃうと、自分を傷つけ、相手も傷つけるということになるので、適当にいいかげんに、バランスよくやっていくということがすごく大事かなと思います。」この中の「適当に」「いいかげんに」という言葉だけ聞くと、とてもマイナスのイメージを受けると思うが、これらの言葉の意味は「ほどよいこと」であったり「ある条件や目的・要求等にうまく当てはまること」であったりするので、プラス・イメージで言っているのである。また、「バランスよく」という言葉はそのままの語義で受け止めてよい。

 

 つい先日も、ある小学5年生の保護者との教育相談の場で、前年度の担任が学力不振の我が子に対して何とかしてやろうと、昼休みの時間も個別指導を一生懸命してくれたが、本人はそれがとても苦痛で登校を渋るようになったというエピソードを語ってくれた。まさに「一生懸命になりすぎて相手を傷つけてしまった」事例であろう。このような事例はよく耳にすることがあり、ある保育園では水が苦手な園児に対して、一生懸命にプールに連れて行って指導したためにその子は水に恐怖心をもってしまったという話も聞いたことがある。保育や教育という営みは、目標を達成するために、子ども自身の身になって考えるということをつい見失いがちになることがあるので、「発達障害」のある子どもに対しても特性に合った定説の支援内容や方法だからと言って、それを闇雲に取り入れて行うことは慎重でありたいものである。

コロナ禍で「濃厚接触」という言葉の導入がもたらした副作用について~古田徹也著『いつもの言葉を哲学する』から学ぶ~

 新型コロナウイルスのオミクロン株の感染力がすごい。東京都はあっという間に過去最高の1万人超えになり、本県でも過去最高の新規感染者数を連日記録している。今のところ重症化するリスクは低く、無症状や軽症の陽性患者が多いらしい。しかし、だからといって完全に安心することはできない。どのような後遺症が現れるか分かっていないし、その軽重度も見極めることはできていない。できるだけ感染しない方がよいのである。ただ、これだけ感染者数が増えてくると、特にエッセンシャル・ワーカーがオミクロン株に感染して仕事ができなくなると、社会・経済活動の停滞が起きて通常の生活機能の維持が困難な状況になってしまう。しかも、隔離期間が短縮されたとは言え、現在でも「濃厚接触者」に対して10日間の外出自粛、健康観察という隔離措置がなされているので、ますます社会・経済機能の維持が難しくなっているのである。

 

 それにしても、一般社会に流布されて今では日常会話にも出てくる「濃厚接触者」という言葉の意味って、本当に分かっている人はどれぐらいいるのだろうか。何となく分かっているようで本当にはよく分からなっていないのは、私だけなのだろうか。新型コロナウイルスの感染について報道されるようになった約2年前に、この「濃厚接触者」という言葉をテレビ・ニュースのテロップで最初に目にした時の私の印象は、「濃厚接触というのは、欧米人の慣習であるキスやハグのような濃厚なスキンシップをすることだろう。」だった。だから、「濃厚接触者に該当する人は、日本では数少ないだろう。」という楽観的なとらえ方をしていた。ところが、その後の報道番組で解説されていた「濃厚接触者」という言葉の意味は、私の最初の印象とは随分違っていたのである。「こんな誤解されるような用語をなぜ使うんだろう。」と、その時に私は大きな疑問をもってしまった。

 

 このような疑問を抱き続けていた私が、最近、その疑問を少し溶解させてくれるような文章に出合った。それが、『いつもの言葉を哲学する』(古田徹也著)である。著者の古田氏については、以前に読んだ『日本哲学の最前線』(山口尚著)の中で取り上げられていた哲学・倫理学者であるとは認識していた。また、その中で彼の著書『言葉の魂の哲学』について解説されており、私自身の言葉やその表現の在り方についての課題意識に重なることもあって、彼の「言葉の浅い理解へ落ち込まぬよう、むしろ言葉をめぐって悩むことが大事だ」という最終テーゼを印象深く覚えていた。だから、自宅近所の大型書店で新書版の本書を見つけた時、私はそのタイトルに大いに興味を抱いて、目次にざっと目を通した後に本文をぺラペラ捲って斜め読みをしてみた。すると、4章立ての全体構成や各章のテーマなどが内容的に面白そうで、しかも大変に分かりやすい文章表現だったのですぐに購入したという次第である。

