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「胃弱」が意味することについて~「100分de名著」における夏目漱石著『道草』に関する解説内容から学ぶ~

     3月のNHK・Eテレ「100分de名著」で取り上げられていた「夏目漱石スペシャル」の放送はもう終わったが、前回の記事はその第2回放送分、『夢十夜』に関する阿部公彦氏の解説内容から学んだことを綴った。そして、私がそのブログ更新についてTwitterで呟いたところ、何と!講師の東京大学教授の阿部氏本人がTwitterで取り上げてくださった。おかげで、このブログのPV数が一挙に増え、私のテンションも一気に上がった。そこで、今回も私自身の複雑な生い立ちや青年期の悶々とした内面的葛藤などと重なる内容が含まれていた第3回放送分、『道草』に関する阿部氏の解説内容から学んだことを綴ってみたい。

 

 阿部氏は、『道草』を「胃弱小説」だと評している。その理由として、作品の冒頭に示唆された無限大の不安や恐怖が、慢性的な胃部不快感のエピソードを通して「胃弱」という型の中に収められ、少しずつ鎮められていく物語の展開を挙げている。つまり、『道草』は胃部不快感を得た主人公の健三が、そのおかげで無限大の闇からこの世に連れ戻される小説なのである。ただし、大事なのは胃部の不快感がいつもそれ以上の何か、言い換えれば何かの「兆し」を示すもののように描かれていることである。例えば、健三が姉から食べたくもない海苔巻きを無理矢理に勧められたり、金の無心をされたりする場面。肉親からの逃れられない圧迫感が、まるで胃部不快感のような重みとともに健三を苦しめるように感じられる。また、この内側からの不快感は、養父の島田に対する感情とも通じている。島田の使いの者が訪ねてきたことを知らされる場面。食欲なく床についている健三は、それを生理的、身体的な不快として受け取る。うまく言葉にならない「嫌悪感」に、慢性的な胃部不快感という「居場所」を与えることで物語は前に進むのである。さらに、この傾向は健三が幼少期のことを思い出す場面にも表れる。島田のうとましさが「腐った泥」や「嫌な臭」となって表れた心理的描写。ここにも嫌悪感が滲み出しているが、特にそれが生理的な不快感―嘔吐感を催すようなそれ―と結びついているのが『道草』の特徴であると、阿部氏は解説している。

 

 このように『道草』のいくつかの場面には、ゴシック的と言ってもいい異界や魔界の不気味さがたっぷりと出ている。しかし、前半のほとんど無限大の不快感や不安は、後半になって夫婦関係のもつれや胃部不快感として具体性を持つようになる。主人公の健三の病が目に見えるようになる。それでも、健三の日常はあいかわらず闇をたたえている。その一つが、健三の幼少期の思い出の描写。子どもが魚を釣るという牧歌的な場面であるはずが、糸を引っ張る不気味な力や、死んだ状態で水面に浮かぶ緋鯉のイメージからは底知れぬ気持ち悪さが伝わってくる。この場面において緋鯉が死体として登場することに、阿部氏は注目している。そして、緋鯉の死体と出会って健三が気持ち悪いと思ったのは、彼が緋鯉を殺した過去の自分と出会ったからではないかと独自の解釈をしている。このような場面に限らず、漱石が恐怖の感情を描くとき、「過去からの懲罰」というイメージが繰り返し出てくる。この「過去からの懲罰」という感覚は、お腹の痛み、胃部の不快の感覚とよく似ている。というのは、多くの場合、胃腸の不具合は食後に訪れるからである。漱石にとって、胃のむかつきが過去の自分に起因する痛み、「過去からの懲罰」という形をとることは多かったのではないかと、阿部氏は鋭く洞察するのである。

 

 最後に、阿部氏は次のようなまとめを行っている。漱石の病には、精神の病と胃の病の二系統があった。精神の病は自分をまるごと呑みこんでしまうような果てしない闇と感じられた。未知のものへの不安も伴う。これに対し、胃病のほうは慢性的で日常的。いつものやつがやってきたという既視感がある。つまり、「精神病の不安が未来的」であるなら、「胃病は過去からの集積」を暗示する。漱石にとっては、未来の不安よりも過去の「片付かない」という不快感の方が安心だったのかもしれない。「胃の病気がこのあたまの病気の救い」という言葉はそういうことだったのではないか。胃病のおかげで健三は不健康な健康さの中で、片付かないがらくたの中で、一服の安定を得た小説として『道草』を読むことができると締めくくっている。

 

 この『道草』という小説は、漱石の自伝的事実に基づいて「私生活」を描いているが、単に私小説作家の赤裸々な告白とは違っている。上述したような捉えどころのない恐ろしげで暗い感覚を描いたものである。しかし、それは「精神病の不安を胃病の不快感で隠すような、不健康な健康さを何とか保っている物語」なのではないだろうか。少なくとも阿部氏はそのように解釈していると思われる。この解釈を踏まえて私なりの言い換えをすれば、『道草』は「胃弱」の意味することを表現しつつ、「過去の不快感によって未来の不安がかき消され、現在の魂がかろうじて救われる物語」ということになる。また、別の表現にすれば、近代的個人主義に立脚した実存的な不安を抱えた私たち日本人が、「胃弱」の意味すること、つまり「過去からの懲罰」を意識することで、何とか「不安や恐怖に満ちた現在を生きようとする意志」を保っている日常生活を描いたものになる。さらに、私の勝手気ままな解釈に基づけば、100年以上前に生きた漱石が、近代的な人間観や価値観の中で生きる現代の私たちの複雑な心理情況を見抜いて、「日本人は自己に自閉する“実体的な個人”として生きるより、開かれた自己である“関係的な間人”として生きる方が、日本的な風土の中ではまだマシな生き方ができるのでは…。」と呟いているような小説と言ってもいいのではないだろうか。これは、素人ゆえのあまりに意訳的過ぎる解釈なのか…。それはともかく「100分de名著」において夏目漱石四作品についての独自な解釈に基づいた解説をして、私に未読の漱石作品を読もうとするモチベーションを与えてくださった阿部公彦氏に対して心から感謝の意を表しつつ、今回の記事はここら辺りで筆を擱きたい。