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「無」の思想とは…~西部邁氏と佐伯啓思氏の「無」についての論争から~

     前回、西部邁氏の「自裁死=自殺」の真意について過去に執筆していた記事を再構成して掲載した。その西部氏と40年以上も親交があった、京都大学名誉教授で現在はこころの未来研究センター特任教授である佐伯啓思氏が、『死と生』という近著の中で西部氏の「自裁死=自殺」について触れた文章を載せている。そこで今回は、その文章の中で私の心に強く残った内容の概要をまとめ、私なりの考えを簡単に述べてみたい。

 

 「『死の哲学』と『無の思想』-西部邁自死について」という題名の付いた文章は、まず西部氏の自死の背後にある彼流の人生観について書かれている。その人生観の一つは、生きるとは活力をもって活動するという「活動的生」という柱。二つ目は、自分の人生に対して最後まで自分が責任をもちたいという「自己責任」という柱。この二本柱の人生哲学からすれば、明瞭な自己意識でもって意図的な死を迎えるという結論になると著者は西部氏の自死の要因を推察している。この点に関しては前回の記事で述べた私の推量内容と共通していると思う。

 

    ただ、著者の言うように、覚悟の自死は大変な気力と集中力と意志力の持ち主でないとできないであろうから、西部氏の強靭な精神性は平凡人たる私からすると想像を超えるものである。ただし、その自死の手助けを編集者諸氏に依頼した点について、その後の刑法上の処罰を考慮すれば、他者に対する配慮に欠けた行為ではなかったかと私は疑問に思う。もう叶わぬことながら、西部氏の真意を知りたかったところである。

 

 次に、佐伯氏は西部氏との「無」についての論争のことを語っている。西田哲学や仏教の「無」や「空」の思想に関心のある佐伯氏に対して西部氏はこう言う。「無」というようなものが根底にあるのかどうかわからないが、そんなことを問題にしても仕方がない。われわれにできるのは、死ではなく、生の側のことだけだ。われわれは、常に生の内側にあって、生を問うほかない。「死んだらおしまいだよ。後は何にもないんだ。」と、西部氏はよく言っていたそうである。それに対して佐伯氏は、西部氏のこのような死生観に理解を示しつつも、生や存在を語る時に、すでに「無」を前提にしているのではないかと反論する。そして、生の裏側に、この「無」を張り合わせるからこそ、「有」であるこの世の「生」の活動が生き生きとしたものになるのではないか。また、物事の「有性」よりも「無性」の方をより本質的だと見たのが伝統的な日本的精神だったのではないかと…。

 

 確かに西部氏の言うように、死後の世界に関してはいっさい分からないものである。しかし、私は佐伯氏が関心をもつ「無」の思想の方に共感を覚える。それは、私が理性や科学的思考よりも情緒的で美的な感受性に傾いた人間であり、存在が「無」へと向かうはかなさの感覚に共振することが多いからではないだろうか。また、人間中心主義的な小乗仏教よりも脱人間中心主義的な大乗仏教の考え方の方が馴染みやすい人間だからではないかと思う。また、このような私の気質的な傾向は、以前の記事で取り上げた哲学者・梅原猛氏の人類哲学の「草木国土悉皆成仏」という思想から強い影響を受けたことによってさらに増幅したように思う。

 

    そこで、私はもっと「無」の思想について学びたいと思った。そのためには、多くの日本人が愛好している『般若心経』についての理解を深める必要があると考えている。私は「色即是空、空即是色」とか「色不異空、空不異色」とかの言葉を、何となく分かったような気分になって法事などで唱えているが、本当はどのような意味なのかよく理解している訳ではない。『般若心経』の内容が「あらゆる存在は無であり、その本性は空と見なければならない」という主旨であることは知っている。しかし、「無」とは何か、「空」とは何か、その思想性について突き詰めて理解したことはない。近いうちに『般若心経』に関する書物を読み、いずれその学びの成果を記事にまとめてみたいと考えているが、それはしばらくの時間的猶予を与えていただきたいと思う。では、また…。