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「自分のため」と「社会のため」を両立させる教育を目指して

   私の書架には古びた岩波文庫の『エミール』の上・下巻が並んでいる。本当は中巻も加えて三巻なのだが、中巻はない。若い頃、上・下二巻と勘違いして古書店で購入し、上巻の途中まで読んで根を上げてしまったからである。教師として「教育はどうあるべきか」と真剣に追究しようと読み始めたのに、日々の授業準備や成績処理等の実務に追われていたとはいえ、何とも情けない話である。そして、いつしか忘却の彼方へ…。

 

 ところが、2年ほど前にNHKのEテレ「100分de名著」において、哲学者で東京医科大学哲学教室教授の西研氏を講師に招いてルソーの『エミール』が取り上げられていた。私は第2回目からの放映を3週にわたって視聴するとともに、NHKテキストを購入して読んだのである。教職教養として内容の概要は知っていたが、改めて著者のジャン=ジャック・ルソーの教育及び社会思想等を今まで以上に知ることでき、当時大変感銘したことを覚えている。

 

 そこで、今回は私がそのNHKテキストを読んだ当時、特に心に残ったことを思い出しながら、教育のよりよい方向性について考えてみたい。

 

 18世紀の絶対王政下のフランスで活躍したルソーは、近代の「自由な社会」の理念を設計した思想家である。ルソーの考えた「自由な社会」とは、平和共存するために必要なことを自分たちで話し合ってルール(法律)として取り決める「自治」の社会であった。そして、そのような自由な社会をつくるために、『社会契約論』で「一般意志」(=皆が欲すること)という概念を提出した。議会で決める法律の正当性は「多数が賛成したから」という点にあるのではなく、「一般意志=皆にとっての利益を保障しているから」という点にあると主張したのである。

 

 私は国民国家における「多数決」の民主主義の本質は、この「一般意志」なのだと再認識した。自分の利益はもちろん大切だが、他人の言い分もよく聞いて“自分も含めた皆が得になるような”ルールをつくっていくこと。そして、それを実現するためにはそのような姿勢をもつ人間を育てることが思想的な課題になる。ルソーが『エミール』で課題としたのは、「自分のため」と「みんなのため」という、折り合いにくい二つを両立させた真に自由な人間をどうやって育てるかということであったのだ。したがって、共に1762年に出版された『社会契約論』と『エミール』は、いわば車の両輪であり二つで一体の書物なのである。

 

 「近代教育学の古典」ともいわれる『エミール』は、著者ルソー自身である語り手が家庭教師となって、エミールという架空の男の子をいかに育て上げていくかを空想し、それを小説のような形式で語った作品である。

 

    エミールが生まれてから大人になり結婚するまで、その成長に沿って5つの編に分けており、各時期の発達段階を明快に示している。この発達段階の記述は20世紀の発達心理学の祖の一人であるピアジェの説の原型とも言えるものである。長く義務教育に携わってきた私は、乳幼児期の「快不快」や児童期・少年前期の「感覚・知覚」、少年後期の「好奇心・用不用」等、ルソーによる発達特性のとらえ方はピアジェのそれと共通していることが多いことに気付き、驚いた。

 

 また、ルソーは思春期・青年期には人間一般に対する「あわれみ」の情を育てることを大切にしている。ここでいう「あわれみ」とは「他者への共感能力」のことである。そして、「あわれみ」を広げていくことを可能にする心理的な条件として三つの格率(原則)を述べているが、その中には仏教でいう「自利利他の心」を意味するような格率がある。私は洋の東西に関係なく、教育には普遍的な原則があるのだなあと感銘した。

 

 とにかくルソーは、「自分のため」と「社会のため」を両立させる教育を目指していたのである。このことは、個人の尊厳を第一に守ろうとする現代社会においても、大切にされるべき教育の方向性ではないだろうか。