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「拘(こだわ)り」について考える!~森博嗣著『なにものにもこだわらない』を参考にして~

 前回の記事で、「自閉症スペクトラム症」(ASD)の特性の一つに、「拘(こだわ)りが強い」こと、特に手順やルールに拘りがあるということを紹介した。この場合、「拘り」そのものではなく、その強さや偏りがあることに特性が見出されるのであるから、「拘り」そのものに問題がある訳ではない。それどころか、誰にでも大なり小なり「拘り」があるのが普通であろう。

 

    そもそも「拘り」という言葉は、現代社会においてどちらかというとよい意味で使われる場合が多いのではないだろうか。例えば、「拘りの一品」と言えば、何かを極めた品物というイメージでとらえられ、よい意味であろう。私自身も自分の生き方に多少の「拘り」がある。ちょっと格好をつけて言えば、「他人や世間にどう言われようと、自分の良心に従って正しいと思ったことは貫き通すという生き方」に拘っている。これは私の個性でもあり、近代個人主義を前提とする民主的な社会においては肯定されている生き方でもあろう。もちろん、以前の記事で取り上げたことがある「世間」というものがまだまだ蔓延している日本社会では、表向きはともかく「世間」では何かと疎まれる生き方ではあるが…。

 

 先日、近くの市立中央図書館に行った時、上述のようなことを普段考えている私にとって、驚くような書名の本に偶然出くわした。それは、『なにものにもこだわらない』(森博嗣著)である。著者の森氏については、学恩のあるI先生から随分前に薦められて読んだ『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』の著者であり、まだ作品を一つも読んだことはないが著名な小説家であると認識していた。しかし、本書を手に取ったのは、著者がその森氏だったからではなく、その書名の方である。『なにものにもこだわらない』とは、一体どのような意味なのか。そもそも自我をもつ人間という動物が何らかの「拘り」をもたないで生きることができるか。私の頭の中は、「???」であった。私は早速、借りて読んでみた。納得できるところもあれば、疑問に感じるところもあったというのが、正直な感想である。

 

 そこで今回は、本書に書かれている内容を手掛かりにしながら、私なりに「拘り」について考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 「まえがき」を読むと、わざと漢字を使わずに表記した『なにものにもこだわらない』という本書のタイトルは、著者のここ20年間の座右の銘だそうである。この場合の「拘る」とは、「自分はこれだと決め込む」「一度決めたものに固執する」という意味であり、「拘らない」ことを実行するためには、毎回考える必要がある。しかし、「そのつど考える」ということに「拘っている」となると、言葉の意味として矛盾する。だから、「なにものにも拘らないようにしたい」くらいの緩さを含む方針、言い換えると、「ときどきは拘ることがある」という余地を残しておく方針であると言っている。私には初めピンと来ない方針であった。ただし、拘らないことで目指すものは、「自由」であると言っているところは共感した。前述したように私は自分なりの「拘り」があるために、それに縛られてしまって「不自由」だと思うことがあった。だから、今まで「拘りつつ拘らない」というスタンスが取れないものかと思案しているというのが紛れもない事実である。その経験から推し量ってみると、著者の意図するところは肯くことができる。

 

 私が自分なりの「拘り」に縛られて「不自由」を一番実感する場面は、相手から不当な対応をされて、自分が侮辱された時、別の言い方をすると、自分の方に正義があり相手の言動は非難されるべきだと思った時に、相手に対して腹が立つという場面である。自分の尊厳やプライドが相手から傷つけられたから腹が立つ。そして、相手は私が思うようなことを気にもしていないように見える。だから余計に腹が立ってくる。このような場合、私が自分の「拘り」を捨てる、つまり「拘らない」ようにすれば、相手に対して寛容になれ、自分自身も楽になる。そうなれば、本当に「自由」になれる。この点については、著者も同様な考えを披露しているところがあり、次のような箇所に私は大きく肯いた。「自分の気持ちなんて、小さいものであって、そんなに煽って大きく見せ、大事に持ち上げるほどのものではない、と考える。そうすると、馬鹿馬鹿しくなってきて、腹立ちも収まる。逆にそうした方が、自分自身もずっと楽になれる。自分を落ち着かせることで、自分は得をしているのだ、とわかってくる。結局は、自分のためにやっていることである。」…そうなんだよなあ。でも、そうと分かっていても、現実的にはなかなかできないという自分が情けなくなる。ここら辺りの心理分析をもっとしっかりとする必要が私にはありそうである。

 

 最後に、著者は「あとがき」の中で、次のようなことを述べている。それは、物事の本質を把握するためには「拘らない」ことが一つの手法になるということ。具体的には、多視点の観察と客観的な評価という一手法が、目の前の問題を解決する道筋を見出すことにつながるということ。そして、本質を把握することが、有意義な思考、有益な発想の基本になるということである。ただし、著者はこの「拘らない」という手法を万人に適用する手法ではなく、万能のノウハウでもなく、あくまで試してみる価値のある一つの手法であると、この手法に「拘らない」ことだと謙虚に述べている。その意味で、『なにものにもこだわらない』生き方をしている人らしい締め括りであり、私には好感のもてる「あとがき」になっていた。私も「拘らない」生き方ができるかなあ…。