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 本書の「第3章 新しい言葉の奔流のなかで」の中の<5「ロックダウン」「クラスター」-新語の導入がもたらす副作用>という文章の中で、「濃厚接触」に関する記述がある。次に、その概要を箇条書き的にまとめてみる。

〇 「濃厚接触」という言葉は、疫学上の専門用語であるclose contactの訳語である。

〇 疫学上の専門用語としての「濃厚接触」は、同じ部屋の中で一定の時間会話を交わすことといった、文字通りの意味では触れてすらいないケースを指す。

〇 「濃厚接触」という言葉の文字通りの意味と、疫学上の意味との乖離が、実際に害悪をもたらしたと思う。

〇 「濃厚接触」という言葉と、食卓を囲んだりおしゃべりをしたりという営みは通常は結び付かない。それゆえ、危険と思わずにそうした営みを続けた人々が当初は少なからずいたであろう。

 

 因みに、厚生労働省がホームページで示している最新の「濃厚接触者」の定義として示しているのは、次の通りである。

〇 濃厚接触者とは、陽性となった人と一定の期間に接触があった人をいいます。ここでいう一定の期間は、症状のある人では症状出現から2日前、症状のない人では検体採取時から2日前の期間です。
 この期間に、以下の条件に当てはまる人を濃厚接触者といいます。

〇 陽性者と同居している人
〇 陽性者と長時間接触した人(車内、航空機内などを含む。機内は国際線では陽性者の前後2列以内の列に搭乗していた人、国内線では周囲2m以内に搭乗していた人が原則)
〇 適切な感染防護なしに患者(確定例)を診察、看護もしくは介護していた人
〇 陽性者の気道分泌液や体液などの汚染物質に直接触れた可能性が高い人
〇 マスクなしで陽性者と1m以内で15分以上接触があった人

 ただし、これらの内容はあくまで原則であり、あらゆる状況を聞き取ったうえで保健所が総合的に判断することになっているが、それにしても何と「濃厚接触」という文字通りの意味とのズレが大きいのだろうか。

 著者は、文章の中で「濃厚接触」以外にも、「都市封鎖」(lockdown)や「社会的距離」(social distance)等という訳語について触れて、「耳慣れない言葉を馴染みの言葉の組み合わせに安易に置き換えることは危険だ」と指摘している。その理由は、馴染みの言葉は私たちに特定のイメージを自ずと喚起するものだから、そのイメージによって私たちを誤った理解や行動へと導きかねないからだと言っている。もちろん、かといってカタカナ語を私たちの間に無闇に生み出して、丁寧な説明もなく濫用するのも問題だと提起している。その理由は、私たちの間に理解の偏りやコミュニケーション不全を生み、適切な行動を取れなくさせかねないからだと言っている。

 

 この後、著者は「カタカナ語であれ何であれ、新語の導入には理解の偏りや誤解といった副作用があるので、それをできるだけ抑えられるように、公共性の高い領域において新語を導入する際には、はじめのうちにその適切さを皆で慎重に検討すべきであり、また導入後も、意味の手厚い説明を心掛けるべきだろう」とまとめている。そして、特定の分野を研究する専門家はもともとの原語が念頭にあるので、カタカナ語の分かりにくさや訳語の誤解のしやすさといったものが見えにくくなっていることがあると警鐘を鳴らしている。この警告の内容は、私にも耳が痛い過去がある。

 

 私が現職中に地元国立大学教育学部附属小学校に勤務していたことがあることは、今までの記事にも何度か記したことがあるが、その当時に教育実践研究に関する論考を書く中で新語をよく使っていた。そして、その論考で使用した特にカタカナ語の新語に対して、先輩や同僚等から「意味がよく分からない。もっと分かりやすい言葉にするとか、具体例を示すとか意味内容を説明してから使うとかできないのか。」という批判を浴びることがよくあった。その時は、批判者に対して「自分がもっと勉強して、末尾に示している参考文献を読んで理解すればいいのではないか。」と内心で反論していた。しかし、今、改めて振り返ってみれば自分の努力不足を痛感する。

 

