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困難な境遇の中で生き抜いている人たち!人生いろいろ…~上原隆著『にじんだ星をかぞえて』の中から~

 いつの世も同様だが、特に現代社会においては困難な境遇の中で生き抜いている人たちがたくさん存在する。その当たり前のことを改めて実感させてくれるのが、『にじんだ星をかぞえて』(上原隆著)であった。著者の上原氏は、1949年生まれのエッセイスト、コラムニスト。立命館大学文学部哲学科卒業後、記録映画制作会社に勤務するかたわら、雑誌「思想の科学」において編集・企画に携わった後、執筆活動に専念していたが、2018年発刊の『こころ傷んでたえがたき日に』をもって引退した。著者が市井の人びとの生き方を取材し、上質な読みものに仕立てた作品群は「ノンフィクション・コラム」と呼ばれ、その読者に迫るストーリーは、世代を超えた幅広い人々の心をつかんだ。かくいう私も、25年ほど前に、『友がみな我よりえらく見える日は』を読んで心をつかまれて以来のファンである。

 

 本書は、2007年4月から2年間「朝日新聞」夕刊に「にじんだ星をかぞえて」という題で連載された「ノンフィクション・コラム」を中心に編集し、2009年6月に同名で朝日文庫として出版されたものである。内容は、今までのように普通の人々のささやかな日常に光を当てたもので、読み終えた後、生きることへの希望や勇気が湧いてくる31編が所収されている。私は、その中の「落葉掃き」「生きる意味」の2編が特に心に残っている。

 

 そこで今回は、その2編の内容の概要を紹介しつつ、私の心に残った理由と所感をできるだけ簡潔に綴ってみたい。

 

 まずは、「落葉掃き」から。アルツハイマー認知症を患っている一人暮らしの77歳の母を引き取って介護することになった45歳の高畑冨美子は、最初は母への接し方が分からず困惑するが、次第にその要領が分かってくる。冨美子は母が「落ち葉掃き」が好きなことに気付いたので、ポリ袋に入れて取っておいた落葉を春でも夏でも家の前にまいておくと、母は一生懸命掃除する。それを午前と午後一回ずつの日課にした。日に当たるし、適度な運動になるので、今までなかなか眠れなかった母はぐっすりと眠るようになった。ある日、近所の人が母と一緒にたき火をして、焼き芋をつくってくれた。母は芋を手にすると、「オイモ若きも大好きなお芋」とダジャレを言った。冨美子は若い頃の陽気な母を思い出す。そんな介護は7年間続き、母は病院で亡くなった。…今、65歳になった冨美子に著者が「介護から得たものってなんですか。」と訊く。彼女は「自分に対する満足かな」「思い出すのは喜んでいる母の顔ばかりなの、良かったと思って。つらかったことって忘れるのよ。」と答えた。

 

 認知症を患った老親を介護している人は、私が想像する以上に大変な苦労や困難があると思う。冨美子も私なら「もういい加減にしてほしい!」と思うような介護の実態があったに違いない。しかし、彼女は老母の認知症の様々な症状をあるがまま受け入れ、その言動から母の性格や嗜好等をうまく活用した対応策を講じる。そのおかげで老母は二次的な障害を防ぐことができ、居心地のよい生活を送るようになっていく。もちろんそんなにスムーズにできた訳はないだろう。しかし、そのような日々の取り組み方が、現実をよりよい方向へ進ませたのだと思う。私にはもう介護をしなくてはいけない老親はいないが、もし妻が認知症になったり介護が必要な状態になったりしたら、この冨美子のような対応ができるだろうかと自問自答した。このように自分に置き換えて考えるきっかけを与えてくれたので、この1編は私の心に刻印されたのである。それにしても、冨美子のような対応は私のような自己チューの人間にはなかなか難しいと思うが、せめて心構えだけでも見習いたい。

 

 次に、「生きる意味」という1編について。2007年1月20日、朝日・毎日・読売の広告欄に磯部琇三という天文学者の遺書が載った。その中に「私が亡くなればこの宇宙も無くなるのでは…」という一文があり、著者はこれに心惹かれ、この一文を書いた磯部の意図を知りたくて広告を出した磯部の妻に会いに行く。それを尋ねられた妻は首をかしげ、人間嫌いだった磯部が「生きている間がすべてだ」と言っていたことを話し、磯部が著した『宇宙を意図したのは誰か』という一冊の本を手渡した。その中で、人類はいずれ滅びるがそれが分かっていて、生きることにどんな意味があるかと問い、「生きる意味を知るために生きる」という結論を示していた。そして、そうした問いへの答えが得られる前に人類が滅びてしまわないようにと、54歳の時に、地球に衝突する可能性がある小惑星を監視するNPO法人日本スペースガード協会」を設立した。新聞に遺書を載せることも、「日本スペースガード協会」を設立することも、磯部にとっては、人類を滅びると分かっていながら、それでも生きるとはどういう意味があるのかを問いつづけるための行為だったのに違いないと、著者は結んでいる。

 

 私は幼い頃に「自分が死ぬ!」ということを意識した時、言い知れぬ不安と恐怖を抱いたことを憶えている。その後、思春期を迎える頃になると、「どうせ死ぬのに、なぜ人間は生きるのか、生きる意味は何なの?」という根源的な問いをもつようになった。そして、高校・大学と進学する中で、哲学や倫理学という学問に興味・関心をもつようになった。そんな私は、磯部氏のような行動や生き方に強く共感を覚えた。特に「私が亡くなればこの宇宙も無くなるのでは…」という考え方は、私が強く自覚した死の不安や恐怖とも大きく関連していると思う。私がこの1編を印象深く心に残した理由は、このようなところにあると思う。ただ、自分の遺書を新聞の広告欄に載せたるように妻に依頼したり、その遺書の中で「葬式はしない、遺骨は残さない、香典は断る。もし自分に好意を持ってくれるならば、妻と娘に手紙を書いて欲しい。」と綴ったりしている行動には、さすがの私も驚くとともに、磯部氏にはそうせざるを得ない人生の歩みがあったのだろうと推察するばかりである。人生いろいろ…