新型コロナウイルスの感染者数がまだ50人にも満たない本県。その県庁所在他の本市でも、市立の児童館や図書館等の施設を閉館したり、市立の公園の駐車場を閉鎖したりしている。また、民間の保育園においても家庭で子どもの面倒をみることができるなら、なるべく登園を控えるような要請が出ている。だから、保育園に通っている3歳の孫Hは、先日は私たちじじばばの家で、一昨日と昨日は自宅で過ごした。しかし、家の中でできる遊びは限られており、かといって外遊びができる場所もなかなか見つからない。小・中学生はもちろん孫のような幼児にとっても今の情況は、大きなストレスを抱える生活環境である。何とかこの情況を改善する方法はないのだろうか。早く新型コロナウイルスの感染拡大が収束して、元の日常生活に戻ることを願うばかりである。
それに比べて、大人は「ステイホーム」状態でもストレス解消の方法は様々に工夫できる。その方法の一つに「読書」があると私は前回の記事でも提案したが、ではどのような本を読めばいいのかという質問が出てきそうである。「読書」をほとんどしない人にとって、親しみやすいのは「大衆小説」や「推理小説」・「時代小説」のエンタメ本ではないかと私は思うが、たまに「純文学」にはまる人もいるので一概に決めつけることはできない。どちらにしても、ストレス解消の方法の一つに「読書」という選択肢もあることを忘れないでほしい。
さて、前回の記事で、私が「読書」を続ける一番の理由は、ただ単に「読書が面白いから」であることを綴った。このことは、ほとんどの「読書家」の本意であることも付け加えたが、まさにその通りのことを書いている本に出合った。それは、しばらく積読状態にあった『夜を乗り越える』(又吉直樹著)という本である。前回取り上げた『それでも読書はやめられない―本読みの極意は「守・破・離」にあり―』の中で、「又吉直樹の感覚は正しい」という項を読んで思い出し、慌てて読んでみたという次第である。お笑い芸人で芥川賞作家の又吉氏は、「なぜ本を読むのか?」と聞かれたら、「おもしろいから」と答えるのが自分にとってはもっともしっくりくると、本書の「はじめに」の冒頭に書いている。
ただし、又吉氏が好きな本というのは、「純文学」である。私の書棚の一角にも、夏目漱石や石川達三・坂口安吾・吉行淳之介・中上健次・村松友視・村上龍・村上春樹等が書いた「近代文学」や「現代文学」の本も並んでいるが、私はどちらかといえば「学術」や「評論」に関する本(その多くは新書版)を読むことの方が好きである。また、気分転換のために「大衆小説」や「推理小説」・「時代小説」のエンタメ本を読むのも好きである。「純文学」については、時にのめり込むほど好きな作品に出合うこともあるが、全般的に途中で興味を失ってしまうことが多い。私には「純文学」が向かないのであろうか?
そこで今回は、本書の中に述べられている又吉氏の「文芸評論」的な文章を参考にしながら、「純文学」を読む楽しさについて探ってみたいと思う。
又吉氏は、本書の第3章「なぜ本を読むのか-本の魅力」の中で、本の魅力は「感覚の確認-共感」と「感覚の発見」の二つがあると書いている。「感覚の確認-共感」とは、普段からなんとなく感じている細かい感覚や自分の中で曖昧模糊としていた感情を文章で的確に表現された体験であり、私流に表せば「文学を即自的な感覚で味わうこと」と言ってもよい。また、「感覚の発見」とは、これまでの自分が持っていなかった新しい感覚が発見できる体験であり、私流に表せば「文学を対自的な感覚で味わうこと」と言ってもよい。また、以前に読んだ『未来形の読書』(石原千秋著)という本の中で使用されていた言葉で言えば、前者が自己確認をする「過去形の読書」、後者が自己変革をする「未来形の読書」と言い換えてもよいかもしれない。
上述した二つの本の魅力について、私は「学術」や「評論」に関する本では実感的に納得できるのであるが、「純文学」においては概念的な理解しかできない。それというのも、私は「純文学」を読む時にストーリーの展開や作品を通したテーマ性等に観念的に気をとらわれてしまい、登場人物の心情や場面ごとの情景等をじっくりと味わいながら深く読むことができていない。簡単に言えば、今まで私は「純文学」を「心」(感情)で読むと言うより「頭」(理屈)で読んでいたのではないかと思う。この点、「純文学」を読む楽しさを味わうためには、私自身の読み方を変える必要があるかもしれない。
又吉氏は、同章の別のところで、こんなことも言っている。「いつ読んでも違う味がする。それが読書の大きな魅力の一つである。」確かに、このような経験は私にもある。ただし、その本は、私の場合「純文学」ではない。前述したように私が「純文学」を読む時には、その作品のストーリーの展開やテーマ性等を意識する。だから、読後に自分なりにそれらを理解したら、後々に再読する必要はないのである。「学術」や「評論」に関する本の場合は、読んでいる時は自分にとって切実な課題を解決しようとしているから、自ずとそれに必要な箇所に意識が向いて理解する。だから、その時々の課題に即応して理解する内容の位相が微妙に違ってくるので、その都度新しい発見がある。私にとって再読する意味があるのである。しかし、「純文学」の場合は私にとって再読する意味が乏しい。しかし、それでは又吉氏の言う「純文学」を読む楽しさが半減してしまう。やはり、私自身の読み方を見直すべきであろう。
本書の中の第5章は「なぜ近代文学を読むのか-答えは自分の中にしかない」、第6章は「なぜ現代小説を読むのか-夜を乗り越える」であり、それぞれに又吉氏が心に強く残った作家や作品を挙げながらその魅力を語っている。近代作家としては、芥川龍之介・夏目漱石・谷崎潤一郎・三島由紀夫・太宰治・織田作之助・上林暁等、現代作家としては、遠藤周作・吉井由吉・町田康・西加奈子・中村文則等を取り上げている。私の書棚にも、これらの作家の一部の作品が並んでいるが、未読のものが多い。もちろん既読のものもあるが、今まではその作品の魅力を十分に味わったなあという経験はほとんどない。私は、又吉氏の「文芸評論」的な文章を読みながら、「純文学」を読む楽しさのコツのようなものを知り、改めてこれらの作品を手に取って深く味わって読んでみたいと思った。