ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「教養」という言葉は日本でいつからどのような意味で使われ始めたのか?~清水真木著『これが「教養」だ』から学ぶ②~

 猛烈な台風15号が関東地方を直撃している様子をテレビで観ながら、今、この記事を書いている。9月から月曜日の勤務が遅出になったので、午前中に私的な時間が取れるようになったからである。でも、前回の記事でお約束したこと、つまり「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」という意味の「教養」は、私たちが現在一般的に理解している「個人の人格や学習に結び付いた知識や行いのこと」という意味とどのように繋がっているのかという理由について、本書の第2章で取り上げている“「教養」という日本語の考古学”の内容から読み取って記事にすることは、私程度の理解力ではなかなか難しい。私なりにまとめようと何度も読み返してみたが、筋の通った理由を文章化することができない。

 

 そこで、今回は取り敢えず「教養」という言葉が日本でいつからどのような意味で使われ始めたのかについて、私なりに理解した内容の概要をまとめてみようと思うので、ご容赦を願いたい。

 

 著者は、進藤咲子著『「教養」の語史』という文章の中で、「教養」という言葉は我が国の『日本書紀』の中に見出されるが、その意味は現代の言葉遣いなら「教育」と表現されるべきものであったと述べられていることに注目している。つまり、「教養」という言葉は古代から文字としてあったが、現在使われている意味ではなかったということである。また、進藤氏によると、「教養」という言葉は古代から幕末以前の一千年以上の間、一度も使われていないらしい。また、幕末から明治初期に「教養」という言葉が使われ始めるようになった時、依然として「教育」という意味を表していたと言う。さらに、「教育」という意味から区別された何ものかに対して「教養」の名が与えられるのは、大正時代になってからのことだとも指摘している。これらの進藤氏の研究成果を基にすれば、「教養」は文字としては古いものの、使われるようになった時期は非常に新しい言葉であると言える。

 

 では、「教養」という言葉はどのような必要性から作り出された言葉なのであろうか?その経緯と社会的・歴史的背景等について本書の第2章に書かれている内容を、次になるべく分かりやすく整理してみよう。

 

 明治時代の初め、いわゆる「文明開化」とともに、我が国には多くの文物が外国からやってきた。明治政府は我が国の存亡を賭けて早急に近代化を図る必要性があり、これを必死で取り入れようとした。もちろん、これらの新しい文物には名前が与えられ、適切に表現されなければならない。しかし、江戸時代までに使われていた日本語の語彙の中には、外国からやってきた新しいものを適切に表す言葉がない場合が多く、やむを得ず翻訳することを求められた。「教養」という言葉は、その翻訳のために使われるようになった言葉の一つなのである。

 

 それでは、この「教養」という言葉は、何を翻訳するために用意されたものだったのであろうか?それは、ドイツ語の「ビルドゥング」(Bildung)という名詞であり、文字通りの意味は「形作ること」になる。このことから、「ビルドゥング」という言葉に対して20世紀初めのドイツ人が認めていた意味と一緒に、日本人は「教養」という言葉を引き受けたのである。したがって、「教養」という言葉の意味は、最初から指定されていて、日本人には自由に変える余地が残されていなかったのである。

 

 だとすれば、この「教養」という言葉の通俗的な固定された意味とはどのようなものだったのであろうか?筆者は昭和後期から平成前期にかけ活躍した評論家・加藤周一氏の文章を読み取り、彼こそが20世紀初めのドイツ人が理解していたであろう「ビルドゥング」の意味で「教養」という言葉を使用している人物であると認めている。そして、加藤氏の『教養とは何か』という文章を紹介して、「古典を読むことで人格が陶冶されるという考え方」という概念が「教養」という言葉の意味だと解釈している。

 

 この考え方に対して、本書の著者である清水氏は、反論しつつ「教養」の本当の意味とは「公共圏と私生活圏を統合する生活の能力」であるという持論を展開しているのである。著者は言う。現在人々が「教養」と呼んでいるものは本当の「教養」ではなく、20世紀初めのドイツ人が理解していたであろう「ビルドゥング」の意味である「教養」をより分かりやすく加工した「教養風味」のまがいものである。「教養」とは何の関係もないものに「教養」の名前を誤って使っている。以前、大学でよく使っていた「教養教育」という言葉も、「教養風味」の最高の見本のようなものであると、…。

 

 以上、「教養」という言葉が日本でいつからどのような意味で使われ始めたのかについてその概要をまとめるとともに、著者のそれに対する立ち位置について簡単に再確認してみた。文章理解力に乏しい私にとっては荷の重いテーマであり、読者の皆さんにも分かりづらい記事になってしまったが、記事を書きながら少しずつ理解が深まってきたように思う。このことは「インプットとアウトプットの繰り返しによる文章理解法」と言えるのかもしれない。私は、これからの記事もあまり気張らずに、この方法を駆使しながら書き続けていこうと思った。そう思ったら、何だか今まで以上に気軽な気分でパソコンの前に座ることができそうである。ホッと一息入れたところで、今回もそろそろ筆を擱きたい。