 私の失敗事例はともかくも、公共性の高い分野で新語を導入する場合には、専門家だけに任せず、多様な分野の有識者や各世代の市民の見解や感覚等も踏まえて、初期段階でよく吟味して、適切な言葉を選び取るという過程を経ることが必要なのである。そういう意味で、このコロナ禍において導入されている多くの新語の副作用について、私たち市民が時間の経緯に流されず、時々は立ち止まって吟味することを怠らないようにしたいものである。

生活保護受給者のケースワーカーの矜持とは?~柚月裕子著『パレートの誤算』を読んで~

 懲りもせず、また読んでしまった。…私はある小説家の作品を最初に読んで気に入ったら、その人の他の作品も読んでみたくなり、機会を見つけては次々と読んでしまう癖がある。年初めの勤務日の昼休みに職場近くの市立図書館で借りて、ここ一週間ほど同時並行で読んでいた3冊の本の中の一冊、柚月裕子の『パレートの誤算』もそのような癖が出てしまった本である。『あしたの君へ』を読んで以来、柚月作品の魅力に取りつかれてしまった私は今までに同書を含めて九作品を読んできた。(『孤狼の血』は未読だが…)だから、本書で十冊目になる。そして、その内の『あしたの君へ』『検事の死命』『慈雨』『朽ちないサクラ』を当ブログの記事に取り上げてきたので、今回の記事で5度目になる。

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 私が市立図書館の書架に並んでいる本書を見つけた時、未読の柚月作品だったのでつい手を伸ばしてしまったのだが、何より題名に惹き付けられた。最初、私は「パレードの誤算」と読み間違えて、「パレードでどんな誤算が起きたのだろう?」などと呑気な連想をしてしまい、パラパラとページを捲っていた。すると、たまたまあるページの中に「パレートの法則」という文字を見つけた。そこで、私は少し立ち止まってそのページの中で「パレートの法則」について説明している箇所を拾い読みした。

 

 …たしかイタリアの経済学者が発見した統計モデル…80対20の法則とも呼ばれていて、ある分野における全体の約8割を、全体の一部である約2割の要素が生み出しているというもの…たとえば、社会経済だったら、全体の2割程度の高額所得者が社会全体の8割の所得を占めるとか、マーケティングだったら、2割の商品が8割の売り上げを作るとか言われている。…

 

 私はこの箇所を読みながら、「パレードではなく、パレートか。では、そのパレートの法則をどの分野に当てはめたのだろうか。そして、そこでどのような誤算があったのだろうか。」などと疑問が生まれ、ますます作品の内容に対する興味が増してきたのである。私は、本書を前回の記事で取り上げた『こころ傷んでたえがたき日に』(上原隆著)と共に借りることにし、この1週間ほどの寝床での読書の友にしたという次第である。

 

    柚月作品は、「ある職業に携わる者の矜持」を描く作品が多い。本書も、主人公は津川市役所福祉保健部社会福祉課の新人女性職員・聡美であり、彼女が生活保護受給者のケースワーカーを担うようになる時期に先輩の職員・山川が訪問していたアパートで火事が起きたことが物語の発端になっている。そして、その「ケースワーカーとしての矜持」が火事に関連した殺人事件を解明する鍵にもなっている。本書は、聡美が同僚の職員・小野寺と共に、殺人事件の謎を探っていくというミステリー仕立ての物語になっており、私は大いにそのストーリーにハマってしまった。…今までならここでつい本作品のあらすじを紹介したくなるが、それではネタバレになり未読の読者が興ざめしてしまうので今回は(今後も)止めておく。

 

    ところで、「生活保護受給者のケースワーカー」とは、どのような業務を行う職のだろうか。私は初めよく知らなかったが、本書を読んで分かった。簡単に言えば、「生活保護費の受給者の住所を定期的に訪問し、就労などの支援を行う行政の担当者のこと」で、自治体によるが福祉事務所と市役所の生活保護担当者がこの業務に当たるらしい。ただし、ケースワーカーの業務を担うことを嫌がる人間は多いという。生活保護受給者の中には、部屋をきれいに掃除しているケースは稀で、大半は万年床の周りに、食べかけのコンビニ弁当やチューハイの空き缶が散乱しているからである。そんな部屋を訪問するのを喜ぶ人間が少ないのは当然であろう。

