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「哲学とは何か」「何のための哲学か」という根元的な問いに答える!…~NHK別冊100分de名著・西研特別授業『ソクラテスの弁明』を読んで~

   私の書棚にはプラトン著『ソクラテスの弁明』が2冊並んでいる。角川文庫と岩波文庫のそれである。角川文庫の方は、私が以前に買ったもので白い表紙が目立っている。岩波文庫の方は、もう30年ほど前に私が地元国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃、当時の学年主任からいただいたものなので表紙は薄茶色に変色している。その本をパラパラとめくってみると、ほとんどのページに鉛筆のメモ書きが目立つ。このメモを書いた学年主任のI先生は、私にとって一生忘れられない学恩のある方である。それは、若年の私に読書の愉しさや醍醐味を教えてくれ、教師として目指すべき具体的な在り方を指し示してくれた人だからである。さらに、人間としての哲学的な生き方についても示唆してくれた人だからである。

 

 最近購入したNHK別冊100分de名著・西研特別授業『ソクラテスの弁明』を読みながら、私はI先生のことを思い出していた。そもそも本書を書店で手にしたのも、I先生の導きを感じたからと言っても過言ではない。本書は、2019年1月26日に早稲田高等学校行われたNHK100分de名著の西研特別授業を基に加筆を施した上で構成したものであり、私にとっては改めてプラトン著『ソクラテスの弁明』の内容やその哲学的意義について確認し直すのにピッタリの本であった。

 

 そこで今回は、本書を読んで「哲学とは何か」「哲学は何のためにするか」という根元的な問いに対する答えに関して著者の西氏が解説していることをまとめるとともに、それらに関連するI先生との懐かしい思い出話にも少し触れてみたい。

 

 まず著者は、哲学とは「対話(議論)の営み」だと言い、そしてその対話(議論)には次の二つのルールがあると解説している。一つ目は、誰もがお互いに対等の立場で根拠を出しながら、説得力のある議論を積み重ねること。二つ目は、問題の根っこを考え、その場にいる人もそれ以外の人も「なるほど」と納得できるような、原理性と一般性を備えた考えを導き出していくこと。つまり、これら二つのルールを踏まえて「合理的な共通理解」を育てることを最終目的とした「対話の営み」が、哲学なのである。

 

 著者は、哲学の出発点に関する記述の中で、かつて「無知の知」と呼ばれていた概念が近年は「不知の自覚」と呼ばれるようになったことに言及している。「無知」が本当は知らないのに知っていると思い込んでいる、恥ずべき状態のことを指すのに対して、「不知」は価値あることを知らないという事実を表すニュートラルな意味をもつものである。ソクラテスは、「無知」ではなく、「不知」であって、そのことを自覚しているから、「不知の自覚」と言うべきなのだ。このソクラテスの考え方にも現われているように、哲学には世の中の人々が価値あることだと思っている常識を疑い、問い直していく姿勢がある。哲学者は知識人の自負や人々の常識にあがらい、「あなた方が価値あるものと言っているものは、本当は価値あるものではないのではないか?」と迫るのである。ソクラテスもそのような姿勢で、「対話の営み」を繰り返していたのである。しかし、この価値について「合理的な共通理解」を得られる方法はあるのであろうか?

 

    次に著者は、この問いに対する答え、つまり哲学の目的と方法に関連してソクラテスが示した「魂への配慮」(魂について、どのようにすればそれが最も優れたものとなるかを気にかけること)について、次のようなことを述べている。哲学の対話は、魂のアレテー(美徳)を磨くためのものとなり、その意味で「魂への配慮」の営みということになる。そして、「魂のよさ=徳」は全てのよさの源泉になるとソクラテスは考えるが、それは決して道徳的で真面目に生きることのみを意味するのではない。哲学の対話は、人に「憧れ」を取り戻させ、元気にさせるものであるはずである。哲学とは、「何がよいか・なぜよいのか」を問うことによって、憧れる力を呼び覚ますものなのだ。

 

 さらに著者は、「何がよいか・なぜよいのか」を他者との対話の中で明確にし、共通理解を作るためには、問い方が大切になると述べている。そして、その方法について「勇気」という徳に関する具体的なワークショップを紹介しながら、次のような手順を示している。「1 実例を出す」→「2 意味を確かめ、共通する要素を考える」→「3 価値があるとされる理由を考える」。なお、2の「共通する要素」は後の哲学では「本質」と呼ぶようになったのだが、以上のような手順というのはソクラテスプラトンの「探求の方法」に基づいた徳の「本質」を確かめる作業だった。また、このような作業を精練して、共通理解を作る方法として整備したのは、20世紀の哲学者フッサールであり、その方法は「現象学」と呼ばれた。その要点は、体験を丁寧に反省してそこから「本質」を取り出すということなのである。

 

 以上、『ソクラテスの弁明』をテキストにしながら「哲学とは何か」「哲学は何のためにするか」という根元的な問いに対する答えについて著者が解説したことをまとめてみた。私は、この中で哲学における対話の意義について、I先生との懐かしい思い出を想起しながら再認識していた。前述したようにI先生は、私が附属小学校に転任して最初に担任した4年生の学年主任だった。当時、私は結婚したばかりの20代後半。公私共に生活が激変したためか、目の前に立ち現れる日々の課題を何とか解決するのに精一杯で、同学年部のお二人の先輩(I先生とH先生)に対する気遣いもままならない状態であった。にもかかわらず、お二人ともそのことには意も介さずさりげなく接してくださっていた。私はそれをいいことに自閉的な振舞いをしていたと思う。しかし、私の内面には様々な不満や不安が渦巻いており、その原因を周りの環境のせいだと思い込んでいた。

 

    そのような私に対してもうすぐ1学期が終わろうとしていたある日の放課後、学年資料室でI先生が「○○先生、お疲れの様子ですね。コーヒーでも如何ですか。」と声を掛けてくださった。私は恐縮しながらもその言葉に甘えて、児童机をテーブル代わりにしてI先生と向い合った。そして、少し苦いコーヒーを味わいながらしていた何気ない会話をきっかけにして、私は内面に抱えていた様々な不満や不安を口に出していた。それに対してI先生は、私のひと言ひと言に対して優しく頷きながら丁寧かつ具体的に応対し、その中で私の不満や不安の解消に役立ちそうな本まで紹介してくださったのである。今でもその場面が目に焼き付いている。「対話」というのは、このようなことを言うのだと私は初めて体験した。それ以来、毎日のようにI先生との放課後の「対話」を楽しむようになった。今から振り返れば、あれは「哲学対話」だったのだなあと思う。プラトンにとってソクラテスが“師”であるように、私にとってI先生は “師”なのである。今更ながら、I先生に対して言葉には言い表せないほどの感謝の気持ちが溢れ出てくる。…