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思考力を伸ばすために、道徳科の授業構造を転換する必要があるのではないか!

 1月31日(金)と2月1日(土)の両日、私は地元国立大学教育学部附属小学校の教育研究大会へ参加した。現職の時、15年間勤務し「体育科」の実践研究に取り組んだので、主に「体育科」の公開授業を参観したのだが、公開する時間帯が複数設定されていたので両日とも「道徳科」の授業も参観することもできた。今年の4月から小学校で全面実施される新学習指導要領において特別な教科となった「道徳科」の授業は、どのように実践しているのか気になっていたので、よい研修の機会になった。一体、今までの「道徳の時間」という領域における指導の在り方と、これからの「道徳科」という教科におけるそれとは、どこがどう違うのであろうか。

 

 そこで今回は、参観した二つの「道徳科」の公開授業内容の概要をまとめ、その後で二つの授業に対する私なりの参観所感を総括的にまとめてみたい。

 

 まず、大会1日目に参観した第3学年星組の道徳科「分かるんだけど…誰に対しても同じように(公平・公正)」の授業から。大型テレビの画面で「なおとが隣の座席に座る友達によって喜んだり嫌な顔をしたりする。また、友達によって遊びに入れたり入れなかったりする場面」(教材)を視聴した子どもたちは、個々の登場人物の気持ちについて考え、発表した。その中で、なおとに喜んでもらったり、入れてもらったりした子は嬉しいけど、嫌な顔をされたり入れてもらえなかった子は悲しい思いをしていることに気付いた。そこで、I先生は子どもたちに「どうして、人によって態度を変えたらだめなんだろう。」という主要発問を投げ掛け、各自に自分の考えを付箋紙に書く時間を与えた。その後、各グループでホワイトボード(当校ではここで活用した付箋紙やホワイトボードのことを「ファシリテーション・ツール」と総称して呼んでいる。)を活用して、自分と友達と共通しているところや違うところを比較する話合いを行った。そして、各グループで話し合った内容を全体で発表する場を設定し、その中で「人によって態度を変えたら、相手が悲しんだり嫌な思いをしたりする。また、それらは差別につながる。さらに、そのようなことをしていたら、いずれ自分は孤立する。」というような意見が出た。そこで、I先生は「でも、自分が心の中で嫌だと思っても、嬉しそうにすることは、自分に嘘をつくことにならないかな。」という切り返し発問を投げ掛けた。すると、子どもたちは「自分の気持ちに嘘をつくことになるかもしれないけど、相手を悲しませないための嘘はいいのではないか。」とか「人によって態度を変えることはいじめにつながるから、相手の立場を考えることが大切だ。」とかの意見を出した。最後に、I先生はそれらを板書にまとめ、振り返りのワークシートを子どもたちに配って書かせようとしたところで終わりのチャイムが鳴った。その後、I先生は数人の子に書いた内容を発表させて授業のまとめとした。

 

 次に、2日目に参観した第4学年月組の道徳科「信頼できる友達だから(友情、信頼)」の授業について。M先生は「大きな絵はがき」という教材の内容を振り返らせた後、「転校していった仲良しの正子から絵はがきをもらって、広子はどんな気持ちだったのか。」と子どもたちに発問した。子どもたちは「ハイ、ハイ!」と元気よく挙手をして、次々と広子の喜んでいる気持ちを発表した。その後、M先生は、絵はがきが大きすぎて郵便料金が不足していることを正子に伝えるべきだと母や兄に言われた広子の気持ちを考えさせるために、「母と兄の考えを聞き、部屋に戻った広子はどんなことを考えたのだろう。」という主要発問を子どもたちに投げ掛け、自分の考えを付箋紙に書くように指示した。子どもたちは自分の考えを色付箋紙に1つずつ書き込んでいき、ある程度の時間が経ってからグループでの話合い活動へと進んだ。そこでは、前述した授業と同様、各グループでホワイトボードを活用して自他の考えを比較しながら共通点と差異点を確認していった。

 

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    その後、全体の場で各グループ内の話合いの内容を発表し合いながら、料金不足のことを正子に「伝える」「伝えない」「どちらにするか迷う」という考えに集約していった。その中で、M先生は「もし、間違えた相手が友達じゃなかったら伝えるかな。」という切り返し発問を投げ掛けた。すると、子どもたちからは「友達じゃないのなら、自分が料金不足のお金を払うのはいやだから伝える。」とか「いや、面倒だから伝えない。」などの意見が出た。中には、「言い方を工夫して相手が嫌な思いをもたないように伝える。」というような考えも発表する子がいた。そして、M先生から問われた「信頼できる友達ってどんな友達なんだろう。」に対して、子どもたちから「間違いをきちんと言い合える友達」とか「相手の気持ちを考え合える友達」とかの言葉が出てきたところで、終わりのチャイムが鳴った。

 

 私はこれら二つの「道徳科」の授業を参観して、次のような感想や意見をもった。

○ 教師は子どもに対して受容的な態度で接しており、子どもたちも伸び伸びと素直な考えや意見を発表しているが、どうしても子どもの考えや意見を教師はねらいに即応して解釈しているので、本来的な「対話」としては成立していない面がある。

○ 子どもたちは教師の意図に適応しようと思考しているので、本当の意味での自由な思考力を伸ばしていない面がある。

○ したがって、授業構造としては今までの「道徳の時間」の授業と同様に、「発問-反応」による教師指導型になっているので、自由な思考力を伸ばすためには「対話」によって教師と子どもの相互主体型の授業にしていくことが求められるのではないか。

○ 上述した「対話」による教師と子どもの相互主体型の授業は、「哲学対話」や「哲学カフェ」の原点になった「子ども哲学」の具体的な実践から学ぶことができるのではないか。

 

 やや抽象的な所感になってしまったが、私なりの教育観や授業観に基づいた率直なものである。だだし、このような考え方が「道徳科」の授業構造だと一般化することはできない。あくまでも私見なので、多くの方の忌憚のないご批正を賜りたいと願っている。当記事の下にある「コメントを書く」を活用して、ぜひご意見を聞かせてほしい。