ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

思春期の子どもにかかわる〈他者〉としての教師のあり方を探る~中学校現場における学習指導や生徒指導のあり方に関する考察を通して~③

(前回から続く)

4 思春期の子どもにかかわる<他者>としての教師のあり方

 筆者は,従来から<人間形成型>の学習指導のあり方を追究するとともに,<温情派>教師の立場に重心を置きながら生徒指導のあり方を具体的に実践してきた。しかし,本年度,前述したような情況を呈するK中学校の教育現場を体験する中で,否応なく中学生の非行や荒れの実態に直面した。そして全教職員でその対応策を模索していく過程で,現在の歴史的・社会的情況に即応した学習指導や生徒指導のあり方を臨床的に検討する必要を痛感した。言い換えれば,小学校と違い中学校という教育現場は,近代学校としての様式や文化等を強固に維持しようとするベクトルが強く機能する実態にあり,従来の学習指導や生徒指導のあり方(パラダイム)を一気に転換することは様々な困難を抱えるため,徐々に脱構築していく実践的・臨床的方略をとらざるを得ないのである。

 

 そこで,そのためには中学校教師としてどのようなスタンスをとることが現在の情況において妥当するのか,思春期の子どもからとらえた「他なるもの」の重要な構成要素であり,大きな影響力をもつ者である,<他者>としての教師のあり方という視座から考察したい。

 

 まず,教育関係における<他者>とは,どのような存在なのか探ってみることにする。

 

 「教える-学ぶ」という関係において,特に教える側から<他者>をどのようにとらえるか,柄谷行人は「探究Ⅰ」(講談社学術文庫 講談社 1992年)の中で,次のように述べている。

 

 私は、自己対話、あるいは自分と同じ規則を共有する者との対話を、対話とはよばないことにする。対話は、言語ゲームを共有しない者との間にのみある。そして、他者とは、自分言語ゲームを共有しない者のことでなければならない。そのような他者との関係は非対称的である。「教える」立場に立つということは、いいかえれば、他者を、あるいは他者の他者性を前提にすることである。(p11)

 

 このことから,「教える」立場というのは,普通に考えられているのとは逆に「学ぶ」側の合意を必要とし,その恣意に従属せざるをえない弱い立場であることが分かる。だからこそ,「教える-学ぶ」という関係は,決して権力関係ではなく,<コミュニケーション(対話)する関係>と言えるのである。逆に言えば「教師-生徒」という権力関係が成立するのは,同じ言語ゲームを共有する共同体における「語る-聞く」関係という閉ざされたモノローグ (自己対話)を前提としているのである。したがって,ここでは<他者>が存在しないのだから,<他者>との出会いによって自己の認識や経験を再構造化することで変容するという<学び>が成立することはない。つまり,「教える-学ぶ」という関係が成立するということは,教える側にとって学ぶ側が<他者>であると同様に,学ぶ側にとっても教える側が<他者>であることを意味するのである。

 

 ということは,近代学校において前提としていた「教師-生徒」という権力関係は,教師にとっても生徒にとっても互いを<他者>としていなかった関係であり,ここで言う「教える-学ぶ」関係を形成することが困難だったのである。

 

    では,これからの教師は子どもにとってどのような<他者>でなくてはならないのであろうか。高橋勝は,「子どもの自己形成空間-教育哲学的アプローチ-」(川島書店 1992年)の中で次のように述べている。

 

    むしろ教師のいだく「他者」を排除したモノローグ的な教育観の閉鎖性のほうこそ問い直す必要があるのである。教師の多くは、子どもの発するさまざまな信号を読みとることにほとんど関心を示さず、したがってまたそうした受信用のアンテナを張り巡らすという努力も怠ってきたようにみえる。人は学校でなぜ学ぶのか、そもそも私たちが生きていることと学ぶこととはどのような関係にあるのか、という現在の中学生が戸惑い、答えあぐねている疑問に教師が応え、ともに追求していくという対話的な関係を作りあげていくことが大切である。(p80)

 

 その通りである。ただ,このような教師のあり方によって,思春期の子どもたちと「話せば分かる」という関係を作ることができるという楽観主義に陥ることには注意が必要である。と言うのは,互いが<他者>であるということは,「話しても分からない」「教えても理解できない」ということを前提としているからである。しかし,だからと言って,どんなにしてもお互いに理解し合えないという<純粋他者>と考えて悲観主義に陥ることも愚かである。むしろ,人間は生まれたときから社会的・関係的存在であるわけだから,コミュニケーション(対話)を重ねることで相互理解を深めることが可能な<他者>と考えたい。

 

 ただし,現在の思春期の子どもたちは,この時期特有の不安定な実存性とともにポストモダン的な感性を生きており,そのため教師とのコミュニケーションそのものを強く拒否したり暴力によって妨害したりする場合がある。そのような場合には,コミュニケーションを可能にする情況を作るために,一時的に緊急措置を講じる必要も起きてくる。つまり,学校内が一般市民社会と同様な場所に変わりつつある現在,非行や荒れを起こす生徒に対して,一時的に専門家である医師やカウンセラー,警察官等に対応してもらうことも止むを得ないのである。しかしその場合であっても,あくまで<他者>としての教師は自分の今までの経験の厚みを基に,生徒に対して毅然とした態度を取り,専門家との連携を図りながら自分が責任を持ちうる時空間の範囲で最後までコミュニケーションをとり続ける存在でなくてはならない。

 

