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「刑法第39条」に係わる「責任能力」と「精神鑑定」をめぐる議論について~呉智英・佐藤幹夫【共編著】『刑法39条は削除せよ!是か非か』を基にして~

 前回の記事で『無罪』(深谷忠記著)という社会派心理ミステリーを取り上げて、私は今のところ「刑法第39条」の是非についてアンビバレントな立場であると表明した。そして、もう少し知見を広め思考を深めた上で、自分なりの判断をしたいと記したこともあり、自宅の書棚にあった『刑法39条は削除せよ!是か非か』(呉智英佐藤幹夫【共編著】)を再読してみた。

 

 本書は、弱者・障害者と呼ばれる人々に対し、これからの社会がどんな感度と理念を用意することができるかを考えるために、「刑法第39条」を試金石として取り上げた問題提起の一書である。論者諸氏は、各人の自由意思で、この問題に対する自由な見解を披露されている。したがって、本書においてある傾向の言説を否定し、弾劾しようとか、一つの方法へのムーブメントを形成しようとか、そのような「まとまりのある見解」の提出は目指されていない。むしろ多様な視点と、様々な領域からの発言こそが求められているのである。そのような本書の中で私が特に共感を覚えたのは、佐藤幹夫氏の「刑法39条、何が問題なのか」という論考であった。

 

 そこで今回は、この論考の内容を基にして、「刑法第39条」に係わる「責任能力」と「精神鑑定」をめぐる議論について整理してまとめてみたい。そして、その知見を基にして自分なりに判断したことを簡潔に綴ってみたいと思う。

 

 まず、佐藤氏は「刑法第39条」の削除を主張する動機として、犯罪被害者が「加害者に対する報復の感情を少しでも納得させたい。」とか「当事者として、刑事裁判にてしかるべき位置に立ちたい。」という気持ちを切実にもっていることを述べている。つまり、「刑法第39条」の削除とは、犯罪者に対する報復と制裁の国家による独占という、刑法の最も根幹の変更の訴えを孕んだものだと規定しているのである。

 

 次に、上述のような動機に基づく「刑法第39条」削除の主張は、刑法学において犯罪を成立させる3つの要件である ①構成要件該当性 ②違法性 ③有意性 の中の「有意性」(犯罪行為についてその行為者を非難しうること)に向けられると述べている。つまり、「心神喪失」「心神耗弱」という言葉で示される「責任能力」なるものに向けられているのである。ところが、この「責任能力」にはいくつかの誤解と混乱があり、またその認定に係わる「精神鑑定」にも様々な疑義がある。それらを整理すると、次のような問題を挙げることができると言う。

 

① 「責任」なる概念は、「近代的個人」というフィクションを作るためにもちだされたものであり、そもそも「近代」とか「個人」とかが破綻しつつあるのだから、「責任能力」という概念も耐用期間の限界を越えているのではないか。

② 刑法学では「責任能力」の定義を様々に与えているが、刑法典のどこにもその定義が示されていない。このことは刑法の大いなる欠陥であり、そこに「責任能力」の認定をめぐって紛糾する根本の原因があるのではないか。

③ 「責任能力」の有無を認定するためには、「精神鑑定」が重要な材料となるが、その「精神鑑定」がどこまで客観性と科学性をもつものとして信用に値するのか。それを受けた司法判断は妥当なかたちでなされているのか。

④ 最終的に「責任能力」を判断するのは誰か。司法か精神科医か。司法であるなら、裁判官か検察官か。精神障害が疑われているが、この検察の判断が示す数字はどこまで妥当なのか。

⑤ 「精神鑑定」とは、生物的診断(犯行時のある尋常ならざる状態が「疾患」と判断されうるか)と心理的診断(もし「疾患」と判断されるならば、その病的な状態が犯罪行為にどのような影響を及ぼしたのか)についての鑑定である。しかしなぜ鑑定結果が監察医によって異なるのか。そもそも「責任能力」なるものを精神科医が判断できるのか。また医師は詐病を本当に見抜くことができるのか。

