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孫にとっての〈ことば〉の世界について考える(1)~浜田寿美男著『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』を参考にして~

 今までに何度か、初孫Hの成長の様子を話題にした記事を綴ってきた。最初に綴ったのは、Hがまだ1才3か月の頃の様子であった。その際、Hの有意味言語の発語状態やノンバーバル・コミュニケーションの具体的な姿について触れた。今、Hは2才2か月を過ぎている。しかし、有意味言語の発語はまだ数少ない。正直なところ私たちじじばばは、Hのその点については少し心配になっているので、Hと接する時には今まで以上に意識して〈ことば〉によるコミュニケーションを取るようにしている。家族写真を見せる時であれば、「パパ」とか「ママ」とか「ばあば」とかと言いながら指さしている。食事の時であれば、「キュウリ」とか「トマト」とか「ニンジン」とかと言いながらHの食器に入れるようにしている。また、一緒に乗り物のおもちゃで遊ぶ時であれば、「郵便車」とか「飛行機」とか「新幹線」とかと言いながらHに手渡すようにしている。このようなじじばばの〈ことば〉掛けに対して、Hが今のところ発しているのはわずかに「まんま」と「ばあば」くらいである。ただし、Hが好んで視聴する「機関車トーマス」の映像の中に出てくるフランキーというクレーン機が荷物を下ろす音「ギーッ」とか、散歩中に見かけた救急車が鳴らす音「ウー、ウー」とかという擬音語を、それらに関連する動きを交えながら最近よく発するようになっている。

 

 そのような情況の中、私は以前に読んだ時に発達心理学研究における「発達論的還元」の手法の意義を痛感した『「私」とは何か-ことばと身体の出会い-』(浜田寿美男著)を再読してみた。改めて学び直すことが多かったので、今回は本書を参考にして、孫にとっての〈ことば〉の世界について考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 私たち人間は、意味で張り巡らさせているこの世界、つまり「意味世界」の中を生きている。大人はこの「意味世界」を当たり前のようにして生きているが、赤ちゃんはその生の出発点において周囲のものを意味づけることはできない、言わば無意味の状態から始めざるを得ない。もちろん赤ちゃんは誰も教えていないのに、口に母乳や哺乳ビンを触れさせるだけでくわえ込み、舌を啜る。その点で赤ちゃんにとって母乳や哺乳ビンの意味は最初から分かっていると言ってもよいかもしれない。また、赤ちゃんは人の顔を他のものよりよく見るようにできており、人は人としての意味を帯びているとも言える。しかし、これらのように生得的にその意味が与えられているものはむしろ少ない。

 

 では、赤ちゃんはどのようにして周りの世界を意味に満ちた世界としてとらえていくのであろうか。大人になれば当たり前のことだが、誰も自分がどのようにして「無意味世界」から「意味世界」へ移行してきたかを覚えている者はいない。そこで著者はこの過程を探るために、ゼロの地点に立ち戻ろうとする立場、つまり「発達論的還元」の作業を展開することで明らかにしていこうとするのである。

 

 著者が注目するのは、「三項関係」である。「三項」というのは、人と人とが一緒に何かのもの、あるいはテーマを体験するという意味である。これに対して、人が他者を介さずものに直接かかわるとか、人がものを間に挟まず他の人と直接かかわるというのは、二項関係という。赤ちゃんが「無意味世界」から「意味世界」へ移行するために必要なのは、二項関係ではなく「三項関係」なのである。例えば、著者は赤ちゃんと母親が何かを「一緒に見る」という「三項関係」の中に、赤ちゃんの「意味世界」形成にとって重要な働きを見出している。そして、そこに〈ことば〉に至る源を見ているのである。

 

 ただし、人がものを見るという時、ただまなざしを注ぐということではなく、人が見てとらえた世界がその人の身体におのずと表現される。そしてその表現された姿が、そばでその様子を見ている人に伝わる。この回路の中では、見ること自体が人と人とをつなぐ一つの表現になるのである。具体的に述べよう。以前の記事にも書いたが、私たちじじばばの自宅近くの県立病院には「ドクターヘリ」がよく飛んで来て、その屋上に離発着する。家の中にいる時に「ドクターヘリ」の轟音が聞こえてきたら、私たちは急いで乗り物好きのHを抱きかかえて外に飛び出し、「ドクターヘリ」の飛行の様子を一緒に見ることがある。その時、私たちはそれを指さしながら「すごいね。ヘリコプターが飛んでいるね。」と〈ことば〉掛けする。そのような機会が何度となくあった後、私たちはミニチュアのヘリコプターをHに買ってやった。すると、Hはそのヘリコプターを手に持って高くかざしながら、飛ばせるようなしぐさをしたのである。私は「ブルブル、ブルブル」と轟音の真似をしながら、一緒にその様子を見守った。つまり、私たちじじババとHが「ドクターヘリ」を一緒に見ながら、飛ぶ様子を声やしぐさで示す表現をして見せているという「三項関係」の中で、Hはヘリコプターが空を飛ぶ乗り物だという意味世界を敷き写していたのである。このようにHにとって、まだこれという意味を帯びてないものが、周囲の他者(この場合は、私たちじじばば)との「三項関係」を通して、一定の意味のものとしてHの世界に根を下ろしていくのである。

 

 さて、〈ことば〉はこのような「意味世界」の上に成り立つ。語るべき対象のないところに〈ことば〉が成り立つことはないのである。その点、まだ有意味言語数が少ないHとは言え、私たちじじばばと一緒に遊んでいる様子を見ていると、大人と同様な「意味世界」を形成しつつあることは間違いない。とすれば、Hは〈ことば〉の世界の手前まで至っていると言える。後は、Hがより多くの〈ことば〉を発するための神経や運動感覚等の身体的な発育・発達状況が整うのを待つだけである。本書に書かれているここまでの内容から、私は少し安心感を得た。この後、Hが「意味世界」から「〈ことば〉の世界」へどのように移行・発展するのかについての構図や道筋についての内容については、次回に譲りたい。