前回の記事で、私は日本において教師が尊敬されなくなった歴史的経緯について触れたが、これは学校における「教師と子ども」という教育関係を対象としていた。ところが、社会や世間にはこれとは位相の異なる、例えば武道や茶道等の様々な「道」における「師と弟子」という教育関係が存在する。そして、世の中には、「教師と子ども」という教育関係の理想的な形が「師と弟子」だと考えたり、少なくとも「師と弟子」が究極の「教師と子ども」の完成形だと思っていたりする人がいる。しかし、これは勘違いである。つまり、「道」はその武道や茶道等の本質を究めることを目的にしているが、学校は近代社会に相応しい知識や技能、ルールやマナーなどを身に付けた社会的な個人を育成することが目的だからである。別の視点から言えば、「師と弟子」という関係は個人的で閉鎖的なものだが、「教師と子ども」という関係は全ての子どもを対象にしている開放的なものである。ただし、江戸時代の寺子屋においては「師と弟子」という関係を基本としているが、公的な要素が強い藩校においては「教師と子ども」という教育関係に類似しているように思うが…。
ところで、前回にも述べたように学校に市民社会レベルの人と人の関係(契約関係、商取引の関係)が持ち込まれるようになって教師が尊敬されなくなったとは言え、未だ「教師を特別扱いする気風」は僅かではあるが残存していると私は思う。そして、どんな子どもでも教師を尊敬する気持ちを持っている方が、教育や学習の成果が上がるものである。私が現職の小・中学校長だった頃、必ず年度当初に保護者にお願いしていたことがある。それは、「もし学校での教育活動に関して問題や疑問を感じることがあれば、直接学校へ問い合わせをしてほしい。そうすれば、学校はきちんと説明したり対応したりします。だから、決して子どもの前で教師の非難をしたり悪口を言ったりしないでほしい。できれば、親が教師のどんな面でもよいから褒めるようにしてほしい。」という内容である。なぜなら、子どもが教師に対して尊敬の念を抱いていれば、教師の意図的・計画的な指導以上のことを子どもが自ら学ぶことになるからである。つまり、子どもの「学びの主体性」を保障することにつながるからである。そして、そのような話を保護者にする際、私は『先生はえらい』(内田樹著)という本に紹介されていた『張良』という戯曲の内容を事例的に取り上げていた。
そこで今回は、本書で紹介されていた『張良』という戯曲の内容について解説した上で、子どもの「学びの主体性」を保障する考え方について綴ってみたいと思う。
『張良』という能楽は、中国の漢の時代の将軍でその武名をうたわれた張良という人が、若い頃に黄石公(こうせきこう)という老人から「太公望秘伝の兵法の極意」を授けられたときのエピソードを戯曲化したものであり、その内容の概要は次の通りである。…若き張良が浪人時代に、武者修行の旅先で太公望秘伝の兵法の奥義を極めた黄石公というよぼよぼの老人に会い、弟子入りすることになる。張良は喜んで「先生、先生。」とお仕えするのですが、この老人先生は何も教えてくれない。いつまで経っても何も教えてくれないので、張良の方もだんだんいらついてくる。そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから黄石公先生が馬に乗ってやって、張良の前まで来ると、ぽろりと左足の沓(くつ)を落とした。老先生は「取って、履かせよ。」と命じたので、張良は黙って拾って履かせた。別の日、また街を歩いていると、再び馬に乗った黄石公先生と出会う。すると先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として「取って、履かせよ。」と命じた。張良はむっとしながらもこれも兵法修行のためと、拾って履かせた。その瞬間に、張良はすべてを察知して、たちまち太公望秘伝の兵法の奥義ことごとく会得して、無事に免許皆伝となった。…
何か変な話である。さて、張良はいったい何を会得したのであろうか。また、そのときに張良の心の中にどのような思いが行き交わったのだろうか。では、想像してみよう。
まず張良は、先生の黄石公が二度も沓を落としたのだから、「沓を落とすこと」と「兵法の伝授」の間には、何か関係あるに違いないと頭を抱えて考え込んだであろう。そして、その瞬間に「あっ、これを兵法伝授の謎かけだと解釈したのは自分自身だ。私が誤解していたのだ。」と悟ったのである。どういうことかと言うと、自分はその解釈に魅入られ、次に相手がどう出るか、「待ち」の姿勢に居着いてしまったので、絶対に相手の先手を取れない。「謎」を解釈する立場というのは、「謎」をかけてくる人に対して、絶対的な遅れのうちに取り残されるということである。つまり、張良は「人間はこうやって負ける」という兵法の奥義に気付いたのである。と同時に「必勝の兵法」を会得したのである。それは「必敗の構造」に身を置いた者だけが会得できることだったから。先生がやったようにやれば、張良のような立場の者を相手にしたときは必勝なのだから。
私は、この能楽の『張良』という話から武道の極意について書きたいのではない。私がこの話から学び、今回書きたかったのは、「学ぶのは学ぶ者自身である。常に、自分に課題意識があれば、先生に教えられなくても、自律的・主体的にいろいろなことを学んでいくものである。」という「学びの主体性」についての考え方なのである。私が特に子どもたちに伝えたいのは、教師から教えてもらうことだけではなく、常に自分の方から教師の日々の言動を通して、いろいろなことを自ら学ぶことが自分をよりよく成長させるということ。自ら求める姿勢があれば、自分の周りの人々だけでなく自然からも多くのことを学ぶことができる。子どもたちには、自分が勉強できない理由を、周りの人、特に教師に求めるような情けない奴になってほしくない。欠点ばかりが目立つ教師であっても、できれば子どもたちには「先生はえらい」と思ってほしい。それが、自分の「学びの主体性」を保障する考え方なのである!難しい場合もあると思うけど…ネ。