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教員の「質」を高めるための手立てについて…~中室牧子著『「学力」の経済学』を読んで~

 ここ最近の記事は、「尊敬されない教師」や「信頼されない教師」等に関する内容を取り上げることが多かった。そして、それらの実態にはやむを得ない歴史的・社会的・経済的な背景があるとともに、学校や教育委員会の旧態然とした体質にも要因があることを綴ってきた。では、全ての教師が「尊敬」や「信頼」を得る対象にならないのが実態かと問われれば、否、ほとんどの教師は「よい教師」であり、公教育を担う教員の「質」を持っていると私は答えたい。

 

 ただし、その判断は、私が現職時代に出会った上司や同僚、部下等の教員の勤務ぶりを、総合的に振り返ってみた時の主観的なものでしかない。例えば、学級崩壊に至ることのない学級経営ができていることや、各学年における年間カリキュラムを的確に実施した上で妥当性のある評価活動をする教科経営ができていること。また、地域社会の人々や保護者に対して適切な対応ができていることなどである。もちろん私だけがそのような判断をしていたのかと言えば、そうでもない。少なくとも同じ職場の教員たちの相互評価の内実を反映したものであった。しかし、それは同じ職場の教員以外の他の誰でもが納得することができるような客観的な判断基準であったとはなかなか言えない。そもそも、そのような「よい教師」や教員の「質」の判断基準というものがあるのだろうか。

 

 私が上述のような思いを巡らせていた時、3年ほど前に読んだ『「学力」の経済学』(中室牧子著)の中で教員の「質」という概念を論じていたことを思い出した。つい先日、学校の「9月入学」の是非を論じていたあるテレビ番組で、著者の中室氏がコメンテーターとして自説を論じているのを観たこともきっかけになったかもしれないが…。著者は現在、慶應義塾大学総合政策学部教授で、教育を経済学的な手法で分析する「教育経済学」を専門としている。本書はその教育経済学が明らかにした「知っておかないともったいないこと」を読者に紹介することを目的に2015年に上梓したものであり、今では発行部数累計30万部のベストセラーになっている。

 

 そこで今回は、本書で論じられている教員の「質」という概念について整理するとともに、その「質」を高める手立てについてまとめてみたいと思う。

 

 本書の第5章の中で、教育経済学では「ある教員がどれくらい優れた教員か」ということを教員の「質」という指標で計測すると書いている。そして、「教員の担当した子どもの成績の変化でみる」=「付加価値」という方法が、教員の「質」を計測する指標として米国では一般化していると言っている。しかし、その妥当性については、経済学者の間では長年議論が行われてきたそうである。その議論に終止符を打ったのは、ハーバード大学のチェティ教授らの研究グループであった。チェティ教授らは、全米の大都市圏の学校に通う100万人もの小・中学生のデータと納税者記録の過去20年分のデータを用いて、付加価値が教員の「質」の因果効果をとらえるのに極めてバイアスの少ない方法であることを明らかにしたのである。さらに、「質」の高い教員は、ただ単に学力を上昇させているということに留まらずに、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めているということをも明らかにしたのである。

 

 以上のことをもう一度まとめると、ある子どもの学力の上昇幅で表される「付加価値」は、教員の「質」を測定する指標として有用だということ。つまり、ある子どもを他の子どもや集団と相対的に比較するのではなく、過去のその子自身と比較して昨日より今日、今日より明日と形成的に伸ばしてやれる教師こそが、「よい教師」だと言えるのである。

 

 では、一体どうすれば教員の「質」を高めることができるであろうか。著者はその政策手段の中から、「給与を上げる」「研修を受けさせる」「免許制度を撤廃する」という3つの選択肢を取り上げ、海外における今までの研究蓄積から有効性を検討している。以下に、その検討内容及び結果の概要をまとめてみよう。

 

 まず、「給与を上げる」という手段に関して、米国の少なくとも10州が給与やボーナスを成果主義にすることで、教員の「質」を上げようと試みたそうである。しかし、結果的には教員の「質」を高め、子どもたちの意欲や学力の改善につながることを示したエビデンスは決して多いとは言えなかった。この結果からすれば、数年前に「全国学力・学習状況診断テスト」の結果で大阪府が全国の最下位グループになっていることを脱するために、吉村大阪府知事がテストの平均点を高めた学校の教員にはボーナスを上げるという政策手段を講じたことがあったが、あれはほとんど無駄だったということになる。

 

 次に、「研修を受けさせる」という手段に関して、最近の研究に限ってみると、教員研修が教員の「質」に与える因果効果はないという結論が優勢なのだそうである。私が現職の小・中学校長だった時には学校経営の柱の一つに、教員研修の充実を掲げて日々の授業力向上を図っていたが、それはほとんど無駄だったということになる。しかし、この点については私なりの経験の中で大きな手応えを感じていたので、この結論は納得しがたいところである。

 

 最後に、「免許制度を撤廃する」という手段に関して、ティーチ・フォー・アメリカという非営利団体が米国の一流大学の卒業生を、卒業後2年間、低学力に悩む公立学校に教員として派遣するプログラムを実施してきた取組に注目している。これまでの研究によれば、ティーチ・フォー・アメリカの教員が教えた生徒は、教員免許を保有する教員らに教えられた生徒に比べて成績がよいか、成績には差がないということが明らかになっている。つまり、教員免許の有無による教員の差はかなり小さいというエビデンスが得られたのである。

 

 以上のことから、「給与を上げる」「研修を受けさせる」「免許制度を撤廃する」という3つの選択肢の中では、教員免許制度を変更し、能力の高い人が教員になることの参入障壁を低くすることが有力な政策オプションになるのではないかと、著者は提言している。しかし、我が国における「公教育を担う教員になるためには教員免許が必要だ」という前提で成り立っている制度設計自体を変更するのは、大変困難なことであろう。

 

 著者は日本の教育において、最もエビデンスが必要とされているのは、教員の「質」に関するものだと主張している。また、政府が行う種々の統計データが不足していることや、アクセスが難しいことを問題視している。さらに、教員の「質」を高める方法をめぐって、教員の「質」の指標化・教員採用試験の共通化・教員免許の国家資格化・教員研修のさらなる充実等の提案に関する政策効果を科学的な手法を用いて検証した例がほとんどないことも指摘している。「教育にエビデンスを!」という著者の主張は、教育哲学的な立場をはじめ様々な視座から批判される余地を大いに残しているものの、我が国の教育政策に対する評価・検証の妥当性を高めるための一方法としては、傾聴に値するのではないだろうか。