 

 しかし、主人公の聡美は火事に絡む殺人事件の背景に生活保護の受給に関連する問題があったことを知った上で、次のようなことを思うようになる。…「医者や教師と同じように、ケースワーカーも、規則だけを守っていては優れた職業人になれない。自分が担当する人間の気持ちに寄り添い、ときには規則から半歩踏み出しても、患者の、生徒の、生保受給者の、真の自立と成長を願うことこそが、重要なのだ。規則だからなにもできない、ではなく、たとえ規則を破ってでも、本当に相手のためになることをする。そんな熱い使命感を持つ者が、優れた職業人だ」…私は、元教師なので、この彼女が抱いた矜持に大変共感した。特に、ケア労働を担うエッセンシャル・ワーカーにとっては、不可欠な矜持ではないか!

 

 最後に、『パレートの誤算』という題名の意味について。前述の「パレートの法則」の説明でも少し触れたが、「パレート」というのは「人名でイタリアの経済学者のこと」で、「その法則」というのは「ある分野における全体の8割は、約2割の要素が生み出しているという法則のこと」。ところが、この法則を勝手に解釈して「残りの8割の要素は影響を与えないとか、不必要だ」と考える人もいる。そんな解釈をされることは、パレートにとって誤算だと言える。およそこのような意味なのだが、続きは本書の終章で語られることになるので、ぜひ未読の方は本書を手に取って自分の目で確かめてほしい。それにしても、本書も私の期待を裏切らない社会派ミステリーだった。他の既刊作品やこれから発刊される最新作等も機会があれば読んでいきたいと思っている。…楽しみ、楽しみ…

町内に駄菓子屋さんがあった頃の思い出、あれこれ~上原隆著『こころが傷んでたえがたき日に』に触発されて~

 「成人の日」の祝日を含んだ先週末からの三連休は、フジグランやニトリなどへ妻と一緒に日用雑貨やソファベットを買いに行ったり、久し振りに孫Hが「ランバイク」(商品名「ストライダー」)専用のコースを設置しているオフィシャル・パーク「マテラの森」へ行きたいというので連れて行ったりして、結構忙しく過ごした。それでも、夕方から夜にかけては少し自分の時間を持つことができたので、哲学書や小説・コラム集の3冊の本を同時並行的に読み始めていた。その中で最初に読了した『こころが傷んでたえがたき日に』(上原隆著)を、今回は取り上げてみようと思う。

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 本書は、雑誌『正論』に2009年11月号から2018年3月号に掲載された、著者による100編の「ノンフィクション・コラム」の中から選らばれた22編が所収されている。「ノンフィクション・コラム」とは、市井の人々の生き方を取材して上質な読みものに仕立てた作品のことであり、世代を超えた幅広い人々の心をつかんだ著者独特のコラムのことをいう。その中の『にじんだ星をかぞえて』という作品を、当ブログの以前の記事(2020年2月5日付)で取り上げたことがあるほど、私は著者のファンである。本書は、そんな私が職場近くの市立図書館で見つけた作品であった。そこで、今回は本書の最後に所収されていた「駄菓子屋の子どもたち」という1篇に触発されて、私の子どもの頃の思い出話を綴ってみたい。

 

 「駄菓子屋の子どもたち」という1篇は、荒川・綾瀬川・中川という3つの川に囲まれた東京都葛飾区四つ木という地域で、2017年当時あった駄菓子屋の「ヨッちゃんの店」に集まってきていた6名の小学5年生たちを、著者が観察したりインタビューしたりして取材した内容に基づいて書いた「ノンフィクション・コラム」である。私は、その一人一人の小学生の家庭環境や性格、暮らしぶりなどに強い興味を抱きながら読み進めたが、最後に描かれた「ヨッちゃんの店」の前の路地風景を想像していると、ラムネの淡い味が口の中にシュワシュワ広がっていくような感じがしてきた。そうだ、私の子どもの頃にも似たような原風景があったぞ!

