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保守は本来リベラルだった!~オルテガ著『大衆の反逆』に学ぶ~

    現在の我が国の政党政治の対立軸はアメリカに倣って「保守」対「リベラル」という構図になっていると、私を始め多くの国民は認識していると思う。つまり、「保守」と「リベラル」というのは、主に政局的に対立する考え方や立場であると暗黙の内にとらえている。ところが、そのような認識を覆すような「保守は本来リベラルだった!」という言説を知る機会を得た。それは、2月のNHK・Eテレの「100分de名著」で取り上げられている、スペインの哲学者で思想家であるホセ・オルテガ・イ・ガセットが1930年に刊行した『大衆の反逆』のテキストを読んだことがきっかけである。そこで今回は、同番組の第2回(2月11日放送分)「リベラルであること」の中で、講師の評論家で東京工業大学教授である中島岳志氏が「リベラル」に関して解説している内容の概要をまとめながら、私なりの所感を綴ってみたい。

 

 オルテガは保守的な考えをもっていたが、「反リベラル」ではない。むしろ、保守的であるがゆえにリベラリズム自由主義を徹底的に擁護した人物である。その理由は、オルテガがリベラルに対立する存在ととらえていたのは、いわゆる「保守」ではなく、ファシズム社会主義だったかからである。歴史的には「リベラル」という言葉はもともと「寛容」という意味だった。その概念の起源は、17世紀前半にヨーロッパで起こった30年戦争にある。この戦争は、プロテスタントカトリックという宗教上の対立であったが、本質的には価値観をめぐる戦争であった。しかし、30年間の激しい戦いを経たにもかかわらず、どちらが正しいという結論が出なかった。そこで現われたのが「リベラル」という原則だった。〈自分と異なる価値観をもった人間の存在を認める。多様性に対して寛容になる。〉これらが近代的な「リベラル」の出発点なのである。そして、この概念は必然的に「寛容」⇒「自由」という観念へと発展する。ここに「自由主義としてのリベラル」が生まれてくるのである。オルテガは、そのリベラルの原則に基づいた「最高に寛大な制度」である自由主義は、「地球上にこだましたもっとも高貴な叫びである」とも言っている。

 

 一方で、オルテガリベラリズムを共有することは、非常に面倒で鍛錬を伴うという認識ももっていた。違いを認め合いながら共生していくのは、手間も時間もかかる面倒な行為であるけれど、それを可能にするために人間は、歴史の中でさまざまな英知を育んできた。自分と異なる他者と共存することが「文明」であり、そのときには手続きや規範、礼節といったものが重要になる。ところが、それらを面倒くさがり、すっ飛ばしてしまうのが「大衆」(自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別もつかないような、個性を失って群衆化した大量の人=平均人)の時代ではないか。そのような大衆の時代だからこそ、自分と真っ向から対立する人間こそ大切にし、そういう人間とも議論を重ねることが重要なのだと、オルテガは言う。

 

 オルテガは「大衆」と対立する概念として「貴族」という言葉を使う。反対者や敵対者とともに統治していこうとする人間。それだけの勇気や責任感、指揮をする能力をもった尊敬に値する人間。孤立と連帯とのバランス感覚をもった人間。そうした人間を「貴族」と呼んでいる。真意としては「精神的貴族」「人格的貴族」ということであり、高貴な人であり努力する人であり、卓越する人なのである。また、貴族なる人間は、真理の探求を欠かすことはなく、他者と共存することができる粘り強さをもった人間である。さらに、オルテガ自由主義の本質は、常に過去の経験知の中にある。それが他者に対する寛容であり、またそれを可能にするための儀礼や手続きであるとも言っている。

 

 以上、「リベラル」に関する中島氏の解説内容の概要をまとめてみた。限られた内容ではあるが、オルテガ全体主義が席巻する20世紀はじめのヨーロッパにおいて、「大衆」の本質と民主主義の限界を示し、真の「保守」や「リベラル」とは何かを問おうとしたということがよく分かる。現代の我が国は、オルテガが憂いたような大衆社会そのものになっており、多くの国民が「大衆」になってしまっているように感じる。私自身、いつのまにか無意識に「大衆」化してしまっているのではないかと、本テキストを読んだり、「100分de名著」の第2回の放送を視聴したりしながら反省した次第である。

 

 自分のことを棚に上げて言う訳ではないが、私たち日本国民は、現在の政治や政局の情況を単に「保守」対「リベラル」という構図に当てはめて安易に自分の考えや立場を決めないで、オルテガのいう「貴族」たらんとして「保守=リベラル」的な思考を真摯に深めることが今、求められているのではないだろうか。