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“名前”に込められたアイデンティティーや実存性の大切さについて~青山文平著『半席』所収の「六代目中村庄蔵」から考える~

    入院中に読了した2冊目の本は、2016年に『つまをめとらば』で直木賞を受賞した青山文平氏の『半席』という時代小説である。本書は一篇が40ページ前後の六作からなる連作短編集で、成長小説とミステリーが見事に融合した珠玉の武家小説なのである。舞台は、19世紀初頭の江戸時代の文化年間。主人公の片岡直人は、無役の小普請世話役から徒目付に取り立てられ一代限りの“半席”から旗本を目指している青年武士。その片岡が組頭の内藤雅之からの命を請け、公式の仕事である「表の御用」とは別に外の武家から持ち込まれる「頼まれ御用」に取り組み、その事件が起きた理由を解き明かしていくのである。

 

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    私は本書に所収されている第三話「六代目中村庄蔵」が特に印象に残った。その理由は起きた事件をどのように主人公が解決していたかという内容に関連が深いので、まずは事件の概要について記し、その後に明確に示したいと思う。

 

 小禄旗本との一年限りの契約のためか、いい加減な仕事をする者の多い百姓出の一年奉公にあって、異例のお勤めぶりを発揮することで20年以上も雇われ続けてきた忠臣が、強固な信頼関係で結ばれた奉公先の主に危害を加えて死に至らせてしまう。どこにも悪意がなく、被害者も加害者も共に相手を思いやったにもかかわらず起きしまった悲劇。主人公の片岡は組頭の内藤からこの悲劇に至る経緯について聞くのだが、皆目、理由に結びつく糸口さえ見出せない。いろいろと思案する片岡だが、以前「頼まれ御用」を解決する際にヒントをくれた沢田源内という浪人と町中で再会し、今の名前が島崎貞之だと聞いたことをきっかけにして加害者の“名前”に着目する。その後、加害者の茂平と直接対話しながら、20年以上も雇われていた奉公先で使用していた“名前”を聞き出し、その“名前”を新しく雇われた一年奉公の武士も名乗っていたことが、悲劇の引き金になったことを突き止めるのである。

 

 「中村庄蔵」としての20余年は、茂平が生き甲斐を実感し輝いて生きてきた時間であり、人生の全てであったのだ。それなのに、その「中村庄蔵」という“名前”を目の前にいる新しい奉公人が名乗っている。茂平は自分のアイデンティティーが大きく揺らぎ、心の中が激しく動揺した結果、とっさに恩義のある主の背を押してしまい死に至らせてしまったのである。この因果の輪は、人間のアイデンティティーにおいて“名前”が果たす比重の大きさを物語っていると私は思う。

 

 人は、ほとんどの場合、生まれてすぐ養育者に名付けられる。そして、その与えられた“名前”を自分のものとして生きていく。世の中に同姓同名の他人がいたとしても、自分に名付けられた“名前”は、やっぱり自分だけのものなのである。「六代目中村庄蔵」という短編は、人間のアイデンティティーと実存性を社会的関係性の象徴である“名前”という切り口から見事に描き出した傑作である。私は、青山文平氏が物語る時代小説は単なるエンターテイメントでなく、人間の本質を描く純文学にも匹敵する文芸なのだと確信した。「たかが時代小説、されど時代小説」と改めて再認識させてくれる『半席』を、今まで時代小説に疎かった読者の皆さん、一度味わってみてはいかがでしょうか。