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医者の本音・ホンネ(4)~「自然死」のすすめ~

    前回の記事で取り上げた『どうせ死ぬなら、「がん」がいい』の読書経験をきっかけにして、その著者の一人である中村仁一氏が2012年1月に出版して50万部を超えるベストセラーになったという『大往生したけりゃ医療とかかわるな~「自然死」のすすめ~』を読んでみた。

 

    著者の中村氏の簡単な経歴については前回書いたので、それ以外の経歴を紹介して著者の人となりの一端を知ってもらいたいと思う。一つ目は、「同治医学研究所」を設立して、有料で「生き方相談」「健康相談」を行っていること。二つ目は、1985年10月より、京都仏教青年会(現・薄伽梵KYOTO)の協力のもとに、毎月「病院法話」を開催して医療と仏教連携の先駆けとなったこと。三つ目に、1996年4月より、市民グループ「自分の死を考える集い」を主宰していること。主な著書は『老いと死から逃げない生き方』『幸せなご臨終-「医療」の手にかかって死なない死に方』。

 

 そこで今回は、本書の副題になっている著者の「自然死」のすすめという考え方の骨子をまとめながら、私なりの所感を加えてみたい。

 

 さて、著者のすすめる「自然死」とは、どのような死のことを表すのかをまずまとめよう。「自然死」とは、簡単に言えば「最後まで点滴注射も酸素吸入も一切しないで迎える穏やかで安らかな死」のこと。このようなとらえ方は、「死」という自然の営みは本来、穏やかで安らかだったはずだが、医療が濃厚に関与することで、より凄惨で、より非人間的なものに変貌させてしまったのではないかという、著者の考え方が反映されている。

 

 もう少し実体的な内容を解説すると、「自然死」の実体は「餓死」(「飢餓」「脱水」)であるらしい。「飢餓」「脱水」というと、非常に悲惨に響くが、実際は腹も減らないしのども渇かないのだそうである。「飢餓」では、脳内にモルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになって、幸せムードに満たされるという。また「脱水」は、血液が濃く煮詰まることで、意識レベルが下がって、ぼんやりとした状態になるという。つまり、本来の「自然死」は、痛みや苦しみもなく、不安や恐怖や寂しさもなく、まどろみのうちに、この世からあの世へ移行することなのだ。

 

 そして、著者はそのような「自然死」を遂げるには、「がんで死ぬのがよい」と提言している。このことについては、前回の記事でも書いたことなのでもう触れないが、がん死について著者は次のようにまとめている。「がんの発生は、長生きの税金のようなもの。ある程度まで避けられないものならば、超高齢者のがん死は、人の一生の自然な終焉の一つのパターンと考えられる。」特に「天寿がん」と分かれば、攻撃的治療も無意味な延命治療も行わず、自然に徹すれば、苦しみが伴わない死を迎えることができると…。著者は、このような「自然死」をすすめているのである。私は、もし苦痛を与えることない有効な治療法があるのなら、その治療を受けたいと思う。しかし、自分が何らかの末期がんになり、あまり痛みを伴わないような症状なら、著者の言うような「自然死」がいいなあと思う。あまりにも都合のよい考えだと分かっているが、忍耐力に乏しい私としてはやはり苦痛はなるべく回避したいのである。

 

 最後に、本書の第五章で著者が語っている次のような言葉に、人生の山を下る(「還り」の)時期になっている私は強い共感を覚えたので、ここに転記して今回は筆を擱きたいと思う。

 

…「還り」の人生においては、いやでも「老」「病」「死」と向き合わなければなりません。基本的には、「老い」には寄り添ってこだわらず、「病」には連れ添ってとらわれず、「健康」には振り回されず、「死」には妙にあらがわず、医療は限定利用を心がけることが大切です。生き物ものとしての賞味期限が切れた後の重要な役割は、「老いる姿」「死にゆく姿」をあるがまま後継者に「見せる」「残す」「伝える」ことにあります。また、自分の都合で勝手に生きているのではなく、諸々のおかげを蒙って活かされていることに気づき、その「縁」を大切にするように心がけましょう。…