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私が若い頃に大きな影響を受けた「ユング心理学」について~河合隼雄著『こころの読書教室』を読んで~

    先日読んだ『スキャンダル』遠藤周作著)の解説的役割を担っていたのは、今は亡き河合隼雄氏の「たましいへの通路としてのスキャンダル」という文章であった。これは、単なる解説とは異なり、本作品に対する河合氏の自己体験を基にした独自な論を展開したものであり、私は久し振りに臨床心理学者としての河合氏らしい文章を読んだ気がした。「久し振り」と書いたのは、私が特に20~30代の頃に河合氏の著書をよく読んでいたことを思い出したからである。私の書棚の奥に仕舞い込んでいた著書群を出してみると、『ユング心理学入門』『コンプレックス』『影の現象学』『母性社会日本の病理』『無意識の構造』『家族関係を考える』『働きざかりの心理学』『中空構造日本の深層』『日本人とアイデンティティ心理療法家の着想』『心理療法序説』『子どもと学校』『対話する人間』『臨床教育学入門』『子どもと悪』『人の心はどこまでわかるか』等があった。

 

 以前の記事にも書いたことがあるが、今から40年ほど前、地元の国立大学教育学部附属小学校に赴任したばかりの頃、私は自分の学級経営について悩んでいた。当時、教師の「権力」によって子どもたちを管理・指導することが学級経営の基本だと認識されている現状に対して、私は教師の「権威」を認めつつも子どもたちが自主的・自発的に学級の一員として振る舞うような学級経営ができないかと考えていたのである。そのような時に、たまたま河合氏の『中空構造日本の深層』を読んで触発され、附属小学校の教育研究大会における実践研究発表の場で「中空構造をもつ学級経営の在り方」を提唱したことがある。これは、河合氏が指摘した日本神話に見られる「中空構造」理論を、私が独自に学級経営理論に適用したものであった。当時は、ほとんど注目されなかったが、それ以後の私の学級経営の理論的支柱になり、15年間にも及ぶ実践研究においても確かな手応えを感じたものであった。

 

    そのことをきっかけにして、その後も私は河合氏の著書を読み漁り、特に彼がスイス留学で習得してきた「ユング心理学」の臨床的な理論へ傾注していった。そして、その学びから得た理論的枠組みを活用して、自分の学級の問題行動児の言動を解釈した上で、その具体的な指導方法について得意になって保護者に語っていたことを思い出す。当時、私はこの実践的取組に大きな手応えを感じていて、まるで「河合隼雄教」の信者のようになっていたのである。それ以後さまざまな経緯を経て、「ユング心理学」という深層心理学に対して相対的な評価ができるようになったが、当時のことは私の人生に価値ある痕跡を残した出来事であったと今でも肯定的な評価をしている。

 

 さて、このような思い出深い河合氏の臨床心理学者らしい文章に出合ったことを契機にして、今回、私は彼の最晩年の著書である『こころの読書教室』を読んでみた。本書を選んだ理由は、彼が読書習慣のない多くの人に本を読んでもらいたいと思って行った講演記録をまとめて出版したものであったこと。それは、「心の扉を開く」と題して、「ユング心理学」の知見を活用しながら、読書を通じて心の深層に迫っていったものだったこと。簡単に言えば、本書は「ユング心理学」による豊かな解釈で意味付けた図書紹介の本だったからである。

 

 では、以下において、私なりの本書の読後所感を綴りながら、「ユング心理学」の理論の一部を紹介してみたいと思う。

 

