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たまにはエッセイ集を読むのも、いいなあ…~南木佳士著『からだのままに』を読んで~

   なかなかエッセイ風の文章が書けない!題材によってはどうしても論文的な文章になるのはしかたないとして、それ以外の題材でもついつい硬い文章になってしまう…。当ブログの記事を書く際、なるべくエッセイのように肩に力の入らない気軽な文章にしようと思ってはいるのだが、いざ書き始めるとなかなか思うようにならない。「文才がないのだから仕方がないだろう。」と言われれば一言もないが、少しでも改善する方法はないものかと日々悩んでいる。

 

 そんな時、私の書棚に入っている南木佳士氏の著作で芥川賞の受賞作『ダイヤモンドダスト』をはじめ『阿弥陀堂めぐり』や『エチオピアからの手紙』、『冬物語』などの小説と並んで『からだのままに』というエッセイ集を見つけた。確か、よく立ち寄る古書店で数か月前に購入して、書棚に入れたまま未読だったのを思い出した。芥川賞作家のエッセイ集だから、私の日頃の悩みを解消する何らかのヒントを与えてくれるに違いないと手に取った。

 

 著者は現在、長野県佐久市に妻と共に住み、佐久総合病院の内科医として勤務するかたわら、作家として地道な創作活動をしている。本書の「浅間山麓で書く」というエッセイの中に、小説を書こうと思った事情が書かれている。それによると、そもそも彼が小説を書いてみようと思い立ったのは佐久平の病院で内科の研修医を始めて2年ほど経ったころ、重症の患者さんの死に立ち会う回数が増えてくるにつれて、人が死ぬ、というあまりに冷徹な事実の重さに押しつぶされてしまいそうで、このつらい想いを身のうちに抱えては生きゆけないと明確に意識し、自己開示の手段として小説を選んだそうである。そして、医者になって4年目に、『破水』で第53回文學界新人賞を受賞し、作家の仲間入りを果たしたのである。彼は38歳の秋、パニック障害を発病し、以後、数年間うつ病どん底に沈む体験をしている。それだけ繊細な神経の持ち主なのであろう。当ブログで医者のことを批判的に書いた記事を以前アップしたが、その時に私がイメージした医者像、つまり患者に対する共感性に乏しい医者像ではなく、彼は豊かな感受性をもつ心優しき医者なのである。

 

 さて、本書を読んで私の心が強く揺さぶられたことや参考にしたいと思ったことを、簡単な所感を添えて書いてみよう。

 

 本書には16のエッセイが所収されているが、その中で私が最も心惹かれたのは「老いた母」である。著者が3歳の時、実母は肺結核で亡くなったので、母方の祖母が「老いた母」として著者を育てた。質素で平凡で、他人の悪口を言わずに営んでいた静かな暮らしの中、地位や名誉とは無縁の場で最後までみなに慕われた祖母に育てられたことを、著者は心の底から感謝している。本エッセイは、祖母の人柄や祖母との暮らしぶりなどが、具体的な事例を交えながらさり気なく綴られているが、短い文章の中に著者の感謝の気持ちが満ち溢れていて、読み手にその思いが確かな手応えをもって伝わってくる名文だと思う。私もこのようなエッセイを綴ってみたいものである。

 

 次に、私が特に参考にしたいと思ったエッセイは「信州佐久平に住む」である。前半は、著者が文學界新人賞を受賞した30歳頃の本の出版にまつわるエピソード。後半は、司馬遼太郎が著した『街道をゆく』シリーズ第9巻の「信州佐久平みち」というエッセイを取り上げて、地勢と人の歴史とのかかわり合いについての優れた描写力を称賛している。当ブログも、題材に応じた本を取り上げてその内容を紹介する記事が多いのだが、私の文章はとうてい芥川賞作家が綴ったエッセイの足元にも及ばない。特に取り上げる本やその著者についての記述方法をもっと工夫する必要があると、このエッセイを読みながら自戒した次第である。良質のエッセイをモデリングしながら、自分なりの文章力を高める努力は怠らないようにしたい。

 

 「学ぶとは真似ること」という言葉をよく聞く。何事もよい見本となる人の為すことや語ることなどを「真似る」ことから、「学び」は始まる。そのために、まずは良質のエッセイを読むというインプットにもう少し時間を割きたいと考えている。その上で、私なりの独自性が滲み出るようなアウトプットの方法を見出していきたいものである。

 

 「たまには、エッセイ集を読むのもいいなあ…。」