前々回の記事で取り上げた『子どもが巣立つということ―この時代の難しさのなかで―』(浜田寿美男著)の中に、2005年2月14日に大阪府寝屋川市で17歳の少年が出身小学校の3人の教職員を殺傷するという事件(以下、寝屋川事件)が起こったことについて触れた箇所があった。そこでは、この凶悪犯罪を起こした少年の背後にある、「被害感情」について言及していた。私は、加害少年の内面に関する著者の心理学的な考察内容に首肯しながらも、何か腑に落ちないものを感じていた。その理由は、この少年が確か「広汎性発達障害」と診断されていたことを思い出したからである。少年の犯行動機と「広汎性発達障害」との間に何らかの関連はないのだろうか。私は、このことについて少しも考察されていないことに物足らなさを感じたのである。
そこで今回は、加害少年の犯行動機と「広汎性発達障害」との関連について考察するために、10年ほど前に読んだ『十七歳の自閉症裁判―寝屋川事件の遺したもの―』(佐藤幹夫著/『裁かれた罪 裁けなかった「こころ」―十七歳の自閉症裁判―』を改題)を再読して、改めて学んだことをまとめてみたいと思う。
著者の佐藤氏は、養護学校の教員を21年間務めた後、2001年からフリージャーナリストになった。また、批評誌『飢餓陣営』の主宰者として、思想・文学・心理学等の幅広い分野で評論活動を行っている。さらに、出版の企画・プロジュース・編集等も手掛けている方である。私は新任校長として離島の小規模小学校へ赴任していた時に、特別支援教育の在り方について自分なりに研究している中で、『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」―』を読んで感銘を受けて以来、著者の評論活動に注目してきた。
私の書斎の書棚には、前掲の2冊以外の単著として『精神科医を精神分析する』『ハンディキャップ論』『ルポ高齢者医療 地域で支えるために』等、共編著として『中年男に恋はできるか』(小浜逸郎氏との共著)『哲学は何の役に立つのか』(西研氏との共著)『刑法39条は削除せよ!是か非か』(呉智英氏との共編著)『少年犯罪厳罰化私はこう考える』(山本譲司氏との共編著)等、さらに滝川一廣氏へのインタビュー本『「こころ」はどこで壊れるか-精神医療の虚像と実像』『「こころ」はだれが壊すのか』『「こころ」はどこで育つか 発達障害を考える』等の著書群が並んでいる。私は、これらの著書を読み、特に著者の「精神医療やそれと関連する青少年犯罪等」に対する真摯な取り組み方とその考え方を支持してきたので、本書で述べられている大阪地裁における寝屋川事件の加害少年への処遇に対する著者の思いや考え方についても共感するところが多かった。
本書は、前著『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」―』以上に、「広汎性発達障害」を前面に押し出した著作で、大阪地裁における寝屋川事件の公判記録(特に各証人が語った証言内容)を基にしたルポルタージュになっている。全体の構成を大雑把にまとめると、「事件の概要」「加害少年の17年間の成育歴」「家裁が検察官送致(逆送)した理由」「心からの謝罪に関する加害少年の供述」「責任能力と処遇との関連」「刑罰も治療も望んだ判決」「再犯を防止する社会的な受け皿の整備」となる。私はこの中の特に「刑罰も治療も望んだ判決」の内容に注目した。その理由は、この大阪地裁の判決において、検察官が描いた犯行動機はほぼ全面的に斥けられ、犯行の重要な背景あるいは動因として「広汎性発達障害」の影響があることをはっきりと認めたからである。著者はこのことについて覚えた感慨を、次のような比喩的な表現で述べている。「分厚いコンクリートの壁に、針で穴を空けた程度のことかもしれないが、穴が空いたことには違いなかった。」
もう少し具体的に、加害少年の犯行動機と「広汎性発達障害」との関連について触れた、大阪地裁の横田信之裁判長の判決文をできるだけ簡潔に要約して紹介してみよう。
① 検察官が主張する教師への逆恨みについては、犯行時に少年がS教諭を探した形跡はなく、会えないと分かってからも、その後の犯行を断念した形跡はないから、直接的な動機とは言い難い。
② 次に、幸せに暮らしている人々に対する羨望、嫉妬、自己を笑おうとするものへの復讐については、平成15年ごろに着想したことが認められるものの、犯行当時も持ち続けていたとまでは認められない。また、少年の羨望、嫉妬、復讐心は、青春を謳歌したいという心情や自己への劣等感、被害者意識と関連しており、本件で攻撃の対象となった本校の教職員がそのような対象として直結する存在ともみられない。
③ さらに、少年が酒鬼薔薇聖斗事件や西鉄バスジャック事件を模倣し、あるいはそのような大事件を起こした少年犯罪者と自己を同一視するなど、その影響から直結して本件犯行に及んだとは認められない。
④ 少年の全般的行動から判断すると、両親に対しても「広汎性発達障害」と関連した対人相互的感情の希薄さが観察され、小学校時代から本件公判審理に至るまでの言動に照らしても、「対人相互性の質的障害」があることは明らかである。
⑤ したがって、かつて習慣化していた加害空想の中で培われ、少年に残存していた「包丁」「刺す」といったイメージが部分的に想起され、犯行を着想した一因になっていること。“うつろな気分”がその背後にあること。その間、付き合っていたAさんからメールが来たために動揺し、「何かしそうだ」と懸念して主治医に相談しようとしたが、医師がおらず、両親に相談しようとしたが、その機会をもつことができなかったこと。「S先生」という言葉が浮かんだ背景には同教諭への悪感情も遠因にあったことなどが認められ、「広汎性発達障害」の特徴である「強迫的な固執性」もあって、少年は本件犯行に及んだものと見られる。
⑥ 鴨崎教諭に対する犯行は、職員室に至る前に、自分が不審人物として学校の外に連れ出されてしまうと考えたことも、その要因になっている。
前著『自閉症裁判―レッサーパンダ帽男の「罪と罰」―』の中で記述されていた、東京地裁の服部悟裁判長の判決内容とは大違いである。本件の刑事司法において横田裁判長がここまで「広汎性発達障害」を認定したことについて、私も著者と同様にある種の感慨を抱いた。また、加害少年の犯行動機だけでなく、殺意の有無についても「広汎性発達障害」という個別事情と社会的判断とを天秤にかけ、最終的には殺意の認定について社会的判断を採った判決内容になっている。これは「広汎性発達障害」がある少年は、定型発達者の場合と異質な点があるという事情を裁判長が認めたことを示している。しかし、責任能力の認定については、少年が“うつろな気分”の影響によって心神耗弱であったという弁護人の主張を斥けた。この点は、少年のように対人相互性の能力にハンディがある時、責任能力の構成要素である事理弁識能力や規範意識と呼ばれてきた概念を、従来通りのまま採用するだけでいいのかという問題を残した。さらに、処遇について保護処分の域を超え、刑事処分にすべきと判断しているものの、量刑を検察官が主張する無期懲役に対して懲役12年と言い渡した上で、少年を真の意味で更生させ、再犯を起こさないようにする治療的処遇も行うように意見を付け加えている。著者も述べているように、「「広汎性発達障害」」に対して能う限りの理解と踏み込んだ判断を示した判決内容であった。「刑罰か治療か」ではなく「刑罰も治療も」と望んだ結果の苦慮した判決だったのである。
私たちは、この判決から「広汎性発達障害」の人をどのように理解し、どのようにかかわっていくことが大切かなど、多くのことを学ぶことができると思う。私も「発達障害」全般に対する理解を深めていく必要を強く感じた。