 このような思春期の子どもたちにかかわり合う<他者>としての教師のあり方は,学習指導や生徒指導の二つの立場の考え方の折衷的な対応をイメージさせるが,単に両者の立場の考え方をバランスよく具体化して実践するという,ご都合主義によるものではない。あくまでも,子どもも教師もそれぞれの立場で<自己>と<他者>との相克的な関係性を生きることを求めるものであり,それは双方にとっては常に緊張感をもった関係性を生きることにほかならない。そのためには,双方ともにこのような関係性を保ち続ける「強さ」をもっていることが必要である。この「強さ」をもつ条件の一つは,乳幼児期における親密な他者関係にあり,青木信人は「子どもたちと犯罪」(シリーズ教育の挑戦 岩波書店 2000年)の中で,次のように述べている。

 

 そうした意味での「強さ」は、確かな自己肯定感と他者一般に対する基本的な信頼感を手にしていて、はじめて生まれるものではないか。そのためには、幼いときから親をはじめとする身近な他者との安定的で親密な関係性を反復しながら成長することが不可欠な条件と言えるだろう。その条件が欠ける時、人は自分という存在をかけがえのないものとして実感することができなくなるとともに、他者との心の回路を切り開いていく手立てを見失うことにもなるであろう。(p34)

 

 現在,保護者である親が児童虐待をする事件が後を絶たない。上述のような乳幼児期の身近な他者との安定的で親密な関係性をもてない子どもたちが思春期になったときには,<他者>としての教師のあり方はさらに複雑な対応を迫られるであろう。そのような臨床事例の詳細な報告は,また別の機会に改めたいが,基本的には乳幼児期からの発達課題を辿り直すためにかかわることが必要になるであろう。

 

お わ り に

 本年度がもう終わろうとしている。筆者にとって本年度の教員生活は,印象深いものであった。それは,「はじめに」でも書いたように筆者にとっては悔恨の1年だったからである。本稿の執筆の動機もここにあった。何とかこの1年間で体験したことを自分なりに総括し,経験化したい。「思春期の子どもにかかわる<他者>としての教師のあり方を探る」というテーマも,その思いを表現したものである。しかし,このテーマの追究作業は,中途半端に終わってしまったような気がする。思考はまだまだ未整理のままで,本稿が一つの論考としてまとまらず,事例報告のレベルに留まってしまったのは,ひとえに筆者の力量不足であることをお詫びする。

 

 ただ,本稿の執筆の過程で思わぬ新たな課題意識が芽生えたことは,筆者にとって喜びであった。それは,本稿でも触れた積極的な生徒指導のあり方として示した<カウンセリング>という手法に対して疑問をもつようになったことがきっかけである。筆者は,非行や荒れを起こす生徒への対応策の一つにカウンセリングマインドをもってかかわることの大切さを述べたが,このことは非行や荒れを起こす原因を生徒の心理面からとらえ,問題解決の方向を「心の問題」だけに限定させてしまうことになっていなかったか。そして,この疑問が課題意識にまで醸成される強い刺激になったのは,小沢牧子の著作「『心の専門家』はいらない」(新書y 洋泉社 2002年)であった。今後,この課題を追究しながら,中学校という教育現場における生徒指導のあり方について思考をより深めたいと考えている。

 

注)

 本稿で取り上げたK中学校の非行や荒れの実態については,生徒のプライバシーを極力配慮してかなり事実を省いて記述している。ご容赦願いたい。

 

【引用文献と主な参考文献】

1 「『学び』から逃走する子どもたち」佐藤学岩波ブックレット№524 岩波書店 2000年

2 「サーフィン型学校が子どもを救う!-『やり直し可能』な教育システムへ-」永山彦三郎 平凡社新書 平凡社 2001年

3 「症状としての学校言説」小浜逸郎 JICC出版局 1991年

4 「探究Ⅰ」柄谷行人 講談社学術文庫 講談社 1992年

5 「子どもの自己形成空間-教育哲学的アプローチ-」高橋勝 川島書店 1992年

6 「子どもたちと犯罪」青木信人 シリーズ教育の挑戦 岩波書店 2000年

7 「子どもの自分くずしと自分つくり」竹内常一 UP選書 東京大学出版社 1987年

8 「学級再生」小林正幸 講談社現代新書 講談社 2001年

9 「『近代』の意味-制度としての学校・工場-」桜井哲夫 NHKブックス470 日本放送出版協会 1984

10 「学校はなぜ壊れたか」諏訪哲二 ちくま新書 筑摩書房 1999年

11 「14歳-日本の子どもの謎-」小浜逸郎 イーストプレス 1997年

12 「家庭のなかの子ども 学校のなかの子ども」滝川一廣 岩波書店 1994年

13 「大人の<責任> 子どもの<責任>-刑事責任の現象学佐藤直樹 青弓社 1993年

14 「カウンセリング・テクニックを生かした新しい生徒指導のコツ」諸富祥彦編 学習研究社 2001年

15 「『心の専門家』はいらない」小沢牧子 新書y 洋泉社 2002年                                   

(完)

 

 以上、今から15年も前に私が執筆した教育実践論文を3回の記事に分けて連続して転載した。内容的に現在の中学校現場の実態とは少しズレているかもしれないが、現職の先生方からたまに耳にする公立中学校の現状から判断するに、全くの的外れとは言えないように思う。少なくとも根本的なところでは通底しているのではないだろうか。

 したがって、今の中学校現場において「よい」教育を実現するためには、まず思春期の子どもたちの実態をどのように把握し、それをどう分析・評価するかという点から共通理解を図ることが大切である。そして、その結果に基づいて、子どもたちにとって<他者>である教師としての望ましいあり方について、しっかりと議論すべきなのではないだろうか。