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自由意思を否定した「自由」とは?~スピノザの『エチカ』における「自由」~

   今月のNHKEテレ「100分de名著」で取り上げていたのは、17世紀のオランダの哲学者・スピノザの『エチカ』であった。私はたまたま10日(月)の夜に第2回「本質」を視聴し、講師の哲学者で東京工業大学教授の國分功一郎氏の見事な解説と、司会者の一人でタレントの伊集院光氏の的を射た事例の取り上げ方に少なからず感銘を受けた。私はその後のテレビ放送も視聴するとともに、近くの書店でスピノザ『エチカ』のNHKテキストを購入し通読してみた。テレビ放送の内容以上に見事な解説文だった。(因みに、このテキストは約5万人が購入したらしい。この事実は、哲学や倫理学というどちらかと言うと難解なイメージのある分野に興味・関心をもつ人が結構いることを物語っており、哲学好きの私はとても嬉しい気分になった。)4回の講義内容の中でも特に第3回「自由」で解説されているスピノザの「自由」のとらえ方が、私にはとても新鮮に感じられた。

 

 そこで、今回はスピノザの「自由」のとらえ方について、私なりに理解した解説内容の概要を整理しながら、その現代的な意義をまとめてみたい。

 

 まず、スピノザは「必然性に従うことが自由だ」と言っている。言い換えれば、「自由」とは束縛や制約という必然性から解放されているという意味ではなく、「与えられている条件(=必然性)のもとで、その条件に従って、自分の力をうまく発揮できる」という意味なのである。例えば、魚は水の中で生きるという条件(=必然性)が課せられているが、魚が自由になるとはその条件にうまく従って生きて、その力を余すところなく発揮できる状態の時なのである。

 

 次に、スピノザは「自由の反対概念は強制だ」と言っている。強制とは、その人に与えられた条件(=必然性)が無視され、何かを外部から押しつけられている状態。言い換えれば、外部の原因によってその人の本質(スピノザ哲学では、自分の存在を維持しようとする力=コナトゥス)が踏みにじられている状態である。したがって、スピノザの「自由」とは、「自分が原因になること」なのである。また、スピノザは自分が原因となって何かをなす時、別の言い方をすると自らの行為において自分の力を表現している時に「能動」であるとも言っている。したがって、「人は自由である時、能動でもある」と言えるのである。そうすると、どうすれば自らの力をうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになるのである。

 

 以上のような「自由」のとらえ方をするスピノザは、さらに「自由とは自発性のことではない」とも言っている。そして、この自発性は一般に「自由意思」と呼ばれている。普段、私たちは人間には自由な「意志」があって、その意思に基づいて行動することが自由だと思っている。もちろん私もデカルト心身二元論サルトル実存主義の影響を受け、意思(心)が行為(体)を決定していることや、未来を自己が主体的に選択していくことが自由であることなどの考え方から、暗黙の内に「自由意思」の存在を信じていた。しかし、人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるのであり、いわゆる「自由意思」と呼ばれるものも何らかの原因によって決定されるのである。したがって、スピノザは「自由意思」による「自由」というとらえ方を認めないのである。ちょっと立ち止まってよく考えれば、スピノザの言うことは当たり前のことを言っていると思う。

 

 しかし、自由主義を標榜する現代社会に生きる多くの人々は、「意志」「意志決定」「選択」といった概念を信じ切っている。そして、それらに伴う「自己責任」という概念も当然のことのように考えている。そのために、実際には存在しないし、合理的にも説明ができない「無からの創造」である「意志」の概念に、社会全体が振り回されている現象が起きている。それに対して、解説者の國分氏はアルコール依存症や薬物依存症、不登校等の具体的な事例を取り上げて、「意志」の概念を信じ込んでいる現状を相対化する見方・とらえ方を提示している。

 

 このような「意志」への信仰を相対化し解除するためには、スピノザの「自由」のとらえ方は大きな視座を与えていると私は強く感じた。