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「哲学対話」って、どのようなものなの?~梶谷真司著『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』を参考にして~

 退院する時に読み掛けていて、最近やっと読了した本がある。それは、『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(梶谷真司著)という本である。本題よりも副題の方に興味をそそられて購入したまま積読状態になっていたので、今回の入院を機会に読んでみようと思い立ち、面会のために病院へ来ることになっていた妻にメールを送り、着替えと共に持ってきてもらったのである。

 

 それにしても「0歳から」とは、ちょっと誇張し過ぎでは…と思いつつ「はじめに」を読み進めていくと、著者の意図が分かってきた。著者によると、子どもは生まれた直後から、生命の不思議、命のか弱さと力強さを感じさせて、社会性を超えた存在として、私たちの常識の限界を知らしめてくれるから、大人を哲学的にしてくれると言う。言い換えれば、私たちは幼子からたえず自分という人間について、命の大切さと重苦しさについて、この世の規範と理不尽さについて問われ、試され、考えざるをえなくなり、哲学的な次元に引き入れてくれるのである。その意味で、哲学は0歳から参加可能なのだと言っているのである。また、「知識」ではない「体験」としての哲学は「考えること」そのものであり、それは自分自身や他の人との対話、「共に問い、考え、語り、聞くこと」なのだと言う。したがって、このような「共に考える」営みとしての「哲学対話」は、人が生まれた直後から始まり、まさに人と人とが共に生きていくことそのものなのだと言っている。

 

 ところが、この「考えること」は、一見当たり前のようでいて、実はそうではない。私たちは家庭でも、学校でも、会社でも、人間にとって極めて大切で、誰にでも必要な「考える」ということを学ばないのである。確かに私たちは子どもの頃から様々な生活場面で「よく考えなさい!」と言われるが、何をどうやって考えればいいのかという方法を教えてもらった覚えはない。特に学校で教わるのは、個々の場面で必要なルールを身に付け、その中で決められたことに適切な答えを出すことがほとんどである。それは、少なくともここで言う「問い、考え、語り、聞く」という哲学的な意味での「考えること」とは違う。むしろ「考えること」とは反対の「考えないようにすること」と言っても過言ではない。このような学校という環境で失っている大切なものは、実は「自由」なのである。人間が「自由」になるためには、「考えること」としての哲学が必要になる。その哲学を可能にするのが、共に考える「対話」としての哲学、つまり「哲学対話」なのであり、これは一人で勝手に自由になるのではなく、他の人と一緒に自由になることができると著者は言っている。…私は、「哲学対話」とは実際はどのように行われるのだろうかと、興味・関心が徐々に膨らみ始めていた。

 

 そこで、以下では「哲学対話」とはどのようなものなのか、その特徴や対話のルールの意味について私なりに本書から学んだことをまとめるともに、それらに対する簡潔な所感を綴ってみたいと思う。

 

 哲学を「対話」という形でおこなう試みは、学校で子どもたちの思考力を育てるための方法として始まったらしい。だから、「哲学対話」は一般的には「子どものための哲学(Philosophy for children:P4Cと略される)」のスタイルとして知られている。70年代のアメリカで、子どもが学べる哲学の教材と方法が考案され、その核心は考えることを“身をもって”学ぶこと、つまり「対話」という形が相応しいと構想したのが始まりだと言われている。現在こうした対話型の哲学教育は、欧米をはじめ世界各地に広がっており、目的は様々だが、基本的にはバランスのとれた思考力が育つ土壌を作ることができる。しかし、このよう対話を軸とする「子どものための哲学」は子どものためだけでなく、大人のためでもあり、もっと言えば「みんなのための哲学(Philosophy for Everyone)」なのである。

 

