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「教養」の本当の意味や定義って何?~清水真木著『これが「教養」だ』から学ぶ①~

    前回の記事で「語彙=教養」ととらえる立場から、語彙力を高めるインプットとアウトプットの技法について箇条書きでまとめた。その際、私は「教養」という言葉の意味を、「個人の人格や学習に結び付いた知識や行いのこと」と一般的・辞書的にとらえていた。ところが、私の書棚で長い間積読状態になっていた『これが「教養」だ』(清水真木著)を、数日前に取り出してひも解いてみると何と全く意味の違う解説に出会って面食らい、しばらく考え込んでしまった。

 

 そこで今回は、本書で解説している「教養」の定義や「教養」という言葉が使われるようになった経緯等から学んだことをまとめるとともに、私なりの率直な所感を綴ってみたい。

 

 著者は、ドイツの哲学者・ハーバーマス著『公共性の構造転換~市民社会の一カテゴリーについての探求~』に基づきながら、「教養」という考え方は18世紀後半の西欧に「市民社会」が形を整えてきた啓蒙時代になってから誕生したと述べている。そして、「教養」とは「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」、つまり「生活の公的な場面と私的な場面におけるそれぞれの行動を統合する能力」のことであると、抽象的な言い方で定義している。これは、「教養」という言葉を私のように一般的に理解している内容からは大きく隔たっている。どのような歴史的・社会的な背景から、このような定義が成り立ったのだろうか。

 

 著者がこの歴史的・社会的な背景を踏まえながら「教養」について解説している内容を、私なりに要約すると次のようになる。

 

 18世紀後半、西欧には「市民社会」とともに「市民的公共性」が誕生する。「市民社会」というのは、その社会のメンバー全員の利害にかかわるような問題を、利害関係を持つ者なら誰でも参加することができる話し合い、討議によって解決するという点に特徴がある社会である。この話合い・討議のための空間を「公共圏」と呼び、これを支配する秩序を「公共性」、討議の結果まとめられた結論を「世論」または「公論」と言う。これは、その社会全体の総意である。しかし、「公共圏」が独立してくると、そこに取り込まれなかった部分ができ、これを「私生活圏」と呼ぶ。その中の労働に関する部分を「私有圏」、家庭に関する部分を「親密圏」と呼ぶ。そして、この「公共圏」「私有圏」「親密圏」の3つの部分は、それぞれが自律的なルールに従って展開を始めるのである。「市民社会」というのは、一人の人間が性質を異にするいくつかの組織に属し、しかも、それぞれの組織が要求する異なる役割に応えながら生活しなければならない。そのような面倒な社会なのである。

 

 そこで、3つの生活空間を統合する視点を定めなければならない。バラバラになった生活全体を見渡し、複数の相容れない秩序、家庭の秩序、職場の秩序、政治の秩序をいわば「通約」する第4の新しい秩序を見つける必要があるのである。いつ、どこで何をしているときにも変化することのない「自分らしさ」なるものを見つけ出すということである。18世紀後半に選び取られたのは、この「自分らしさ」なるものを見出すという道だった。そして、この新しい「自分らしさ」を見つけ出すプロセスと、このプロセスの結果として見出されるはずの「自分らしさ」こそ、本来の意味で「教養」と呼ぶべきものに他ならないのだ。

 

 しかし、18世紀末以降の西欧で「教養」に関して語られたことは、万人に共通の「人間性」へ一人一人の「自分らしさ」を還元し、「自分らしさ」を「人間らしさ」一般にすり替えてしまう試みであった。したがって、「教養」は誰にでも当てはまるが、その分、内容の乏しいもの、無内容なものになっていくことになってしまったのである。本来、「自分らしさ」を手に入れるということは、あくまでも個別的、具体的な生活の一つ一つの場面、一つ一つの出来事に即して少しずつ問題を解決していくという決疑論的な能力を手に入れることに他ならない。したがって、「教養」とは決疑論的な能力であり、「教養ある人間」とは決疑論的に問題を解決できる人間なのである。

 

 ハーバーマスは、現代社会は「公共圏」「私有圏」「親密圏」という3つの空間の境目が曖昧になり、「社会圏」という名前のノッペリした一つの空間によって代わり、「市民的公共性」が変質して、崩壊した時代ととらえている。ならば、上述したような意味の「教養」も不要になるのであろうか。否、「市民社会」とともに生活の中に持ち込まれた居心地の悪さの方は、相変わらず私たちを悩ませているのだから、やはり「教養」という考え方を手放してしまうわけにはいかない。きっと生き残るであろう。著者は、問題解決の能力を手に入れるために努力する者にとり、現代社会はその能力を鍛えるためのまたとない練習場ですらあるのではないかと言っている。

 

 以上、著者が解説している「教養」の定義や「教養」という言葉が使われるようになった歴史的・社会的な背景や経緯等について、私なりに理解した内容を要約してみた。私としては、まだ十分に内容を理解している訳ではないが、著者が本書を通じて主張しようとしている主旨はつかむことができた。そして、その内容は概ね共感的にとらえることができた。ただ、この本来の「教養」の意味や定義が、現在多くの日本人がとらえている「教養」の概念とどのように結びつくのかが疑問に残った。次回は、本書の第2章で取り上げている“「教養」という日本語の考古学”の内容について、より詳しく読み解いてみたいと考えているが、本書を読解するのにやや手こずっているので、少し時間がかかるかもしれない…。期待せずに待っててネ。