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カント哲学の功績とフッサールの現象学との関係について~「100分de名著」におけるカント著『純粋理性批判』のテキストから学ぶ~

 5月下旬頃に6月のEテレ「100分de名著」で取り上げるのが『純粋理性批判』(イマヌエル・カント著)だと知った時、私はやや尻込みをした。その理由は、何といっても『純粋理性批判』は超難解な哲学書であると聞いていたし、そもそもカントという哲学者はその道徳論の中でよく知られている「定言命法」を訴えた禁欲的な人間だという思い込みがあったからである。この思い込みには、私が地元国立大学教育学部に在籍していた時の補導教官、カント倫理学を専門としていた某教授のイメージも大きく影響している。某教授はとにかく真面目で、私たち補導生との懇親会の席でも一滴のアルコールも口にせず、定刻になったらさっさと帰宅してしまうような方だった。私はその生真面目さにある面で惹かれていたのではあるが、それにしてもあまりにも融通の利かない堅物であった。そのイメージがカントの人物像と重なってしまい、何となく忌避してしまったという次第である。

 

 ところが、私の信頼する哲学者の一人である西研氏が、『純粋理性批判』の解説者だと知り、もしかしたら私のような知的レベルの者でもよく分かるような解説をしてくれるのではないかと期待して、5月末にはテキストを購入した。そして、早速、簡単な予習のつもりで通読をしてみたら、何と西氏の解説文の内容が私の頭にもスーッと入ってきたのである。これなら全4回の放送分をしっかりと視聴すれば、テキストを読んだ時以上に理解が深まるかもしれないと思い、私はそれを実行した。

 

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 そこで今回は、そのテキストにおける第4回の解説内容の中で、放送では触れなかったが私にとって最も関心が高かった「カント哲学の功績とフッサール現象学との関係について」まとめてみたいと思う。

 

 西氏は全4回のまとめとして、カント哲学の功績を2つ挙げている。その一つが、「自然科学と生きる上での価値について、両方を見渡す哲学を築いたところ」である。つまり、「自然科学の信頼性はどこに由来するのか」という問いも、「道徳など生きる上での価値はどこに由来するのか」という問いも、ともに人間の「主観」を起点として考えなければいけないという発想が重要だということ。そして、この「主観」は、感性と悟性で認識をつくり出すだけでなく、「究極の真理」に憧れ、また生活上の必要を抱くだけでなく「よい生き方」を求めるものでもあった。このような人間の「生」のあり方を正面からとらえることが、今、切実に必要なのである。言い換えれば、科学の知識は重要だが、それだけでは十分なものではなく、人の「生」とそこでの価値を解明する必要があること。カント哲学はこのようなメッセージを私たち現代人にも発信していると、西氏は高く評価している。

 

 次に、カント哲学の功績のもう一つは、「哲学の領域を“答えが出る領域”と“答えが出ない領域”とに明確に区分し、“答えの出る領域”に狙いを定めて議論すべきとしたところ」である。そこには、問いそれ自体を吟味するという発想があり、「人々が納得できる合理的な共通理解はどうやったら可能か」と考えていく姿勢を示唆しているのである。しかし、カントは根拠を示しながら議論を重ね、合理的に共有できる知となりうるのは、「空間」と「時間」の枠組みを伴った「現象界」に現れるものだけとし、道徳は「叡智界」(「物自体」の世界)に属するものとして、人間は理論的に考察できず認識し得ないと考えている点で大きな課題を残してしまったと、西氏は鋭く指摘している。

 

 この大きな課題を解決したのが、カント哲学を発展的に継承したエトムンクフッサールである。彼は、カントによって「叡智界」に追いやられた道徳を再び「現象」に取り戻し、根拠を挙げながら考えて議論する道を開いたのである。その際、フッサールは「現象」の意味合いを大きく拡張している。彼は、事物や事実だけでなく、道徳や自由、あるいは神についても、それなりの仕方で人は体験しているから、「現象」に属するものと見なしたのである。具体的には、見たり聞いたりすることだけが体験ではなく、想像したり思考したり憧れたり祈ったり怒ったりなど、全てが体験であり「現象」であると見なしたのである。そうすれば、全く体験できない「叡智界」(「物自体」の世界)を想定する必要はなくなり、全ての物事は 広義の意味での「現象」であるから、これを考察すればよいのである。このように、「叡智界」(「物自体」の世界)をなくしてしまったのが、フッサールの創始した「現象学」なのである。

 

 フッサール現象学は、人間の「主観」から出発して自然科学と人間の価値の両方を考えようとする点において、カント哲学の直系と言える。カント哲学なくしてフッサール現象学はありえなかったのである。テキストの第4回放送分で、科学的な知と人間の価値の根拠を考えることについて大規模で体系的な構想をつくり上げたのはカントであり『純粋理性批判』であると、西氏はカント哲学の功績に対して妥当性のある哲学史的な評価をしている。さらに、自身もカントやフッサールから出発して客観性をもって共有できる知として哲学を蘇らせたいと、哲学の新たな地平を拓く明るい展望を語っている。

 

 私は、テキストの第4回分の『純粋理性批判』に関する解説内容を読んで、西氏の哲学者としての高い志に大きな感銘を受けた。そして、世間的には高齢者の仲間入りをした私ではあるが、自分なりの拙いやり方でそのような新しい哲学の営みにささやかながら参画してみたいと、熱い思いが沸き起こってきた。衰えつつある精神にもう一度、喝を入れ直さなくては…。