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友だち関係で傷付かないために、「並存性」と〈ルール関係〉を重視する方向へ!~菅野仁著『友だち幻想―人と人の〈つながり〉を考える―』から学ぶ~

 入院中のベッドの上で読んだ4冊目の本は、『友だち幻想―人と人の〈つながり〉を考える―』(菅野仁著)であった。ただし、本書を購入したのはもう10年以上も前であり、今回は再読である。なぜもう一度読もうと思ったかというと、現在も子どもたちの中で起きているいじめや不登校等の多くが、「友だち関係」に起因しているからである。特に思春期の子どもたちにとって、「友だち」は自分の存在意義を支える人的環境の大きな柱であり、それ故「生きづらさ」を感じさせる要因の一つになっている。教職を離れて久しくなった私だが、いつまでも教育現象や教育問題に対する関心を失うことはない。そこで、子どもたちにとっての「友だち関係」の現状について改めて分析・考察するとともに、その問題点を克服するための手掛かりを再び本書に求めてみようと考えたのである。

 

 私が今から12・3年前に初めて出合った著者の本は、NHKブックスの『ジンメル・つながりの哲学』だった。「社会学」は社会を対象化して客観的に認識する学問だととらえていた私にとって、その既成概念を脱構築するきっかけをもらった本だった。著者が脱構築しようとする「社会学」の方法は、私という実存から社会とのつながりを考え、とらえ直すという関係論的なアプローチだった。言い換えれば、「社会の現象学」という視線から描いた、「自分と社会をつなげて考える知的見取り図」としての「社会学」。私はそれ以来、著者の本、例えば哲学者の西研氏との共著である『社会学にできること』、単著としては『友だち幻想』『教育幻想―クールティーチャー宣言―』等を夢中になって読み漁り、多くの教育的な示唆を得ることができた。

 

 今回取り上げるのはその中の『友だち幻想』なのだが、本書は2018年4月に放送された日本テレビ系教育番組の「世界一受けたい授業」の中で、お笑い芸人で芥川賞作家のピース又吉直樹が紹介してから再ブレイクし、さらに全国1,000人の先生が選んだ、中高生にいま一番読んでほしい本「キミに贈る本(キミ本)大賞」(読売中高生新聞主催)で第1位になるなど、現在でも注目されている本である。ただ、著者の菅野氏は、2016年9月に56歳という若さで亡くなっている。彼は「“自分の問題”として〈社会〉について考えるための知的技法の追求」をテーマにして考察を続けていた気鋭の社会学者であり、多くの人から今後の学問的な研究成果を期待されていた大学人だったので、本当に惜しまれる。今までに残した研究業績については、これから若手社会学者によりよく引き継がれてほしいと私は強く願っている。

 

 さて、本書の内容の中で特に私の心に印象深く残ったことに触れながら、それらに対する私なりの所感を綴っていきたい。

 

 まず、「人と人とのつながりにおける基本的な発想として、共同体的な凝集された親しさという関係から離れて、もう少し人と人との距離を丁寧に見つめ直したり、気の合わない人とでも一緒にいる作法というものをきちんと考えたほうがよい。」ということである。私が幼い頃から成人式を迎える頃までの日本は高度経済成長期であり、まだまだ農村共同体的、つまりムラ社会的なつながりや関係の中で「同質的共同性」が求められていたと思う。ところが、1975年頃からの日本はいわゆる「近代化」を概ね達成して、社会全般に個人主義的な生活様式や考え方が浸透してきた。その過程で、今までのムラ社会的な「同質的共同性」が絶対的なものではなくなってきたと思う。しかし、日本社会に根強く残っている「世間」のために、それまでのムラ社会的な「同質的共同性」が様々な場面で残った。今の子どもたちもその影響を受けているためか、なかなかその状態から脱することができず、生き詰まりや閉塞感を感じているのではないだろうか。だからこそ、著者の一つ目の主張は、現状の人と人とのつながりを見直す上で「同質性」よりも、異なるものが同時に存在するという意味の「並存性」の方を重視すべきだと言っており、私は大いに妥当性のある考えだと思う。

 

 次に、大人になるとは、「〈ルール関係〉と〈フィーリング共有関係〉を区別して考え、使い分けができるようになる。」ということである。ここでいう〈ルール関係〉とは、他者と共存していくときに、お互いに最低守らなければならないルールを基本に成立する関係のこと。また、〈フィーリング共有関係〉とは、とにかくフィーリングを一緒にして、同じようなノリで同じように頑張ろうとする関係のこと。私が子どもの頃は「みんな仲良く」という〈フィーリング共有関係〉がクラス運営の核になっていたと思う。しかし、今の子どもたちはそれだけでなく、〈ルール関係〉をきちんと打ち立てなければならない情況になっているのではないだろうか。いじめは、人と人との関係の基本に照らしてみて明らかにルール違反なのだから、学校においても〈ルール関係〉の土台が築けていないといけないのである。ところが、「ルールが大切だ」というと、ともすると「管理の強化」という方向に誤解されやすい。しかし、そうではない。本来ルールというのは、できるだけ多くの人にできるだけ自由を保障するために必要なのである。また、ルールはできるだけ必要最小限にした方が〈ルール関係〉を築きやすい。私はこれらのことを家庭や学校でもっと子どもたちに教えていくことが大切だと思う。

 

 最後に、「先生が本当にやらなくてはいけないのは、生徒たちに自分の熱い思いや教育方針を注入することよりも、自分の教室が一つの社会として最低限のルール性を保持できているようにする。」ということである。なぜなら、学校において子どもたちの生命・身体の安全や個々の人権を守り、子どもたちが安心して学ぶことができる環境を作ることが、教師の最低限の役割だからである。そして、そのためには最低限のルール性の維持・管理が必要なのである。私は小学校に勤務している時にはあまり意識しなかったが、管理職になって初めて中学校で勤務した時、そこでの辛く苦しい経験の中で痛感したのはまさに上述したことであった。今、小学校でも学級崩壊現象が起きるのは特別なことではなくなっており、いじめ問題もどの学校でも必ず起きるといっても過言ではない。私はこういう時代だからこそ、「熱血先生」ではなく「クールティーチャー」としての教師の在り方を模索していくことが求められていると思う。その具体的な内容は、『教育幻想―クールティーチャー宣言―』に記されているので、教育関係者や教育に関心のある方は本書と共に読んでほしいものである