台湾新幹線プロジェクトの軌跡を縦糸に、日本人と台湾人の温かな心の絆を描いた吉田修一氏の傑作小説を、NHKと台湾の公共放送局・PTSが共同制作してドラマ化した。そのドラマ『路(ルウ)―台湾エクスプレス―』が、5月16日(土)を皮切りに3週連続で放映され、私は妻と共に楽しみながら視聴した。商社社員・多田春香役を演じた主演の波瑠が好演していたが、春香の想い人であるエリックという名の台湾人青年を演じたアーロンの演技も新鮮な感じがした。また、台湾と日本の人々の国境と時間を越えた豊かな交流を描いていく背景に、美しい台湾の景色や活気ある街角が映し出されていて、私は懐かしい感慨に浸っていた。というのは、私は現職の時に二度台湾の地を訪れたことがあったからである。
一度目は、地元国立大学教育学部附属小学校に勤務していた頃に職員旅行の目的地として訪れた。それは観光旅行みたいなものだったので、気楽に台湾の文化や風物を堪能した思い出がある。二度目は、教職生活最後の年に本県教職員の教育研究団体による海外研修の地として訪れた。私は団長としての役割を担っていたので、なかなか観光気分を味わうことはなかったが、この研修旅行を通じて、日本語を流暢に話す親日派の台湾人が多いことを再認識した。その背景には、戦前に台湾が日本帝国の植民地であった時、台湾の近代化に命を懸けた日本人たちがいたという歴史的事実がある。その中で今なお台湾人から敬愛され、神として祀られている日本人の一人に、八田與一という人がいることを読者の皆さんは知っているだろうか。私が海外研修前に読んだ『街道をゆく 台湾紀行』(司馬遼太郎著)の中に八田與一の生涯と業績について触れている箇所があり、私は初めて彼のことを知り日本人として彼を誇りに思った。そして、帰国後には『台湾は日本人がつくった―大和魂への「恩」中華思想への「怨」―』(黄文雄著)を読み、八田與一の業績についてよく詳しく知り、さらにその思いを強くした。
そこで今回は、これら2冊の本で触れている八田與一の生涯と業績についてまとめるとともに、日本と台湾との関係性について私の思いを綴ってみたいと思う。
司馬氏は著書の中で、「日本領時代に、八田與一という土木技師がいて、この(嘉南-筆者注)平野を美田にしようとし、成功した。大正時代のことである。」とさりげなく紹介している。また、その後には、八田の生涯について述べている。では、その生涯について黄氏の著書も参考にしながらなるべく簡潔に紹介してみよう。
○ 明治19(1886)年に、石川県金沢市の農家に生まれる。
○ 明治43(1910)年に、東京帝大工科大学土木科を卒業し、ほぼ同時に台湾総督府土木局の技手として配属される。当初、帝大の先輩に当たる浜野弥四郎の下で衛生設備の工事に専念する。その過程で台南市の上下水道、桃園大圳の設計と監督を務める。
○ 大正3(1914)年に、28歳で技師になる。
○ 大正6(1917)年に、31歳で米村外代樹(とよき)と結婚する。
○ 大正7(1918)年に、嘉南平野の調査を始める。その後、「嘉南平野灌漑計画」を提出する。
○ 大正9(1920)年に、台湾総督府が「嘉南平野灌漑計画」の実施を決定したので、「官田渓埤圳組合」の技師として着工に携わる。労働者に思いやりをもって、気持ちよく働ける環境づくりのために奔走する。
○ 昭和5(1930)年に、烏山頭(珊瑚譚)ダムを完成させる。この大規模なダムはアメリカの土木学会でも「八田ダム」と命名され、世界から称賛された。また、嘉南平野を縦横にめぐる水路は16,000キロにも及び、その巨大な水利構造である「嘉南大圳」は万里の長城以上である。
○ 昭和17(1942)年に、陸軍に徴兵されフィリピンに向かう途中、乗船の大洋丸が米潜水艦の攻撃をうけ撃沈されて死亡。享年56歳。
以上のような生涯を送った八田與一であるが、その業績は何といっても「嘉南大圳」を整備して、当時不毛の地と言われていた嘉南平野を穀倉地帯に変えたことであろう。この工事がわずか10年間で完工したのは、当時の日本としては高水準の土木機械が投入されたことによるが、それ以外にも工事に先立って烏山頭までの道路や鉄道、さらには送電線等を整備したこと。また、烏山頭には宿舎街を建設し、小学校や病院等も造るなど、社会的なインフラを整備したことも工事の進捗を早めたと思う。だからこそ、戦後、中国の国民党が台湾にやってきて、日本の記憶を呼び覚ます記念碑が徹底して破壊されてしまったにもかかわらず、土木技師・八田與一の銅像は再建されたのであろう。それは、台湾中南部・烏山頭の「嘉南大圳」の一角にある。また、そこには八田夫妻の墓も建っている。その墓は、日本人が台湾から引き揚げてしまった昭和21(1946)年12月15日に、地元の嘉南農田水利会の人々によって建立された。大理石の島と呼ばれる台湾ではあるが、墓石は故人の国の風習を思って、わざわざ高雄まで行って見つけた花崗岩が選ばれたそうである。このことだけを取り上げても、八田夫妻がどれだけ台湾人から敬慕されていたかが分かる。
戦前、日本帝国の植民地であった台湾のために身を捧げた日本人は八田だけではない。近代台湾の社会的なインフラを整備するために、多くの日本人が尽力した。そして、その功績を認めている台湾人が多いから、親日派の人々が多いのである。また、戦後も今回の日台共同制作ドラマ『路(ルウ)―台湾エクスプレス―』に描かれているように、日本人が台湾の発展のために尽くす事例がある。だからこそ、9年前の東日本大震災の際に、台湾は他国に先駆けていち早く200億円を超える義捐金を送ってくれたのであろう。その台湾人の魂は、古き良き大和魂を引き継いでいると私は思う。戦後、大和魂を失いつつある日本人は、逆に今の台湾人の精神性から学ぶべきことがあるのではないだろうか。そして、今後の日本は、中国以上に台湾との政治的・社会的な関係性を深めるべきではないだろうか。
三度目の台湾旅行の際には、ぜひ中南部・烏山頭にも足を運び、八田與一の生涯と業績を偲びながら「嘉南大圳」の一角に建つ夫妻の墓前で手を合わせたいと、私は考えている。