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懐疑することを懐疑しない!?~西部邁著『大衆への反逆』における主張~

      前回の記事で、2月のNHK・Eテレの「100分de名著」で取り上げられている『大衆の反逆』のテキストに書かれている内容、特に第2回(2月11日放送分)「リベラルであること」の中島岳志氏の解説内容について触れた。そこで今回は、その最終回になる第4回(2月25日放送予定分)「『保守』とは何か」の解説内容から、我が国でオルテガの存在にスポットライトを当てた、日本を代表する保守思想家であった西部邁が著した『大衆への反逆』(特に「“高度大衆社会”批判-オルテガとの対話」という文章)における主張に焦点を合わせてその概要をまとめ、私なりの簡単な所感を述べてみたい。

 

 評論家としてのデビュー作となった「“高度大衆社会”批判-オルテガとの対話」という文章の中で、西部氏はオルテガの姿勢に対する厚い信頼を綴っている。つまり、オルテガが「大衆とともにあること」と「大衆から離れて独りで歩むこと」の両方を同時に実践したことを高く評価しているのである。また、オルテガの著作の中に、多数者の専制に対する警告を見出している。さらに、大衆が支配する現代のデモクラシーの姿を「集団的独裁」と呼び、現代は少数者と対話しようとせず、異なる他者への寛容を失い、死者を殺してしまった時代だと指摘している。

 

 一方で西部氏は、近代を生み出しながら、その近代を全力で疑ったヨーロッパ近代思想に、多大な信頼を寄せている。つまり、ヨーロッパの懐疑主義的な精神の中に、人間の在り方を見出していたのである。「懐疑することを懐疑しない」…疑うことを疑ってはいけない。自己の存在をはじめ、あらゆるものを徹底的に疑う。これが実は健全なる何かをつかむことにおいて重要なのだ、と言う。しかし、近代は近代を信奉し、そのまま進めばすべてがうまくいくと考える、あまりにも軽薄な時代であるというのが氏の主張なのである。

 

 氏はまたこうも言う。トポスなき、自己懐疑を失った近代人たる「大衆」に寄り添ってみせるのが善良な知識人だという風潮があるけれど、自分はそれには従いたくない。大衆の中にある問題を突き刺し、示して見せることによってこそ、開けてくる世界があるのではないか…。また、自民族中心の思想こそが大衆化、大衆主義の典型であると考えている。そして、ヨーロッパの徹底した懐疑的精神に立った上で、ぎりぎりのところまで自分たちを、人間を疑い、問い詰めた先に、ようやく「日本という国をどう考えるか」という問いが立てられる。それを経ずして、安易に大衆社会の中で「日本」を礼賛し、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と浮かれている人間を、氏は軽蔑していたのである。

 

 『大衆への反逆』の中で、氏は繰り返し、オルテガの「自己懐疑する精神」を高く評価している。自分や自分の依って立っている時代を、常に問い続ける。その結果として、自分を超えたところにある英知をつかもうとする意志をもち続けたのがオルテガだった。氏は、その「疑いの先にある英知」を、自分のものにしようとしたのである。私は、オルテガから学んだ氏の「懐疑することを懐疑しない」という主張に、徹底して英知をつかもうとする真摯な精神性を感じ取り、強く共鳴する。しかし、この精神性を常に維持することは困難であることも分かる。汝自身、それができるのかと問われれば、安易に首肯することはできない。というのは、私はついつい易き方向に進んでしまいそうになる怠惰な精神状態に陥ってしまうからである。

 

 では、どうすればそのような精神状態を脱することができるのか。私なりに意識して実践していることは、多様性をもった他者との出会い、異質な文化を内包する様々な本との出合いをなるべく積極的に求めていくことである。そして、ともすると即自的に陥りがちな自己の在り方を問い直し、異文化との対自的な対話を積み重ねていく中で、よりよい英知をつかんでいく。…と、ついカッコいい言葉を連ねてみたが、現実的には日々ささやかな実践を積み重ねて、カメのような遅々たる歩みを続けているに過ぎないのだが…。