 著者によると、「哲学対話」で大事なのは対話する人の多様性。いろいろな人がいることで、一人では思いつかない側面が見えてきたり、自分が知らず知らずのうちに前提にしていることが明らかになったりして、今一度根本から考え直さないといけなくなる。これこそまさしく哲学的な「体験」になるらしい。また、「哲学対話」の形態としては輪になって行うのがよいらしい。その理由は、机の前に座る形態よりも、その場にいる人に対してオープンになって話に参加しやすくなり、人の話も集中して聞けるようになるからだと言う。そして、何よりも参加者同士が対等であることを明確な形で示してくれるからである。さらに、「哲学対話」は対話が終わった後がむしろ重要なのだと言う。それは、本当の対話はそこから始まり、その影響は参加者のその後の生活や人生全体に及ぶことがあるからである。私は、「哲学対話」を体験してみたくなった。

 

 では、上述のような趣旨が生かされるためには、どのようなルールが必要なのだろうか。本書に示されている著者がいつも掲げているルールを、次に箇条書きで挙げておこう。

① 何を言ってもいい。

② 人の言うことに対して否定的な態度を取らない。

③ 発言せず、ただ聞いているだけでもいい。

④ お互いに問い掛けるようにする。

⑤ 知識ではなく、自分の経験に即して話す。

⑥ 話がまとまらなくていい。

⑦ 意見が変わってもいい。

⑧ 分からなくなってもいい。

 

    私はまだ「哲学対話」を経験したことがないのでよく分からないが、これらが全体として対話を哲学的な探究に変えるらしい。そして、最も大切なことは「自由に考えること」であるということ。私たちは自由に問い、語ることによって、初めて自由に考えられるようになるのである。これら8つのルールは、全てそのためにあるのであろう。私は、だんだんと自分が「哲学対話」自体を主催してみたくなってきた。

 

 私は元教員だが、現職の時にいつも疑問に思い、それを何とか解決しようと思っていたことがあった。それは、「今までの授業は、答えを知っている教師が知らない子どもに対して“発問”と言う質問をして、それに子どもが答えていくという形で進んでいく。でも、これは不自然だなあ。本来の授業というのは、日常的に生起する様々な事象に対して疑問をもつ子どもが“問い”を発し、教師や共同学習者たる友達と“対話”しながら解決していくという形の方が自然なのではないか。」ということである。つまり、授業を「発問-反応」型ではなく、「対話」型にする方が、子どもたちの思考力や問題解決力をよりよく育てることができるのではないかという根元的な教育問題である。私はそのような問題意識に基づいて、授業改善を図るあらゆる努力をし、「対話」型の授業を創造してきたのである。その経験を振り返った時、本書で語られている「哲学対話」は、まさに私が授業改善してきた内容と重なる部分が多いのである。

 

 もう一つ、疑問に思い解決したいと思っていたことがあった。それは、「本県の多くの教師は、自分の考えをはっきりと主張することがないなあ。なぜ様々な教育課題を自分の頭で考え、上司や同僚と対話しながら、よりよい解決を図ろうとしないのだろうか。もっと自分で問い、考え、語り、聞くようにすればいいではないか。」ということである。教師自身が主体的・協働的に職場環境や授業構造を改善して、キャリアアップしていくようになってほしいと私は願っていた。そのためには、上司や同僚との関係性がオープンなものになる必要があり、その方法について模索し続けていたのである。その経験を振り返った時、やはり「哲学対話」は、私が模索し続けていた取組とほとんど重っているのである。

 

 そこで私は、まずは本県の教職員を対象とした「哲学対話」の場づくりに取り組んでみようと思い立った。本来は対話する人の多様性が保障される方がよいので、同じ職種の者ばかりの「哲学対話」はあまりよくないのかもしれない。しかし、上述の8つのルールを守って対話をすれば、哲学的な探究につながっていくと思われる。私は、それを大切にした場づくりが本県の教職員の資質向上には求められていると思う。とにかく何らかの「哲学対話」の場を設定し、そこでの個々人の率直な声を尊重するように配慮する。そのような取組からまずはスタートしてみよう!