 まず、第1章「私と“それ”」では、“それ”とは心理学の世界においてドイツ語で“エス”(Es)と言い、フロイドは「無意識」のことを指すために“エス”と呼んだという事実を知り、私は面白いと思った。心の中で自分ではわけが分かっていると思っている領域、つまり自我のことをエゴと言うのに対して、フロイドはわけが分からない領域を名前が付けようがないので、「“それ”にしておこう」と考えたのである。だから、日本語でも「エゴとエス」なんて訳さないで、「私と“それ”」というのが本当なんだと河合氏は言うのである。そして、「私が“それ”にやられました」という話として、山田太一著『遠くの声を捜して』や村上春樹著『アフターダーク』、フィリッパ・ピアス著『トムは真夜中の庭で』等を取り上げ、“それ”のもつマイナスとプラスの両面から解釈していくのである。時々、関西弁が入り、具体的で分かりやすく「ユング心理学」の基本概念を説明しているので、楽しく聴きながら心の深層を理解していくことができる。まさに講演会の臨場感溢れる内容になっている。

 

 次に、第2章「心の深み」では、再度『アフターダーク』を取り上げながら、“それ”が表している「無意識」の世界の中身を掘り下げている点が興味深かった。また、山口昌男著『道化の民俗学』を取り上げ、「無意識」の深い世界へ降りていく時に、道化とかトリックスターというのがすごく大事な役割を果たしていると強調している。先日読んだ『スキャンダル』で言えば、勝呂という主人公がしっかりやっているのに、小針という記者が出てきて何かと探りを入れてくるのだが、このような役割がトリックスターである。何か勝呂に変なところがあるんじゃないか、悪いところがあるらしいと付きまう。勝呂の周辺をかき回したり、悪いことをしたりしているようだが、その結果、勝呂の自己認識が深まっていくというプラスの意味をもつ場合がある。著者のそのような解説で、誰でも「ユング心理学」の基本概念が自然に分かってくるのである。本書はよき「ユング心理学」入門書になっているなあと、私はついつい感心してしまう。

 

 さらに、第3章「内なる異性」では、桑原博史著『とりかへばや物語全訳注』を取り上げながら、心の中に男性にとってのアニマ、女性にとってのアニムスという異性がいるという「ユング心理学」の基本概念について分かりやすく解説していく。ただし、この男女の関係は単純ではなく相互に交錯していることを理解するのが大切で、その解釈の具体事例も面白く、読みながらつい頬が緩んでしまうのりである。また、アニマやアニムスの4つの段階というのも面白く、どちらも第4段階まで高まってくると両性具有的になってくるという面は納得できるものである。もう一つ、私が妙に納得してしまったのは、著者がルーマー・ゴッテン著『ねずみ女房』を取り上げて解説する中で述べた、次のような言葉。「ほんとうに大事なことがわかるときは、絶対に大事なものを失わないと獲得できないのではないかな…」つまり、認識の再構成が起きる時は、それまでの認識で構成されていた自己を一度喪失してしまうのである。「学びによる自己変容」ということを見事に表現していると、私は唸ってしまった。

 

 最後に、第4章「心-おのれを超えるもの」では、C・G・ユングユング自伝-思い出・夢・思想』を取り上げ、ユング自身が自分の「無意識」の世界にあるものがだんだんと実現され、それを生きることが自分の一生だったと言ったことを語り、「自己実現」という概念について丁寧に解説している。そして、その探索の過程で無意識的な世界も、自我も全部ひっくるめて人格の統合が大切と考えたユングは、その統合を図式に表現すると、人類共通の「曼荼羅」になることが分かったと言う。また、上田閑照・柳田聖山著『十牛図-自己の現象学』を取り上げ、禅の悟りの境地が少年と牛との関係で示されていることを説明しながら、その普遍性、つまり世界とつながる感じを示し、「自己実現」の過程として意味付けている点が特に興味深かった。さらに、大江健三郎著『人生の親戚』を取り上げ、文学者が一人の人間の「自己実現」の過程を描いていることを解説している点も、私の心に強い印象を残した。

 

 全てを読み終わって本書を静かに机の上に置きながら、若い頃に無我夢中で読み耽った『ユング心理学入門』を、改めて再読したいという衝動に駆られた。…