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老いてからの「幸福」について考える~吉本隆明著『幸福論』を参考にして~

 「戦後思想界の巨人」と言われる吉本隆明氏の著書『共同幻想論』や『心的現象論序説』の文庫版が、私の自宅の書棚に並んでいる。30代に購入して何度かチャレンジしたが、その度に挫折してしまった苦い経験があり、その後書棚に入れたまま30年近くの時が過ぎてしまった。ただし、今まで私はその時々の課題意識に即して購入した『世界認識の方法』『空虚としての主題』『マス・イメージ論』『対幻想 n個の性をめぐって』『言葉からの触手』『わが「転向」』『僕ならこう考える こころを癒す5つのヒント』『私の「戦争論」』『家族のゆくえ』『真贋』『超「20世紀論」上下』『遊びと精神医学』(町沢静夫との共著)『教育・学校・思想』(山本哲士との共著)等を読んできた。しかし、吉本隆明のよき読者とは決して言えない。というのは、彼の思想や考えに素直に首肯することができないことも少なからずあったからである。

 

 そんな私が今回の記事で、彼の『幸福論』を取り上げようとしている。その理由は、私が自分の天職だと思って長年勤めてきた教職を去り、老年期を迎えて身体的な衰えを少しずつ実感するようになって、改めて老いてからの「幸福」について考えることが多くなったからである。また、本書は後期高齢者といわれる年齢になった吉本氏が自分の生活実感を基に平易な言葉で綴った老年期の「幸福論」であり、抽象度の高い言語を弄する難解な思想家というイメージを抱いていた私にとって、とても親近感を感じる本であったからである。

 

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 そこで今回は、本書の中で著者が描いている老年期の在り方を参考にしながら、老いてからの「幸福」について私なりの考えを綴ってみたいと思う。

 

 著者は、年とってからは老い先短いのだから、「人間の幸・不幸」とか「人生の目的」を若いときのように長い周期ではなく、ごくごく短い周期で考えるとよいと言っている。そのかわり、抽象的・論理的に「死とは何か」とか「老人とは何か」ということを考える場合は、もうそれ以上考えることはないというまで、とことん考えるべきだと言っている。というのは、そこまで徹底しておくと後は実感として幸せだったり不幸だったりというような、その都度のことを考えることだけしか残らないからである。

 

 私はこのような著者の考え方は、老人によく見られる「慢性的なうつ病」に陥らない、よい心掛けだと思う。私はときに孫と一緒に遊んだり食事を共にしたりすることがあるが、そのような時に単純に「幸せだなあ。」と実感する。また、ときには持病の腰痛が出て身体を動かすのが億劫な日があり、「今日は気分がよくないなあ。」と愚痴ることもある。確かに、このような「幸・不幸」のとらえ方は一見すると刹那的なものではあるが、著者が言うように時間を細かく刻んで、その都度いい気分だったら「幸福」だと思い、悪い気分だったら「不幸」だと思うことは、老いてからの「幸福」についての考え方として納得するところはある。しかし、そうは言うものの私はまだ「人生の目的」について長い周期でも考えたい気持ちがどこかにある。これは、私が「自分はまだ若い!」と錯覚しているせいだろうか。

 

 また、著者は「死を迎える心構え」について触れた箇所で、自分の死は実は自分のものではないのだから、「死を迎える心構えみたいなものはあまりない。」と語っている。そして、親鸞の言葉を借りて「生死は不定である」、つまり、「誰がいつ、どこで、どういう病気で、どういう死に方をするかは一切分からないし、はたから分かるはずがないし、ご本人も分かるはずはない。だから、そういうことについて言うのは無駄である。」とも言っている。だから、「死を迎える心構えは、ただ不定だということだけじゃないか。」と、読者に問い掛けている。

 

 私はときに「自分の死」について考えることがあり、自分の死後の世界を想像し、言い知れぬ恐怖や不安を抱くことがある。そのようなときに、「でも、自分が死んだらもう何も分からないのだから、自分の死後について考えたり想像したりすることは無駄だなあ。」と死の想念から逃れようとする癖がある。そんな私は、著者の上述のような考え方を知ったとき、自分が単に言い訳のような理屈を重ねていたのでなかったと安心し、何だか気分がとても軽くなったように思った。それと共に、「自然と死ぬときがきたら死ねば、それでいいんだ!」と説いた親鸞のことについてもう少し詳しく調べてみたいなあと、ちょっとワクワクした気分になってきた。ということで、当記事を綴ることで少しいい気分になってきたので、私にとって今日は「幸福」な一日になったと言ってもいいのかな…。