10月のEテレ「100分de名著」は、西田幾多郎著『善の研究』を取り上げている。私は早速テキストを購入して、今まで2回分の放送は録画したものを視聴した後で解説を読んで復習した。残りの2回分も何が何でも視聴して学習しようと思っている。
というのは、高校時代に「倫理社会」を担当していた先生から授業中に紹介されたことをきっかけにして、私は岩波文庫版『善の研究』を購入し読破してやろうとチャレンジしたことがあった。しかし、その文体や内容等があまりにも難解だったので、私には手に負えないと思い挫折してしまった。…書棚の奥にひっそりと隠れていた、その茶褐色に変色した岩波文庫版を、私は50年ぶりに手に取ってみた。青春時代の様々な思いが蘇ってきて、しばらくその場に呆然と立ち尽くしてしまった。
そこで今回は、第2回目に放送された番組とそのテキストの中で、講師の評論家で東京工業大学教授の若松英輔氏が解説した内容から、特に「哲学」や「善」の定義について学んだことをまとめてみたい。
まず、西田にとって「哲学」とは、「小なる自己」を通じて「大なる自己」へと至る道であり、「大なる自己」の世界の叡智を「小なる自己」の世界へと運ぶはたらきなのだ。そして、「大なる自己」とは自我から自由になった「自己」、無私なる自己と考えてよいと、若松氏は解説している。このような西田にとっての「哲学」は、前回の記事で取り上げた加島祥造氏が綴った詩の「求めない」という姿勢と繋がっているのではないかと、私は思った。言い換えれば、「求めない」という姿勢こそが自我から自由になった「自己」、無私なる自己へと変容するきっかけになるのではないか。「西田哲学」と「老子」という東洋思想とは類似性が高いと、私は再認識した。
次に、西田がいう「善」とは、社会生活における「個」と、他者と共にある「個」が共に開花することなのだ。また、別のところでは「善」とは「大なる自己」の開花であり、それに基づいて「行為」することだとも言っている。さらに、「最高の善」とは、個々の人間の中に眠っているものが、世に出現し、「円満なる発達を遂げる」ことであり、人が真の意味で「自分」であること以上の「善」はないと考えるのが「西田哲学」なのである。ここには徹底的な平等があり、非差別的な哲学があると、若松氏は解説している。
前述したように、西田は「善」は概念として語られるものではなく、「行為」によって体現されるべきものだと考えていた。そして、表層意識と深層意識の両面を含んだものが一つになり、「行為」されるとき、「善」への道が開かれると言う。さらに、その「行為」によって体現した「善」の奥には、「利他」という言葉が潜んでいる。ただし、西田は『善の研究』において「利他」という表現は用いていない。「利己主義」の対義語を、「利他主義」ではなく「個人主義」であると書いている。だから、現代的な意味での「個人主義」とはまったく違うのである。このように西田が使う用語は、私たちが一般的に理解している意味内容と違う場合が多い。「西田哲学」は表現が難解だと言われる所以が、ここにもある。しかし、述べられていることは極めて日常的、現実的であり、利他の経済学・政治学・哲学として開花する要素が実に豊かに眠っていると、若松氏は解説している。
最後に、西田は「善」というものは、生きとし生けるものと直接向き合ったときの行為の中においてのみ顕現すると言っている。また、「善」を体現するためには、外に探しにいってはならない。見出さなくてはならないものは、すでに私たちの中にある。獲得するのではなく、すでにあるものを見つけようとするところに「善行」が生まれると言うのである。私はこのような西田の「善」に対する考え方は、プラトンのイデア論のようだと思った。このことは、次回(第3回、10月21日)の放送で話題になる「実在」(世界の真のすがた、真理)の意味内容でも確認することができるかもしれないので、絶対に見逃さないようにしたいと思っている。それと、テキストの該当する箇所にも目を通して予習しておこう!