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医者の本音・ホンネ(5)~「平穏死」という選択~

  「医者の本音・ホンネ」シリーズの記事は、前々回で取りあえず締め括るつもりだったが、一昨日たまたま立ち寄った古本屋で『「平穏死」という選択』(石飛幸三著)という本を見つけた。パラパラとページをめくって斜め読みをしてみると、ある意味の「自然死」を勧めている内容だったので、早速購入して読んでみた。今までの記事で取り上げた本で主張されていたように、現在の医療の在り方について懐疑的な見解が披露されていたので、同シリーズの続きに位置付けて今回取り上げてみたい。

 

 著者の石飛氏は、元々優秀な血管外科医で東京都済生会中央病院の副院長までしていた方であるが、病院理事の不正事件の調査に係わり不正を正そうとしたことで解任されてしまった。その後、縁があって特別養護老人ホーム「芦花ホーム」の常勤医師になったらしい。解任後、人間としてどう生きるか、医療で人を治すとはどういうことかということを深く考え直すようになり、老いの終焉の現場に行けば、人生という物語の最終章が見えるかもしれない、高齢者に対する延命医療の限界が分かるかもしれないと思って、特養ホームの勤務医師に名乗り出たそうである。

 

 本書の内容は、著者が「芦花ホーム」に赴任以来の取組を紹介しつつ、終末期の認知症高齢者が誤嚥性肺炎を起こして口から食べ物が食べられなくなる状態になったら、「胃ろう」(腹壁に穴を開けて胃に管を入れ、直接水分や栄養を胃に流し込む方法)を造って延命させようとする当時の医療の在り方に対して異議を申し立てているものになっている。著者は言う。このような医療行為の背景には、延命の方法があるのにしなければ無責任だとか、保護者責任遺棄致死罪だといって、何かをすればそれがあたかも善であるかのような独善的思考があるのではないか。ただその生物的病態だけを診てそれを変えようとすることよりも、老衰を受容して生活の質を支援することのほうが本人のためになるのではないか、と…。そして、著者は人間の務めの最後の締めくくりとして、「平穏死」(肉体的にも精神的にも苦痛がなく、穏やかに亡くなるということ)を提唱しているのである。

 

 2011年12月に厚生労働省は「自然死」を認める方向に舵を切った。口から十分に栄養や水分を摂るのが難しくなった高齢者に人工栄養法を導入せず、自然な経過を見るという選択肢もあることを示し、導入した場合でも中止ができることを定めた指針案を公表したのである。また、2012年6月には日本老年医学会も高齢者の終末期における「胃ろう」などの人工水分・栄養補給についての新たなガイドラインを発表した。その内容の意味することは、老衰において医療がどこまで介入するか、何が大切か、本人の生きている生活の質が改めて前面に押し出され、それが認められたのである。著者たちの地道な活動や関係機関等への働き掛けが実を結んだのである。

 

 著者は医師の役目・役割として、次のようなことを言っている。「医師は老衰の終末期に発生する病態のうち、本人の緩和ケアに資するところを補い、生命の終焉の監督責任を取るのが役目です。何もしないことが本人の為であると判断したら、自然な経過を見て穏やかに最期を迎えさせるのも医師の役割です。特養における医師の役割は、黒子のさらに黒子、生命の火の消え方に最終的な責任を取る役であります。これが今求められている医師のもう一つの役割でありましょう。」

 

 高齢者の仲間入りを目前としている私としては、その時を迎えたら「もうこの辺で」と肚を決めて人生の幕を潔く引きたいと思っている。だから、その時に立ち会ってくれる医師には、上述のような役目・役割を自律的に果たしてほしいと切に念願している。一般化するのは唐突過ぎるとは思うが、日本人はそれぞれ立場が違っても一人一人が人間として自律的に行動できるようにならなければならないのではないだろうか。