ようこそ!「もしもし雑学通信社」へ

「人生・生き方」「教育・子育て」「健康・スポーツ」などについて考え、雑学的な知識を参考にしながらエッセイ風に綴るblogです。

「認識の謎」の解明と「普遍認識」の可能性について~竹田青嗣著『哲学とは何か』から学ぶ①~

    6月23日付で当ブログに「カント哲学の功績とフッサール現象学との関係について~「100分de名著」における『純粋理性批判』のテキストから学ぶ~」という記事をアップした数日後、近所の大型書店に立ち寄った時のことである。NHKブックスの白い背表紙が並ぶ書棚の中で、ひと際目立つ黒い背表紙の本があった。反射的に手に取ってみたら、書名が『哲学とは何か』(竹田青嗣著)。帯の文言や目次の内容等にさっと目を通した私は、『純粋理性批判』の解説者・西研氏が語っていた「客観性をもって共有できる知として哲学を蘇らせたい。」という志をそのまま具現化しようとしている本ではないかと直感した。

 

f:id:moshimoshix:20200707105226j:plain

 

 著者の竹田氏は、当ブログの記事でも何度か取り上げている哲学者の西研氏や苫野一徳氏の師匠筋に当たる哲学者である。今から30数年前に、井上陽水ファンだった私は竹田氏の著した『陽水の快楽―井上陽水論―』という評論集と偶然出合い、それをきっかけにしてさらに『現代思想の冒険』を手にして、すっかり彼の思想や哲学に魅入られてしまった。それ以来、今まで数多くの著書を読み、私は大きな影響を受けてきた。その中でも特に一般読者向けに書かれた『現象学入門』や『はじめての現象学』という著書を読んだ時には、フッサール現象学の神髄に触れて、それまでの自分の認識の仕方が180度転換した衝撃を受けた。ただし、その内容理解の程度は表層をなぞっただけに留まり、本質的な理解を深めることができなかったが…。

 

 その竹田氏が近年、今までの自分の哲学の成果を全て注ぎ込んだ『欲望論』(第1巻・第2巻)を上梓したことは知っていたが、私には到底手に負えないと観念して読んでいなかった。しかし、今回、書店で立ち読みした本書の序「哲学の方法と功績」の中で、「今までの著書の中では哲学にとって極めて重要なことを書き残したと思い、その心残りを表したのが本書である。」という主旨の記述部分に私の目は惹きつけられた。そして、「哲学はなぜ世界史に登場し、どのような方法をもち、人間にとってどのような役割を果たしたのか、またいま、どのような役割を果たしうるのか。これが本書の中心テーマである。」という一文を読み、私は居ても立ってもいられない心境に陥り、本書を購入した。それから10日間ほど暇を見出しては読み継ぎ、昨日やっと読了することができた。

 

 そこで、今回は本書の二つの主題の一つ、「認識の謎」の解明と「普遍認識」の可能性について私なりに理解した内容の一端を紹介しながら、読後所感を簡潔にまとめてみたいと思う。ただし、私の内容理解の程度が不十分なために言葉足らずの表現になるかもしれないので、この点はご容赦願いたい。

 

    著者は、ギリシャ以来、現代に至るまでヨーロッパ哲学が長く抱え込み、解明されない最も重大な三つの謎「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」を解明することは、哲学の本義である「普遍認識」(著者は、自然世界についての科学的な「客観認識」と区別して、哲学の中心主題である人間や社会にかかわる問いに対する客観的な認識を「普遍認識」と呼んでいる。)の可能性を拓くことになり、哲学それ自体を再生することになると明言している。特にこの三つの謎の要の部分をなすのが、「普遍認識」が可能か不可能かという「主観と客観の不一致問題」(「認識問題」)であるから、まずは「認識の謎」を根本的に解明しない限り、他の哲学的な謎は決して解かれないと述べている。

 

    しかし、古代からの哲学の歴史は、「普遍認識」をめがける哲学とこれに反対する相対主義哲学との長い論争の歴史だった。そして、現代哲学に至ってもこの三つの謎が未解決のまま持ち越されていると言う。その主な理由は、マルクス主義崩壊後にポストモダン思想という哲学的相対主義が登場して以来、現代哲学において相対主義懐疑論が主流になってしまい、「普遍的なものは何もない、ということだけが普遍的だ」と矛盾する主張をし続けているからである。このことは、「普遍性」や「原理」という哲学本来の概念を否定することになり、新しい哲学の考えを抑止する力へと転化してしまっているのである。

