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身体の「正しさ」をどうとらえ、どう守るのか?~教育の原理について~

 前回の記事にも書いたが、私は哲学や倫理学という学問に興味・関心をもっている。だから、それらに関連した本を買ったり市立図書館で借りたりして読むことがある。今回は、その中で私が尊敬している大谷大学文学部教授で哲学・倫理学を専攻している鷲田清一氏のエッセイ集『大事なものは見えにくい』を取り上げてみたい。本書は「問い」「行ない」「間合い」「違い」「養い」「囲い」「佇まい」「迷い」という八つの章で構成しており、どの章も関係の業界雑誌や中央及び地方の新聞紙等に掲載されたエッセイをテーマに沿って編集している。

 

 そこで、ここでは「迷い」の中のエッセイ群から「身体の『正しさ』について」という文章を取り上げて、その内容の概要を紹介しつつ私なりの所感を加えてみたい。

 

 著者は「身体として存在しはじめた赤子への〈慈しみ〉と〈侵犯〉、こういった保護と暴力との二面性が、言語の教育をもふくめた身体教育にはある。」と述べ、「これは、わたしたちの文化のなかで身体という『ひとの自然』には、そもそものはじめから『正しさ』(正義)という観念が差し込まれているということをあらわす。フランス語で身体教育が『矯正』(redresser)という語でいわれ、redresserがさらに『まっすぐにする』という意味であるのは、本質的なことである。」と続けている。これらの文意を私なりの言葉で言い表すと、「身体教育においては、『正しい身体の使い方』というかたちで大人が子どもたちの身体のうちに介入することは本質的なことである。」ということになる。このことは近年の子どもたちの身体における硬直性や歪み等の実態を踏まえて、小学校学習指導要領・体育科において「体ほぐしの運動」を全学年に位置付けたことに象徴的に現れているのではないだろうか。

 

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 しかし、著者は続けて「それを『正しい身体の使い方』というかたちで『教え込む』というのはまた別の話である。(中略)…『正しい身体の使い方』は観念によってがちがちにされたその身体を、さらに別の観念で金縛りにするということにしかならない…」とも述べている。つまり、ここ数十年、身体にまとわりついてきた観念とは「強壮な身体」「スリムな身体」という二重の意味での「きれいな身体」だったことを指摘し、これに今「正しい身体」という観念がさらに重ねられようとしているというのである。このことを具体的に言えば、「体ほぐしの運動」の行ない方は、身体について外部からの強迫観念によって行うのではなく、子どもたちが自ら本当に身体をゆるめることが必要だということになる。

 

 さらに、著者は「身体をゆるめるとは、身体をよろこばすということだ。身体をくつろぎや快さのなかに漂わすことだ。そして、これがそのもっとも重要な点と思われるのだが、身体のよろこびというのは、単体としての身体の機能のなかにあるのではなく、身体がそのままで他の身体と通いあうというところにある。」とも述べている。具体的には、「いっしょに作業すること」「ともに踊ること」「動作の応酬を遊びとして愉しむこと」「接触のなかに身を放つこと」、つまり「身体としての存在そのものを交わらせること」だと力説している。このことは、互いの身体的存在の〈慈しみ〉と〈侵犯〉という二重性を、外部からの強迫ではなく、それとのかかわりの中で自らのものとして取り返すことなのである。例えば、眠りの観念に憑かれて不眠になるより、自然に疲れて深く眠ることのほうが、はるかに健康であるように…。

 

 私たちの身ごなしを内から整形する「正しさ」というのは、外部から押しつけられるべきものではない。他者との豊かなかかわり合いによる心地よい身体体験のなかで、おのずと憶え、守っていくものなのである。そして、「正しさ」を外部(他者/環境)に求めるのではなく、内部(自己)と外部(他者/環境)の相互的作用の中で培っていくということは、身体教育にだけ言えることではないと私は思う。私たちが教育という営みの中で培おうとしている社会・自然・文化等についての認識深化においても、同様の原理を基本にすることが大切なのではないだろうか。