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規範はフィクションである?平等というフィクション?~池田清彦著『正しく生きることとはどういうことか』の中から~

 前回の記事で、永井均著『〈子ども〉のための哲学』を紹介している時に、ふと以前に読みかけていた本の始めの部分で同書の中のソクラテスに関する記述内容を引用していたことをおぼろげに思い出し、自宅の書棚の中をしばらく探してみた。すると、あった、あった!『正しく生きることとはどういうことか』(池田清彦著)。まるで真面目な哲学者が著した「道徳」か「倫理」に関する本のようだが、実際はそれとはかなり主旨が異なる本である。著者の言葉によると、「私は道徳なんてハナから信じていないから、永井氏の言うことはよくわかる。」という具合である。

 

    著者は、そもそも日本における構造主義生物学や構造主義科学論を唱える生物学者で、自他共に認める昆虫採集マニアでもある。私の書棚にも本書以外に『分類という思想』『昆虫のパンセ』『科学は錯覚である』等があり、その独自な理論を背景にした自由奔放な語り口は著者の得意とするところである。また、最近はテレビの情報バラエティー番組のコメンテーターとして出演して、その発言内容は過激で面白いと視聴者から評価されているようである。さらに、Twitterでも現政権の政策等に対する批判的なつぶやきが多く、その視点は鋭い。…私は、暇にまかせて本書の面白そうな箇所だけを拾い読みしてみた。世間的に常識と思われていることに対して異を唱えるような論調であるからか、私には興味深いものが多かった。

 

 そこで今回は、本書の中から私が特に興味深く読んだ内容を紹介しつつ、簡単な所感を加えてみたいと思う。

 

 本書は、第1部が「善く生きるとはどういうことか」、第2部が「正しく生きるとはどういうことか」というように大きく2部構成になっている。この「善く生きる」と「正しく生きる」とは、どのような意味で使っているかを私なりに要約して表すと、次のようになる。

 

○ 「善く生きる」こと…かけがえのないあなたを追求すること。あなたの欲望を最も上手に開放すること。これを二つの相に分けると、①規範をよく守り、なにげない日常生活や人生の目標の中に楽しみを見出して生きること。②規範からの逸脱、すなわちエクスタシーを感じることに楽しみを見出すこと。フィクションとしての規範を自律的に選択すること。

○ 「正しく生きる」こと…かけがえのあるあなたを承認すること。他人が選んだ自分とは異なる規範を承認し、自他の個人的な規範を上手に調整すること。

 

 「善く生きる」ことに比べて「正しく生きる」ことの意味内容が乏しい感じがすると思う。しかし、書名は『正しく生きることとはどういうことか』である。その意図は、私なりに解釈すれば、人はまず「善く生きる」ことが基本であり、その前提で自他を承認しながら調整することが「正しく生きる」ことになるのだから、後者の方が実践的には強調されるからであろう。そのことを踏まえて、第1部と第2部に所収されている論考から、1つずつ取り上げてみよう。

 

 まず、第1部に所収されている「規範はフィクションである」について。著者は、「人間にとって規範はフィクション(仮構)である。」と言っている。さらに、「規範の一つである道徳なんて自然に決まっているわけでなく、人間が勝手に決めたものであり、多くの人は自分の従っている規範がフィクションだなんて信じたくないので、規範はフィクションではないというフィクションを信じているだけだ。」と面白いことを言っている。ただし、フィクションを馬鹿にしているのではなく、規範はフィクションであることをわきまえて、なおかつ自分が納得した規範に従って生きることが「善く生きる」ことだと補足説明をしている。要するに、多く人々が信じている規範を相対化した上で、自分の欲望を満たす規範を選んで生きることが人間として「善く生きる」ことだと表明しているのである。ただし、対人関係における行動規範は、自分の都合だけであらかじめ決めるわけにはいかないので、他者とのかかわり合いの中で試行錯誤を重ねながら、最も心安らぐ関係を作ることが求められる。このようなことも著者によれば「善く生きる」ことになるのである。

 

 私は以前の記事で、岸田秀氏が唱えた「人間は本能が崩れたために現実に適応することが困難になり、それゆえ言語や制度等(法・道徳を含む)という幻想をつくって現実に適応している動物である。」という「唯幻論」の考え方について肯定的に綴ったことがあるが、著者の考え方はこれと同じような発想だと思う。だから、私は著者の「規範はフィクションである」という考え方と、それに基づく「善く生きる」ことの意味内容について基本的には同意する。著者は言う。「規範はフィクションであるということを承知して、なおかつなるべく規範を守ろうと努力し、苦しくなったら規範を変更することをいとわず、いざという時には、規範を破ってエクスタシーを感じよう。」…いいねえ。

 

 次に、第2部に所収されている「平等というフィクション」について。現実的に考えて全ての人間は不平等であることは誰しもが知っている事実であるが、近代社会を構築する過程において「平等というフィクション」が必要だったと著者は言う。なぜなら、それがないと社会制度が成立せず、社会が無秩序になってしまうからである。原則的に子どもも高齢者も障がい者も普通の大人と平等であるというフィクションは、今日では世界中で広く受け入れられており、これに異議を唱えるべき根拠は薄い。もし、この「平等というフィクション」を捨てれば、貧富の差は増大し、相対的に不幸な人々は増加するであろう。したがって、ほとんどの人は全ての人間は原則平等というフィクションを承認するであろう。また、著者は「正義とは、個人の自由を最大限確保した上で、人間はすべて平等というフィクションに近づくには、どのような制度を構築すべきかという、すぐれてプラグマテックな問題なのである。」とも述べている。このフィクションをフィクションであると認識して、なおかつこのフィクションに一歩でも近づこうと努力することが正義であるという考え方こそ、「正しく生きる」ことの意味内容から敷衍した「正義論」なのである。…なるほど。

 

 私は、最初に著者の「善く生きる」ことの意味内容を知った時、「共生」や「共存」という理念を考えないのかなと訝ったが、「正しく生きる」ことの意味内容が徐々に分かってくると、それは杞憂であった。著者が単なるリバタリアニズムを支持する人ではないと分かって、私は急に親近感をもつようになった。…本当はお友達になれる人かもネ。