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「よい」教育を求めるための適切な方法とは…~苫野一徳著『どのような教育が「よい」教育なのか』から学ぶ①~

   前回まで連続3回分の記事内容は、私が15年前に教育臨床学的な視点から執筆した教育実践論文「思春期の子どもにかかわる〈他者〉としての教師のあり方を探る~中学校現場における学習指導や生徒指導のあり方に関する考察を通して~」であった。私自身が今、読み返してみても当時の辛い心情が時に吐露されており、理路整然とした正当な論文とは言えないものである。しかし、教職以外の仕事に携わっている方に、中学校現場の大変困難な実態や、「よい」教育を求めて悪戦苦闘している教員の実情を少しでも知ってもらいたいと思い、恥を忍んで転載した次第である。

 

 中学校教員に限らずほとんどの教員は、常に「よい」教育を求めて日々の教育実践に真摯に取り組んでいると私は確信している。ただ、その「よい」という基準が一人一人の教員によって大なり小なり異なっているので、各学校においては教育理論間の葛藤や教育実践間の対立等が起きることが多いのである。私が15年前に勤務していたK中学校も生徒の荒れや非行をきっかけとしてそのような葛藤や対立等が顕在化してきたので、私は教頭職の立場でよりよい解決を図ろうと鋭意努力した。だが、現実はなかなか思うようには好転せず、ただただ悪戦苦闘するというレベルに留まる苦い経験になった。

 

 教育は「国家や社会を繁栄させるためだ」とか「子どもの個性を伸ばすためだ」とか、その目的を「よい」の基準にすることがある。また、「学問や教科の系統性を尊重することが大切だ」とか「子どもの経験を尊重することが大切だ」とか、その指導内容及び方法を基準にすることもある。その他にも「よい」の基準はさまざまなレベルで問うことができる。戦後教育史をざっと振り返ってみると、これらの基準についてともすると二項対立的に議論されることが多かった。つい近年の教育改革の流れを見ても学力低下論争を契機にして、「ゆとり」か「詰め込み」かという議論が起こった。このような議論の様相はというと、それぞれの立場の者が自分の直接的な教育体験に基づいた強い信念を、互いに押し付け合うような仕方で論じられることが多かったように思う。かく言う私も、若い頃はこれこそが「よい」教育であると自分の信念を絶対化して相手に議論を挑んでいたなあと反省することしきりである。しかし、近年私の周りを見渡してみると、これとは反対に「よい」とか「正しい」とかという普遍的なものはないのだという相対主義が蔓延したことで、一種のニヒリズムになっているのではと感じてしまうことがある。

 

 以上のような悪しき絶対化や相対化に陥らないで、誰しもが「よい」教育だと深く確信し、お互いに共通了解できるような議論の仕方はないものだろうか。私は15年前に経験したことを契機に、その後ずっとその答えを求めて、思考の袋小路に迷い込んでいた。そのような中、今から8年ほど前にふと立ち寄った書店で私の問題意識にぴったりの『どのような教育が「よい」教育か』(苫野一徳著)という本に偶然、出合った。私は飛び付くように買い求め、書名とは裏腹なとても難解な内容にもめげず、一気に読み通して、微かな光明を見出すことができたのである。

 

 そこで今回は、本書を久し振りに再読して改めて学び直したことを踏まえて、「よい」教育を求めるための適切な方法、特に現象学を援用した方法について私なりにまとめておきたい。

 

 著者は、次のように言う。…20世紀にドイツの哲学者フッサールによって創始された現象学は、これこそが絶対に「よい」「正しい」教育であるというような絶対的真理を認識することは不可能であることを前提にしている。しかしだからといって、「よい」「正しい」教育など一切ないと、完全に相対化することもせき止めている。

 

 では、「よい」教育を求めるための現象学を援用した方法とは、どのような方法なのか。著者は、続けてこう言っている。…もし私たちが「ああ確かにこれはいい教育だ」と思わず感じてしまうことがあったとすれば、その時、私はなぜ、そしてどのようにこれを「よい」教育と感じてしまったのか、その「確信」成立の条件と構造を問うことはできるはずであり、そしてそのような問いの立て方こそが、教育を問うための最も根本的な思考の出発点なのである。そして、この問いを他者に投げかけ共に問い合っていくことができるし、またそうする必要がある。そのプロセスにおいて、私たちは「よい」教育をめぐるある一定の共通了解を見出すことができるかもしれない。いや、むしろ現象学の方法は、この共通了解を見出そうとする点にこそ最大の特徴がある。

 

 著者はこのような現象学的な問い方によって論じ直すことで、教育の本質と正当性を本書で問い、次のような答えを出している。…もし人間的欲望の本質が〈自由〉であることが認められたなら、各人が十全に〈自由〉を獲得できるためには社会を〈自由の相互承認〉の理念によって構想するほかないという社会理論もまた、本質的な考え方であるように思われる。そして続けて私たちは、したがって教育もまた、各人の〈自由〉と社会における〈自由の相互承認〉を実質化するための、〈教養=力能〉育成をその本質としているということができるはずである。

 

 以上のような「よい」教育を求めるための適切な方法、特に現象学を援用した方法について、またその方法を駆使して導き出した答えについて、私はまだ十分理解しているとは言い難いが、基本的には賛成である。そこで、次回は公教育が育成すべき〈教養=力能〉とは、具体的にどのようなものなのかについて、著者の考えを紹介しつつ私なりの考えもまとめてみたいと考えている。