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人間存在にとっての「魂」と「悪」について考える~遠藤周作著『スキャンダル』を読んで①~

 前回の記事の中で予告したように、私は自分なりの「スロー・リーディング」の実践として、「純文学」のジャンルに入る『スキャンダル』遠藤周作著)という作品を、ゴールデン・ウィーク中に暇を見つけては読んでみた。本書を選んだきっかけは、今から数週間前にTSUTAYAで、著者の谷崎潤一郎賞受賞作『沈黙』を映画化したDVDを借りて観たことである。この映画は、島原の乱を背景にして殉教を遂げるキリシタン信徒と棄教を迫られるポルトガル司教の姿を通して、神の存在や背教の心理・東西の思想的断絶等を追求した作品で、クリスチャン作家である著者のキリスト信仰の根源的な問題意識が強く投影されていることが私なりによく分かった。そこで、今度はその著者が現代の週刊誌的な話題とも言える『スキャンダル』を通して、本作品の中で何を追求しようとしているのかを探りたくて手に取ったという次第である。 

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 本作品の主人公は、勝呂という清く正しいクリスチャン作家で、いかにも著者の遠藤氏をそのまま表しているような人物設定になっている。そして、その勝呂の今までの作品は「罪」を描いているようだけれど、実はその罪から光がもたらされるという予定調和的な「魂」の救済について書いてきた。ところが、勝呂は内臓がぼろぼろになりつつある老年に至って、自分のキリスト教的な偽善性に疑いを持ち始め、本当の「魂」への通路にはどうしようもない「悪」(スキャンダル)が潜んでいるのではないかと自問するのである。その不安と焦燥を抱えた姿は、彼の自作の授賞式で接待席の後ろにふと醜く卑しい顔をした自分に酷似した男が立っているのに気付いた時から始まるのである。私は、本作品のテーマ性に直結していく著者の場面設定の巧みさに、ついつい引きずり込まれてしまった。

 

 あの授賞式の日とほぼ同時期に、勝呂の周辺には思いもよらぬ噂話が流れる。それは、勝呂という人間が知らない間に歌舞伎町にある淫乱な場所に出入りして、破廉恥な行いをやっているらしく、中には実際に勝呂に会ったという人物さえ出てくる。しかし、勝呂本人にはその性的な「スキャンダル」(悪)を全く覚えていないので、誰かが悪意で嘘の情報を流しているかもしれないと調査したり、精神病理学深層心理学の専門家から得た知識を基に「二重身(自己像幻視)」や「二重人格」、さらに「ヒステリー性集団幻視」などではないかと推理したりするが、どれがどれだか分からなくなってしまう。このあたりのストーリー展開に、まるで犯人がなかなか特定できないミステリー作品を読むようなスリリングさを感じ、著者の巧妙な筆運びに私は脱帽してしまった。本作品は、キリスト教信仰者の生き方を深く追求しながら、本当の「魂」へと至る「悪」(スキャンダル)をどうとらえるかというテーマ性を貫いた「純文学」ではあるが、その中で「推理小説」的な面白さも加味されている逸品だなあと、私は物語を読み味わいながら実感した。

 

 では、人間存在における「魂」と「悪」についての著者の考えは、どのようなものなのだろうか。それに対して、私なりの「スロー・リーディング」の実践によって考えてみた「誤読」の内容を以下にまとめておきたい。

 

 本作品の終盤において著者は、人間の深い、深いところへ降りて行き、本当の「魂」へ至ると、「悪」という大変な世界があるけれど、それは簡単に言い表すことはできない、途轍もなくすごい世界だと描いている。しかし、その中でも光に包まれるところが最後のほうに出てくる。つまり、人間存在というのは、深い世界で光に包まれるという体験はあるのではないかと、結局はキリスト教信仰に基づく予定調和的なことを暗示しているのである。しかし、私はそうは言っても、「悪」というものが結局は光に包まれるなどという結論的なことも言うことはできないのではないかと思った。言い換えれば、「人間存在というのは結局こうなのだ。」と簡単に答えを決めつけずに、「人間存在そのものはいつまでもミステリー的な存在だ。」とあるがままに受容することが大切なのではないかと、私は考えたのである。このような人間存在における「魂」と「悪」についての考えは、果たして著者の考えと一致していると言えるかどうかは甚だ疑問ではあるが、私なりの「スロー・リーディング」の実践によって得られた「豊かな誤読」の内容には間違いないのである。また、今回このような本の読み方ができたことが、私にとって「読書」をより楽しむことに繋がったことは間違のない事実であり、それは私にとってこの上ない喜びであった。

 

   皆さんも、「純文学」を楽しむために「スロー・リーディング」の実践をしてみませんか!「作者の意図」を深く探りながら、自分なりの「豊かな誤読」をしてみるのは楽しいよ!!