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若い頃の私を救ってくれた「唯幻論」とは…~岸田秀著『唯幻論始末記―わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか―』を読んで~

  和光大学名誉教授で評論家・エッセイストの岸田秀氏が「わたしにとって、これが人生最後の本になるであろう」と帯に記していたので、私は躊躇せず『唯幻論始末記―わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか―』を購入した。今から約38年前に岸田氏の著書『ものぐさ精神分析』を初めて読んで以来、著者の唱える「唯幻論」という考えや思想にのめり込んで今までに共著を含めると20冊を超える著書を読んできた私にとって、何が何でも読んでおきたい本だったのである。

 

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 「人間とは本能が崩れて現実を見失い、幻想の中に迷い込んだ動物であって、人間に特有な現象や行動はすべてそこに起源がある」という考えや思想のことを、著者は「唯幻論」と称している。この「唯幻論」、現実の中で精神的に安定して日々の生活を送っている多くの方には、すぐに理解したり納得したりできる考えや思想ではないのではないかと思う。しかし、若い頃、複雑な母子関係や担任学級の教育関係の中で葛藤・苦悩していた私にとっては、その泥沼から救ってくれた腑に落ちる考えや思想なのである。

 

 今までの記事にも書いたことがあるが、今から38年前の4月、私は地元国立大学教育学部附属小学校に転任した。また、その前月には結婚式を挙げていた。つまり、当時は附属校への転任と結婚が同時に訪れた時期であり、世間的には「人生、順風満帆」の時期だったが、私の内面は泥沼状態であった。まず、結婚当初、私は母親と同居していたが、いわゆる「嫁姑問題」の中で私がマザコン的な優柔不断の態度を取っていたため、それが原因で母親と言い争いになることが多かった。それまで母子家庭の中で私を育てるために自分を犠牲にして働き続け、深い愛情をもって私を見守ってくれていると思っていた母親が、鬼のような形相で私を非難するのである。結婚後は今まで十分にできなかった親孝行をしたいと思っていた私にとって、「なぜ?」「どうして?」という焦燥感に苛まれる日々だった。また、勤務校においては世間的な評価を早く得ようとして、自分本位の学級経営や教科経営をしようと焦ったために、受け持ちの子どもたちとの関係がぎくしゃくしてきていた。そして、それらの葛藤・苦悩をよりよく解消するような方策を取ることもできず、まさに泥沼の中で身動きができない事態に陥っていた。

 

 そのような私の身の上相談に快く乗ってくれたのは、以前の記事でも触れた当時の学年主任のI先生であった。私が母子関係の葛藤について話していた時、I先生が紹介してくれたのが岸田秀著『ものぐさ精神分析』だったのである。私は何かに取りつかれたように読み耽った。その中で「わたしの原点」というエッセイを読んだ際には、大きな衝撃を受けた。著者の母親は継母であったが、それ故に本当の母親より母親らしく良き母親を演じようとしたらしい。著者はこの母親の愛情の欺瞞性を「わたしの母親像は、わたしの自発的、主体的判断にもとづいて形成されたものではなく、母がわたしを支配し、利用するためにわたしに植えつけたものである」と発見した。私は自分と母親との関係性について省察してみた。著者の生い立ちとは違うが、私も複雑な生い立ちにあり、特に私を育てた母親と私の関係は双方の様々な思いや感情が交錯したものであったので、この著者の発見した内容には共感することが多かったのである。

 

 上述した内容と同様なことは、『唯幻論始末記―わたしはなぜ唯幻論を唱えたのか―』の「第3章 偽りの理想的母親像」にも記述されている。その中で私が深く印象に残った文章は、「自分は子に対して親として自己犠牲的に絶大な愛情を注いだということを根拠にして、子に同じことを求める親は子に愛情を注いでいるかのように見えるかもしれないが、そういう親こそ最も悪質であって、実は恐るべき虐待親ではなかろうか。」である。昨今は、身体的な虐待を繰り返し、ついには子どもを死亡させている親と比べればまだマシなのではないかと思うが、母親の欺瞞的な愛情のために長きにわたって重度の「脅迫神経症」を患っていた著者にとっては許し難いことなのであろう。著者ほどではないが、このようなとらえ方は私のそれまでの母親像を相対化し、愚かにも愛すべき一人の人間として母親を冷静にとらえることにつながったと思う。そして、「母親への依存」を柱とする母子関係から、「母親からの自立」を柱とする母子関係へと、私を変容させるきっかけになったのである。また、このことと類似したとらえ方をすることによって、受け持ちの学級の子どもたちとのぎくしゃくした関係を改善することもでき、私は泥沼状態からやっと脱出することができたのである。

 

 「唯幻論」を適用して解釈できる対象は、自我や家族・社会の集団だけでなく、歴史・国家・性にも至っており、特に歴史や性に対して展開される論は「史的唯幻論」や「性的唯幻論」とも呼ばれている。私は著者の独創的な理論の虜になってしまった。本書の中にもそれらの理論のエッセンスが披歴されており、私は本書を一気に読み通した。その内容は、私が読んできた著書群の内容を繰り返しているところが多いが、今までの総括としてよくまとめられている。そういう意味で、初めて「唯幻論」に触れる方にとって本書はよい入門書になるのではなかろうか。特に母子関係で悩んでいる方にはぜひ一度、目を通してほしい一冊である。