私は20代後半頃まで、社会や世間のしがらみの中で生きざるを得ない不自由で受動的な生き方を受け入れながらも、そのプレッシャーによって惹き起こされる窮屈さに辟易としていた。その当時の私を今から振り返ってみると、「もっと自由に主体性をもって生きたい」と強く願ってはいたが、それを実現するためにはどうすればよいか分からず、悶々とした日々を送っていたように思う。ところが、ある時に私のこのような苦悩を聴いてくれた職場の先輩が、その解決に少しは参考になるのではないかと紹介してくれたのが『実存主義とは何か-実存主義はヒューマニズムである-』(ジャン=ポール・サルトル著)という本であった。
本書は1945年10月、パリのクラブ・マントナンで行われたサルトルの講演が基になっている。第2次世界大戦直後のヨーロッパでは、戦前まで人々を支えてきた近代思想や既存の価値観が崩壊し多くの人々は生きる拠り所を失っていた。そのような中、「実存」(サルトルの場合、「自らの存在を自らが選択する主体性」を意味する)に新たな光を当て、人々の根源的な不安に立ち向かい、真に自由に生きることを追究したサルトルの哲学は、人間の尊厳を取り戻す新しい思想として注目を浴びた。今では随分、古びた哲学のように扱われているが、戦後日本においては多くの知識人や学生たちがサルトルの「実存主義哲学」を支持して一世を風靡し、時ならぬサルトル・ブームが起きたのである。
それまでの哲学は、人間の本質とは何かを問い、様々な答え(例えば、パスカルの「人間は考える葦」)を提示していた。しかし、サルトルは人間存在というのはそのような本質が先にあるのではなく、自分自身が選択して決めるのだと考えた。つまり、人間とは最初は何者でもなく、後になって初めて人間になるのであり、人間は自らが創ったところの者になるのである。「実存は本質に先立つ」とは、そのような意味である。また、本書でサルトルは「人間はまず、未来に向かって自らを投げるものであり、未来の中に自らを投企することを意識するもの」「人間は苔や腐蝕物やカリフラワーではなく、主体的に自らを生きる投企なのである」とも言っている。このことは「人間の自由と主体性の根源は、自らを投企することである!」と言い換えてもよい。
当時、自分の生き方を不自由で受動的だと決めつけていたのは単なる甘えだったと私は悟った。しかし、このことは反面「人間は何の拠り所もなく何の助けもなく、刻々に人間を創りだすという刑罰に処せられている」とも言える。つまり、自分が自由に自分の生き方を自ら選択していくというのは、その拠り所のない不安や孤独に陥ることになるのである。「人間は自由という刑に処せられている」とは、そのような意味である。しかし、それこそが自由であり、主体性なのだ!本書を読み「実存主義哲学」を知って以来、私は「自由や主体性」と表裏にある「不安や孤独」を基本的に恐れなくなった。だから、私の生き方は他者の目から見れば「我がまま」「自分本位」に映ったことであろう。「そうは言っても、人間は関係的・社会的存在としてしか生きられないのだ」と私が再認識するのは、さらに様々な生活及び学習経験を重ねて他者との相互主体性の価値を実感するようになった30代後半頃である。しかし、本書で提起された「投企」という概念と出合ったことは、私の今までの人生におけるターニングポイントになった。その意味で、本書は私にとって生涯忘れられない本の中の一冊になった。