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検察庁法改正案の今国会成立見送りという事態を目の当たりにして、改めて「検察の理念」を守りたい!!~柚月裕子著『検事の死命』を手掛かりに~

 最近、私は「柚月裕子」にハマりつつある。その名前を初めて知ったのは、活字ではなく映像の方であった。昨年の9月にNHK・BSプレミアムで『盤上の向日葵』という本格ヒューマンミステリー・ドラマを視聴した。ここ数年来、最年少天才棋士・藤井颯太7段の活躍ぶりに世間が注目し、その余韻がまだ残っている頃だったので、将棋の指し方も知らない私たち夫婦でも多少の興味をもって観てみたのである。物語の展開が結構面白かったので、誰の原作かなと思い最後のテロップで確認してみると、原作者が「柚月裕子」という女流作家であることを知った。その記憶がかすかに残っていたので、先日、近くの書店に立ち寄った際に、彼女の『あしたの君へ』という作品が自然に目に入り購入したのである。

 

    主人公の家庭裁判所調査官補・望月大地が、5つの家族との出会いを通して試行錯誤しながらも一人前になっていく過程を描いた作品を読んで爽やかな感動を得た私は、他の作品も読んでみたいと思い、次に手にしたのは『検事の死命』であった。主人公の若手検事・佐方貞人が正義感溢れる姿で権力に果敢に挑む様子は、私の心の中を爽快感で満たせてくれた。ちょうど国民から大きな批判を受けて政府が検察庁法改正案の今国会成立を見送った頃から読み始めたので、特に本書の「第3話 死命を賭ける」「第4話 死命を決する」を読み進めている際には、私は検察官本来の在り方とともに「検察の理念」について深く考えることができた。

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 そこで今回は、本書の内容を手掛かりにしながら、検察庁法改正案の今国会成立見送りという事態を踏まえて「検察の理念」について私なりに考えたことを綴ってみたいと思う。

 

 電車内で女子高生に痴漢を働いた容疑で会社員が逮捕された迷惑防止条例違反の事件を担当することになった佐方検事は、被疑者と被害者の異なる供述の中で、冷静かつ徹底的な姿勢で粛々と捜査を進める。そのような過程で、佐方は県内有数の資産家一家の婿である容疑者側に立つ国会議員や上司から不起訴にするよう様々な圧力をかけられる。しかし、佐方は彼独特の緻密な捜査手法で一つ一つ容疑を固めていき、敢えて自分や直属の上司たちの死命を賭けて起訴に踏み切る。さらに、刑事部から公判部へ異動になってからは、経験豊富な実力派弁護士である井原弁護人と公判の場で正々堂々とやり合い、死命を決する。裁判で見事な勝利を得るのである。

 

 上述のような物語の展開において、佐方検事が終始変わらず貫く信念は「家柄や肩書などの権力をもつ相手でも、真実を追い求める」という検察官本来の在り方である。担当した事件も彼にとってはたかだか条例違反ではない。世間の耳目を集める疑獄事件も、女子高生が受けた痴漢被害も同じなのである。どちらにおいても、まっとうに罪を裁こうとしているだけなのである。判決後、井原弁護人から「ひとつだけ、わからないことがある。君が、あんな小さな案件に必死になる理由だ。金にもならない、出世にも繋がらない。むしろ、検察内での立場が危うくなるような真似を、なぜする」と問われた佐方検事が答えた次の言葉。「俺の関心はあいにく、出世や保身にないのでね。関心があるのは、罪をいかにまっとうに裁かせるか、それだけです」私は、この佐方検事の言葉にこそ単に小説上の綺麗ごとの正義はなく、三権分立を前提とする民主的国家の司法がもつべき矜持が示されていると思う。また、佐方検事の直属の上司に当たる筒井が口にした次の言葉。「-秋霜烈日の白バッチを与えられている俺たちが、権力に屈したらどうなる。世の中は、いったいなにを信じればいい」私は物語の最後の場面でこの言葉を目にした時、今国会で政府から提出された検察庁法改正案に対して多くの日本国民が抗議した理由がここにあると実感した。

 

 では、検察庁法改正案のどこに問題があったのか。それは、この改正案が国家公務員の定年を65歳に引き上げる法案と一括して提出されたのであるが、この法案自体は妥当性がある。問題なのは、内閣が必要と判断した場合、検事総長検事長等の検察幹部の定年を最長で3年延長できるという特例規定が盛り込まれた点である。検察は行政組織であるが、他の省庁とは異なり、起訴権限を原則独占するなど、準司法的な役割を担う。時には、過去にも様々な疑獄事件があったように政界捜査にも切り込む場合がある。そのために、裁判官に準じた強い身分保障が認められている。だから今までは、検事総長らの任命権は内閣にあるものの、幹部人事について歴代内閣は法務・検察全体の意思を尊重してきた。つまり、政治からの影響が排除され、検察人事の自律性が保たれてきたのである。ところが、今回の改正案の特例規定は、運用次第では時の内閣の判断により検察幹部の任期が左右される。検察庁に勤める者とは言え、人の子である。自己保身のために、時の政権に対して忖度や手加減をすることがないとは言えない。このように、政権と検察の適切な距離感を崩しかねないことが起こる余地を残すことになる。だから、三権分立を前提とした民主国家の在り方として検察の独立性を守るためには、この特例規定は何としても削除する必要があったのである。

 

 検察庁のホームページには「検察の理念」が示されている。その中には、次のような件がある。「…権限の行使に際し、いかなる誘引や圧力にも左右されないよう、どのような時にも、厳正公平、不偏不党を旨とすべきである。また、自己の名誉や評価を目的として行動することを潔しとせず、時としてこれが傷つくことをもおそれない胆力が必要である。…」これは単なる青臭い理想的な正議論ではなく、紛れもなく日本の検察庁が国民に公表している「検察の理念」である。今回の検察庁法改正案の特例規定によって、この「検察の理念」が形骸化されるという危惧を多くの国民が抱いたからこそ抗議の声を上げたのである。私は、今までの公職選挙における日本国民の投票率の低さからその公民としての資質・能力の乏しさを疑ってきたが、今回の事態を目の当たりにしてなかなか日本国民も捨てたものではないという確信を強めた。まだまだ諦めてはいけない!!