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プロレスって、プロのレスリングのことではないの!?

    先日、夕方のニュースで、北海道の小樽運河にある赤レンガ倉庫の冬景色が映し出された。私はつい懐かしい感情が湧いてきた。というのも、今から2年ほど前の晩秋に私たち夫婦が翌春に結婚を控えた二女と一緒に道南地方へ旅行した時、当該の場所を訪れていたからである。

 

 そこで今回は、その旅先で遭遇した思わぬ出来事をきっかけにして再読した『私、プロレスの味方です』(村松友視著)の所感を、その時に記した文章を再構成してまとめてみよう。

 

 道南地方への旅行の三日目に滞在した小樽市で、私たちは思わぬ出来事に遭遇した。それは、小樽出身の作家・小林多喜二氏の小説『不在地主』のモデルになったり、直木賞作家・村松友視氏の小説『海猫屋の客』の題材になったりして有名になった洋食屋「海猫屋」(赤煉瓦の倉庫を改装したレトロな店)で夕食を取った時のこと。海の幸を活かした料理に舌鼓を打って帰り支度をしていた時、マスターから「もう後、5分ほど居てくれませんか。」と言われた。私たちが何事かと訝しげな表情を浮かべている中、急に店内の灯りが消え、次の瞬間スポットライトの中にマスターの姿が浮かんだ。「皆様に40年間愛され続けてきた海猫屋は、本日をもって閉店いたします。長い間、御愛顧いただきまして本当に有難うございました。…」何と!奇偶にも私たちは由緒ある「海猫屋」の最後の客になったのだ!!

 

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    この出来事をきっかけにして、旅行後に私は書棚に並んでいる村松友視氏の著書群を再読することにした。『海猫屋の客』は旅行前に再読していたので、村松氏との出会いの書『私、プロレスの味方です―金曜午後8時の論理―』をまず読み直してみることにした。本書は、村松氏の本格的なデビュー作で、『当然、プロレスの味方です―過激な生存の哲学―』『ダーティ・ヒロイズム宣言―プロレスの味方、「悪役」を語りき―』と続く初期のプロレス3部作の一つである。発刊当時、作家・井上ひさし朝日新聞文芸時評で「この書物は高い〈知〉と、豊かな〈愉しみ〉を兼ね備えている」と絶賛したという。

 

 さて、再読して改めて実感したことは、本書は力道山亡き後、今から四半世紀ほど前の全日本・馬場、新日本・猪木のプロレス全盛時代において、関係者ではない著者が「プロレスへのこだわりをもって世間的眼差しを撃つ」ねらいで書いた演劇論的なプロレス評論なのだということ。別の言い方をすれば、自分はプロレスを見る側の過激な立場にあり、段持ちのプロレス好きという「プロレス者」であると表明する著者が、自身を「プロレスの味方」と標榜して分析的・論理的に評論した書なのである。

 

    では、著者はプロレスをどのようにとらえているのだろうか。この点を解明するために、一般大衆までもがプロレスラーになる現在にも通用する見解を披露している第3節を見てみよう。ここで著者は「プロボクシングはプロのボクシングであるが、プロレスはプロのレスリングではない。」と言い切っている。そして、プロレスはリング上で鍛えた人間の「凄み」を見せるものであって、プロボクシングのように「技術合戦」を見せるものではないと、その違いに触れている。確かに、プロレスは型のやり取りやショー的要素を含んでいるが、それだけではない「何か」があることも事実であり、その「何か」を必死で見つけるのが、観客たるものの義務であり責任であり使命であり、そして観客だけのもつ権利であり悦楽なのである。ここらが「プロレス者」の醍醐味なのであろう。

 

     続いて、プロレスは相手の得意技も披露し自分の得意技も披露し、さらにスタミナとガッツを残しているレスラーが鮮やかなフィニッシュ技を披露して終わる。このことから、プロボクサーが「殴られる」練習をする時より、プロレスラーが「受け身」の訓練をする時の重要性は大きい。「防御」する代わりに「受け身」を鍛えるのであり、これがプロレスラーの一大特長なのである。ふむふむ。

 

    本書を再読していると、プロレスを生で観戦したくなった。最近はそれぞれの地元のプロレス団体が立ち上がることもあり、生の観戦の機会も多くなったのではないだろうか。皆さんもプロレスの面白さを見直してみては…。