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「巣立ち」を妨げる要因とは…~浜田寿美男著『子どもが巣立つということ―この時代の難しさのなかで―』から学ぶ~

 新型コロナウィルスの感染拡大を防ぐために、安倍首相は2月下旬に「全国の小学校・中学校・高等学校・特別支援学校への一斉休校措置」を要請した。それに伴って、各地方自治体は卒業式を中止したり規模縮小して実施したりする対応を行っている。幸いわが市の公立小・中学校は簡略化した卒業式を実施することになったが、中止を決定した地方自治体の各校の卒業生たちは、「卒業式」という毎年恒例の行事を経験できないままに、巣立つことを余儀なくされてしまう。

 

 私はこのような事態になったことをテレビの報道ニュースなどを通じて見聞きし、卒業生たちの心情を慮って、物寂しい気分になっている。「巣立ち」とは、今まで自分を支えてくれていた共同体から離れ、これから新たな関係を築いていく共同体へ入っていこうとすることである。その節目に当たり「卒業式」という通過儀礼を経験することは、子どもたちにとって今まで支えてくれた方々への感謝の気持ちをもち今後の生活に向けて希望を抱く「巣立ち」という意識を高めるために必要なことであると私は思う。しかし、多くの卒業生たちは「巣立ち」という意識をもちにくい情況に置かれ、何とも口惜しい気持ちを抱いているであろう。いろいろと思い巡らせている内に、もしかして「卒業式」を中止すること以外でも「巣立ち」を妨げる要因があるのではないかと考えてみた。

 

 そこで今回は、以前の記事で紹介した私の信頼する発達心理学者であり法心理学者でもある浜田寿美男氏の著書『子どもが巣立つということ―この時代の難しさのなかで―』を再読して、「巣立ち」を妨げる要因について改めて学んだことを綴ってみたいと思う。

 

 本書は、雑誌『おそい・はやい・ひくい・たかい』20号~60号(2003年8月刊~2011年3月刊)に連載された「子どもが『巣立つ』ということ」を基に編集・刊行されたものである。「おわりに」を記した日付が2012年1月27日とあり、当時、著者は今の私の年齢と同じ65歳であった。したがって、本書の後半部分の文章はおそらく還暦を過ぎた頃書かれたものだと推測される。だからか、私には共感する箇所が多かった。

 

 第5章の中の「なぜ少年たちは飛び立てなかったのか」という文章の中で、著者は次のようなことを言っている。「巣立ち」とは自分のなじんできた「巣」を離れて、まったくちがう位置から新たな世界を生き直すことであり、巣立つ上で無視できないのは「時」である。鳥のヒナが育って巣を立つ場合、成熟したからというよりも「時が来たから」という理由で未熟なままで飛び出してしまい、飛び出すことによって、飛べるようになるのが実際である。時が来て、飛び出す。それは人間の場合も同じだ。しかし、飛び出したものの、飛べないままに地に落ちる鳥がいるように、人間の世界にもまた「時」に押し出されて、飛ぼうとはしたもののうまく飛べずに落ちてしまう子どもたちが少なからずいる。羽をうまく広げることができなかった子どもの多くは、「希望」がなかったのではないか…。

 

 続いて、第6章の文章全体を通して、次のようなことを言っている。「希望」とは、人がその内側から外の世界に向けて生きようとする、そこに生まれる心のかたちである。しかし、今の養育や教育において親や教師の「期待」はあふれていても、子どもの「希望」がない。今の子どもたちを取り囲んでいる「学力」も「お金」も、結局は個人を単位にした交換価値でしかなく、その多寡によって子どもたちの将来が決定されてしまうとすれば、その個人化を超えた「希望」を描くことが、それだけ難しくなっているのは当然である。だから、「希望」の問題を考えようとするかぎり、「共同のかたち」を考えないわけにはいかない。その「共同のかたち」は、相手を喜ばせて喜ぶという人間的な感情が基盤となって作られる。しかし、今の子どもたちは力を身につけることばかり求められて、自分なりの手持ちの力を使って働き、周囲の人を喜ばせるような機会がない。守られる一方ではなく、自分の力を使って共同の生活を守る側にも立つ。そのことこそが「巣立ち」への一歩であり、「希望」が生まれ根を下ろす場になるのではないか…。

 

 上述のことについて具体的に学校教育の在り方として提言している箇所が遡って第3章にあり、元教員の身としては大変重要なことを述べていると考えているので、それを私なりに要約してみたいと思う。

 

    身につけた力は、本来生きている今の生活に組み込まれて、子どもの世界の広がりにつなかっていくものであり、それが学びの原点であるはずで「実質的な学び」と言える。学齢前に身につける力は、放っておいても自ずと使われて、子どもの生活世界のなかに根を下ろす。ところが、学校というシステムに入ったとたん、どういうわけか「力を身につける」ということに一生懸命になるばかりで、それを使って生きるという話がどこかにいってしまう。学校では、学んだことが成績につながることで小学校、中学校、高校、大学、大学院という学校制度のはしごをより高く上がっていく「制度的な学び」が当然のように考えられている。この学ぶことの制度化こそが、今の学校制度の最大の問題で、子どもたちの「巣立ち」を妨げる最大の要因になっているのではないか…。

 

    著者が指摘するこの学校教育の在り方の問題点について、私は現職中から同様な思いを抱いていた。学びの制度化によって、子どもたちが実質的な学びの意味を見失い、学びが苦行になってしまっていること。評価や成績によって学びに傷ついていく子どもが少なからずいること。さらにそのなかの子どもたちが学びから逃走し始めていることなど。学校に何とかして「実質的な学び」を取り戻すことが急務である。新学習指導要領で謳われている「主体的で対話的な深い学び」の実現が、この問題点を解決することに繋がってほしいと強く願っている。