 

 私が小学生の頃というのは1960年代になるが、当時はまだ道路は舗装されておらず、小さい子どもたちは地面が凸凹した路上で「缶蹴り」や「かくれんぼ」、「ビー玉」(当時、「ランコン」と呼んでいた)や「絵カード(札)」(当時、「パッチン」と呼んでいた)などの外遊びをよくやっていた。また、テレビ放送が始まったばかりだったので、当時放映されていた「鞍馬天狗」や「赤胴鈴之助」等の時代劇に影響されて「チャンバラ」ごっこもよくやっていたと思う。さらに、週に何回か自転車に乗ってやってくるおじさんが、巧みな声色で演じる「黄金バット」や「ハリマ王」などの紙芝居に興じていたことも思い出す。その合間に買った半透明の水あめや、普段はあまり飲まない炭酸のラムネの味も記憶に残っている。

 

 そのような思い出が残る当時、私たち子どもにとっての生活圏である町内には、確か二軒の駄菓子屋さんがあった。もう屋号は忘れてしまったが、それぞれの店内の様子の残像は私の脳裏に映し出すことができる。平台には、小さな袋に詰められた様々な駄菓子の袋が並んでいる。また、柱には何種類かの色が散りばめられたざらめ付きの飴玉が数十個吊るされていて、それぞれの紐が束ねられている。小銭を出して、好きな紐を引っ張ると大小の飴玉の中から一つが引っ張られる。その飴玉の大きさによって、人生の運不運が決まったような気分になったのは、私だけだったのだろうか。とにかく、当時の駄菓子屋さんにはクジ引きのような駄菓子がたくさんの種類あった。そのクジ引きをする愉しさが、子どもたちを駄菓子屋さんに足繁く通わせた要因だったのではないかと思う。

 

 そうそう、当時の思い出の一コマをもう一つ思い出した。それは、鉋屑を山盛りに乗せたリヤカーを近所の友達数人と一緒に引いていく場面である。鉋屑を隣町にあった銭湯へ運ぶためである。近所の友達の中に製材店の子どもがいて、その子が担っていた店の手伝いを私たちも一緒にやったのである。その駄賃の替わりは、確か鉋屑を持って行った銭湯に無料で入浴できることだったと思う。手伝いを終えた私たちは、まだ人があまり入っていない男湯の湯船で泳いだり、潜ったりして遊んだものであった。あまりにも騒がしい振る舞いをした時には、番台にいたおじさんから叱られることもあったが、おおむねは見て見ぬふりをしてくれていた。銭湯からの帰りは、じゃんけんで勝った者が空になったリヤカーに乗ることができる遊びをしていた。私も何度かリヤカーに乗り、高揚した気分で帰ったことがあった。…本当にあの頃の時代風景は、無邪気な明るさとのんびりした空気に満ちていたと思う。果たして今の子どもたちにとって、現在の時代風景はどのように映り、どのような雰囲気で受け止められているのだろうか。

「皮膚感覚」の敏感さと「姿勢保持」の弱さとの関連について知る!~長沼睦雄著『子どもの敏感さに困ったら読む本―児童精神科医が教えるHSCとの関わり方―』から学ぶ~

 新年になってあっという間に、新型コロナウイルスの感染が急拡大してきた。“第5波”が収束してしばらく感染者が少なくなっていたので、昨年は大事をとって控えていた年末年始の帰省や旅行をする人が増えて人流が活性化したことや、デルタ株よりも感染力が強くなっているオミクロン株が市中でも感染するようになったことなどが、その主な原因になっていると思われる。いずれはと覚悟はしていたが、とうとう感染爆発の“第6波”が襲来してきた!これは、今まで以上に感染予防対策を徹底しなくてはならない。改めて、私たち老夫婦も気を引き締め直しているところである。

 

 ところで、年始休暇が終えた翌日の1月4日(月)も年休にしていた私は、恒例になったウルトラセール(全品20%割引)最終日ということもあり、以前から気になっていた哲学書や新書等を購入しようと市内数件のブックオフを巡ってみた。残念ながら私が目を付けていた哲学書はなくなっていたが、新書1冊と今の仕事に関連した特別支援教育関係の単行本2冊を購入した。私は、その中でも特に関心を惹かれた『子どもの敏感さに困ったら読む本―児童精神科医が教えるHSCとの関わり方―』(長沼睦雄著)を早速読んでみた。