 

 このような情況を踏まえた上で、著者は上述の哲学の最大の難問と言える「認識問題」は、近代の最後になってニーチェフッサールという二人の哲学者によってほぼ解明されていると明言している。では、ニーチェフッサールはどのような根本的なアイデアによってこの問題を解いたのか。以下に、著者に倣ってそのアイデアの骨子を素描してみよう。

 

 まず、ニーチェによる「本体論の解体」(著者による総括でニーチェの用語ではない)について。これは、どんな生き物も自分の認識装置を通してのみ対象を認識するというカントの認識論から、全知の「神」を抹消することで成立させ、「完全な認識」という概念や「物自体」の概念も無効にしたものである。つまり、人間を含めそれぞれの生き物はそれぞれの「生の力」(欲望・身体のありよう)に応じて相関的に最も適切な世界認識をもつ。したがって、我々人間が「客観的に存在する世界」と見なしていたものは、各人が「生の世界」を言葉で交換し合うことから成立する、「想定された世界」に過ぎないことになる。

 

 以上のことは「力相関性」スキーマというニーチェのアイデアからの結論なのであるが、その哲学的な意義は大きい。特に、一方に客観世界(本体)があり他方にこれに向き合う主観があるという「主観-客観」の認識構図を、完全に顚倒したこと。そして、認識の本質を、認識装置による客観の写像ではなく、生き物の力(欲望-身体)による「世界分節」であると考えたこと。これらのことで、世界それ自体(=本体)の存在とそれについての人間の認識という伝統的な「本体論」が解体されたのである。そして、このことは「相対主義的認識論」の徹底的な解体をも意味したのである。

 

 次に、フッサールによる「認識問題の解明」について。フッサールは「主観-客観」の構図自体を認めないので、「主観と客観の一致」という考え方を否定する。その代わりに、我々が知覚した「客観的対象」と見なしているもの(=「超越」)は、実は「内在」の内での「確信の成立」のことであるという「現象学的還元」の方法を採用する。つまり、「認識問題」を解明するために、あえて方法的に一切の認識を主観の内で構成される「確信」と見なす。このことで「主観-客観」の構図は消え去り、全ての認識を「主観の内での内在と超越の関係」として考えることができる。言い換えれば、「主観と客観の一致」は誰にも確かめられないが、「内在と超越(確信)の関係の構図」は誰でも必ず内省によって確かめられるものになるのである。

 

 フッサールによれば、この「現象学的還元」という独自の方法だけが、「認識の謎」を解明すると言う。では、認識構図を考える上で、なぜこの原因と結果を逆転する視線の変更が必要なのだろうか。それは、哲学の中心主題が人間や社会の問題であり、大きなスケールの世界像の問題だからである。しかし、この一切の認識を「確信成立」の構造と見ることによって「認識問題」を解明する「現象学的還元」という方法の核心について、ほとんどの現象学者やほとんどの現象学の批判者が全く理解していないと、著者は断言している。

 

 以上、哲学の最大の難問と言える「認識問題」をほぼ解明したと著者が言う、ニーチェフッサールという哲学者のアイデアの骨子を素描してみたが、哲学に何の興味も関心もない方には何を言っているのか皆目理解できないかもしれない。もちろん私自身が全てを十分理解している訳でもなく、ましてやこの程度の字数で説明しているのだから、読者に理解を求めるのは無謀と言えば無謀である。でも、私は著者が2500年の哲学史が抱えてきた3つの謎「存在の謎」「認識の謎」「言語の謎」を解明し、「普遍認識」を可能にして哲学の本義を再興しようとする熱い志をもっていることに強く心を打たれたので、何とか私なりにその思いを伝えたかった。当記事からその思いを少しでも感じ取ってくれた方がいたなら、ぜひ本書を手に取って自分の力で理解を深めてほしい。

 

     私はそのきっかけづくりのために、懲りもせずに次回は本書のもう一つの主題である、「本質観取」の方法と「社会の本質学」の可能性についてまとめてみようと考えている。次回こそ、もう少し分かりやすい文章を書きたいと思っているが、何分にも力量不足のために困難な課題へのチャレンジになるであろう。それでも読んでみようと思ってくださっている読者の方がいることを心から願っている。