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「特別の教科 道徳」の実践的な内容について考えたこと~竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による対談内容から学ぶ(2)~

     前回の「特別の教科 道徳」に関する理念的な内容に引き続き、今回は実践的な内容の根本的な考え方について、『授業づくりネットワーク』(第28号/2017年)における竹田青嗣氏と苫野一徳氏という二人の哲学者による巻頭対談「全面実施目前、『道徳』の本質を問う!」を参考にしながら考えてみたい。

 

 まず、竹田氏は「道徳は学べるか、教えられるか」という質問に対して、おおよそ次のようなことを答えている。

 

 共同体的な同情や憐憫、共感などという道徳的感受性や道徳感情は、知識として教えることはできない。それを育てるのはまず家庭、次によい友達関係である。ただし、「相互承認」が我々の社会の基本であること、他人の自由を侵害しないという意志において、実は自分の自由が守られているということ、その共通の意志で社会の営みが支えられていることは教えられる。また、このことの理解を深めるのは単なる知識ではなくて、我々が教養と呼ぶものである。つまり、様々な人間がどのようにしてその生き方を模索したかを知っていくのが教養であり、近代における教養の源泉は哲学と文学と芸術(表現的文化)。だから、道徳的な教育の中心は教養教育としての教育の中心に入っているのでないといけない。近代の教養教育の大事な本質は、家庭的な環境という初期条件の大きなハンディを自分で考え直し、この条件をリセットできる可能性を誰にでも与えることである。したがって、道徳を教えるという考えはやめて、教養を育てることが大事なことである。

 

 それを受けて、苫野氏はおおよそ次のようなことを述べている。

 

 教育は「承認の最後の砦」であるべきである。「相互承認」には三つの契機があり、まずは「自分を承認できること」、次に「他者を承認できること」、そして「他者から承認されること」。その中で一番重要なのは、「自己承認」。したがって、立てるべき問いは、「ではどうやって、しっかりと自己承認の土台となり、相互承認の感度が育めるような教育環境が整えられるか」になる。だから、道徳教育というやり方で、相互承認の感度を育むみたいな話はちょっと無理がある。だだ、それでもなお、何か道徳教育ということをやるのならば―市民教育(シティズンシップ教育)と言いたいが―、その中身は教養である。その一つの根本は、近代社会とは「自由の相互承認」から成り立つ社会であること、そのために異なる価値観やモラルをもった人たちが互いに承認し合い共存するために、「ルール」を作り合う経験が必要になるということである。

 

 また、それを受けて、竹田氏は次のような持論を展開している。

 

 根本的には、モラル教育ではなく、ルールの本質を少しずつ教えていくことが大事である。ルールというものは、初めは親のルールを受け入れ、次に学校のルールを受け入れる。つまり、子どもは初め上から与えられたルールを守る能力を身に付けていくけれど、大事なのは、複数のルールを経験する中で、子が徐々にルールの本質というものを理解するようになること。また、そうなるような仕方でルールを与えないといけない。そのことで徐々に自分たちでルールを作れるようになってくるからである。ルールは、根本は人間同士の相互承認に根にもつという感覚がだんだん理解できる仕方でルールを与えることが大事なのである。ただし、その時の原則は、いきなり子どもの「自由」をすべて認めてはいけない。子どもが少しずつ他人の自由を認め、もし侵害した時にはその責任を取るという自覚と能力が身に付いてくる度合いに応じて、子どもにより大きな自由を与えていく。つまり、他者の自由を承認できる感度と意思の形成に応じて、より「自由」を認めていくという原則である。

 

 さらに、それを踏まえて、苫野氏は次のような公教育批判を行っている。

 

 学習指導要領では、ルールを共に作るというような契機がほとんどない。ルールを守るとか、法を遵守するとしか書かれていない。これは大きな問題である。日本人の多くは、ルールの本質を分かっていなくて、ルールは与えられるもの、意味はよく分からないけど、従わなくてはならないものという発想が強い。また、ルールは自由を束縛するものというイメージも強い。これらの実態を生んだのは、教育の責任が大きいと思う。本来、ルールというのは自由を束縛するものではなく、みんなが自由になるためのものである。この発想がない一つの理由は、やはりルールを共に作る経験が圧倒的に不足しているからである。また、そもそも今あるルールの問い直しさえもほとんど行われず続いている。だから、公教育は、ルール共創教育とでも言うか、ルールを共に作り合う経験をたっぷり保障する必要があると思う。

 

 私はお二人が応答しているほとんどの内容についてほぼ賛同する。私が現職の時には、低学年であれば「体育科」のゲーム領域の学習において、まずは基本のルールに従ってゲームをして楽しみ、徐々に個人技能や集団技能が高まって基本のルールでは物足りない事態になったら、より複雑にルールを変更してゲームを楽しむという学習過程を保障していた。また、中・高学年であれば「学級活動」において、年度当初に学級で決めたルールが様々な事情で適用しにくい状態になったら、よりよく改善するための話合い活動を行い、改善されたルールを基に実践するという活動過程を保障していた。そのような実践は今までの学習指導要領に基づく教育実践でも可能だったのであり、私は積極的に「ルール共創教育」に取り組んできたつもりである。しかし、「道徳の時間」の実践では十分な取組ができなかった。

 

    だから、本対談においては現場の教師たちが求めている「特別の教科 道徳」のより実践的な内容、つまり日々の道徳の授業にどのように取り組むかという課題に対する具体的な内容に触れられていないのが不満である。道徳教育の理念や実践への構えについては、「自由の相互承認」の感度を育むことに尽きるが、ではそのための道徳教育の具体的な目標やそれを実現するための授業をどう構想していくのかという実践方略上の課題は残されたままである。この課題に対する回答内容については、いずれ私なりに思っていることや考えていることを記事にしたいと考えている。

 

 次回は、その課題解決の前提になるシステムとしての学校教育のよりよい在り方を探るために、苫野氏の近著『「学校」をつくり直す』から学んだことをまとめてみたいと考えている。