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 「HSC」とは、「Highly Sensitive Child(ハイリー・センシティブ・チャイルド)」の略名で、「生まれつきとても敏感な感覚、感受性を持った子ども」の意味である。元々は、アメリカの心理学者のエレイン・N・アーロン博士が、1996年に『The Highly Sensitive Person』という本を出版し大ベストセラーになったことで、日本でも2000年に『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ』(冨田香里訳)というタイトルで翻訳出版されたことがきっかけ。それから「HSP」という言葉が知られるようになった。続いて、アーロン博士は2002年に『The Highly Sensitive Child』というタイトルで、とても敏感な子どもたちの特徴や育て方等を詳しく書いた本を出し、それが日本で2015年に『ひといちばい敏感な子』(明橋大二訳)というタイトルで出版されて、「HSC」という言葉の認知度が高まったのである。

 

 本書は、精神科医で十勝むつみのクリニック院長の著者が、感受性の強い敏感な子どもを育てているお母さんや先生方にとって、数々の悩みを吹き飛ばすヒントとなり、敏感過ぎる子どもたちの生きづらさを和らげる一助になることを願って上梓した本である。ただし、本書で取り上げる「HSP」や「HSC」は、病名でも診断名でもなく、医学的な概念としては認められていない。あくまで心理学的な、社会的なひとつのものの見方に過ぎないという位置付けである。したがって、精神医学の診断基準であるDSM-5(2013年に改訂された、米国精神医学会の精神疾患の診断・統計マニュアル)で示されている「神経発達症」(改訂前は「発達障害」)と同列に取り扱う概念にはまだなっていない。

 

 しかし、私は本書を読むことで、「HSC」の敏感さと神経発達症の「ASD」(自閉スペクトラム症)の感覚過敏とは、違いだけでなく重なる部分もあることが分かり、「HSC」は病気や障害という概念とは別物だと分かった。また、実際の臨床的な場面で感覚過敏のために「困り感」をもっている子どもに対して、どのように支援すればよいかを考える際には、「HSC」の特性を踏まえた手立てを参考にすることは有効なのではないかと思った。特に、「ASD」の特性の一つである「触覚過敏」は、「HSC」の特性の一つでもある「皮膚感覚」の敏感さと似ており、その原因のメカニズムに関連する「恐怖麻痺反射」という原始反射について知ることは、「ASD」の子どもに対する適切な支援内容を考えることに役立つものである。

 

 もう少し具体的に述べると、「ASD」の特性の一つに「対人関係の苦手さ」があるが、これは「触覚過敏」との関連があると言われている。皮膚は自分と他人とを隔てる境界の部分であり、神経と同じ外肺葉系なので反応が似ているので、「触覚過敏」の子は他人に対して不安や恐怖が強いのである。そして、この感覚や対人過敏性と共に姿勢保持の弱さなど「ASD」の子どもが示す状態像は、胎児が生き残るための大事な機能である「恐怖麻痺反射」という原始反射が出生後も生き残っていることが原因であるらしい。

 

 人間は胎生5週間の早い時期から、母体のストレスを感じて身体を固めて身を守る「恐怖麻痺反射」が起きる。痛みなどの物理的な刺激だけでなく、雰囲気などの精神的な刺激に対しても身体が固まる反応を起こすという。この反射が出生時までに統合されず、出生後も残存すると、触覚の原始系(防衛)から識別系(積極的な関わり)への発達が遅れ、危険を回避し防衛する肌の機能を最大化して対処するのである。このために、外側の肌にエネルギーを集中させるために「触覚過敏」になり、前庭感覚や固有受容感覚などの内部感覚を使うことが難しくなる。さらに、そのことによって深層筋(インナーマッスル)が弱くなり、低筋緊張になることで「姿勢保持」が弱くなるのである。

 

 したがって、身体をコントロールしたりバランスを取ったりすることができるような運動をすることにより、前庭感覚や固有受容感覚などの内部感覚が育ってくると、それに伴って「姿勢保持」が強くなり「触覚過敏」も薄くなってくるのである。私は本書を読んで、このような「皮膚感覚」の敏感さと「姿勢保持」の弱さとの関連について知ることができ、今までの教育相談で表層的にしか説明していなかった「姿勢の崩れ」に対する支援内容に関する身体発達的な根拠を得ることができた。今回の学びを今後の教育相談の場で生かしていこうと考えている。