⑥ 「責任能力」なしと判断された時、措置入院となるが、ここで本当に治療が行われているのか。完治しないまま社会復帰されているのではないか。また、入院期間があまりに短すぎるのではないか。

⑦ 精神障害者にとっても、裁判を受ける権利がある。「刑法第39条」はこの基本的人権の侵害であり、差別的事項ではないのか。現に、平成7年には聴覚障害者の刑の軽減と無罪を規定した第40条は、その差別的な条項ゆえに削除されているではないか。

 

 これらの問題点に対して、佐藤氏は最初に「責任能力」に関して、おおよそ次のような危惧を表明している。

 

○ 「責任能力」とは裁判所が判断する高度な司法判断であり、精神科医による「精神鑑定」はこの判断材料であるという事実が誤解されている。また、これに「精神障害・知的障害=精神鑑定=無罪」という誤解が加わっている。さらに、精神障害が疑われる犯罪者の90%前後の人々が、「責任能力なし」と判断され不起訴処分になっている事情が加わっている。しかも、この背景には日本の刑事裁判における有罪率99.9%という、驚くべき数字が控えている。このことは、検察官が起訴するかどうかを判断する段階で、「責任能力」というものが空洞化されていないかと危惧する。

○ 起訴不起訴の有力な判断材料として起訴前の「精神鑑定」があるから、不起訴率が90%前後という数字は、ほぼ鑑定結果と近似を示すはずである。ということは、検察内において公判維持が疑わしきは「責任能力なし」という判断がなされているのではないかと危惧する。

○ 99.9%という異様に高い有罪率を考えれば、現行の刑事法廷は有罪か無罪かを争う場ではなく、量刑をどの程度にするか、執行猶予をつけるかということを裁判官が判断する場になっている。このことは、冤罪や誤審の可能性が相対的に高まることを推測させる。また、「責任能力」の疑わしきは起訴せずの一方で、起訴されたからには執行猶予をつけてでも有罪判決を出すということにならないか危惧する。

 

 また「精神鑑定」に関して、佐藤氏はおおよそ次のような誤解への解釈とその対応策について言及している。

 

○ 「精神鑑定=無罪」という単純な誤解だけでなく、「精神病(統合失調症)=無罪」とうのもあらぬ神話である。というのは、統合失調症重篤の、不治の病であるという旧態依然とした誤解が、「統合失調症心神喪失」という先入観をつくり、司法判断へ大きな影響を与えてきたからである。しかし、統合失調症は、通常考えられているより治る病気であり、このことの理解が広く社会的に共有されてくれば、司法判断にもおのずと変化が見られるであろう。

○ この「精神病(統合失調症)=無罪」という誤解が、精神科医がどこまで詐病を見抜けるのかという疑念をつくっている大きな要因ではないかと推測される。また、この疑念は司法への疑念にもなっていく。しかし、司法において統合失調症といえども全てが無罪とはならないという判断をするという認識が広がれば、このような事態はおのずと変わるであろう。

○ 仮に精神科医詐病を見抜けなかったとしても、それがそのまま「刑法第39条」削除の理由にはならない。なぜならば、全てを起訴し、法廷審議となったとしても、裁判停止をして治療処遇を優先させるべきか、そのまま続行させるべきか、その判断を迫られる場面が必ず出てくからである。その時、それは誰が判断するのか。また、精神病が疑われる全ての被告人に対して、判決が出されるまで公判を続行しなくてはならないという論理を貫かなくてはならないが、このことは治療の機会を奪うという甚大な人権侵害になってしまう。

○ 1990年代後半から2000年初頭に起きた極めて重大な犯罪において、精神医療と制度への社会的疑念が沸点に達した。そして、重大犯罪に対して精神医療は無力であり、そうならば法の整備を図り、司法がもっと介入して対策を講じるべきではないかという世論が作られた。それから3年余を経て、「心神喪失医療観察法」が可決されたが、これは精神医療の敗北を意味していた。

○ 精神科医のタレント化によって、社会全体の「精神医学化」現象が生まれ、精神医療のへの不信がより加速して精神医療の価値を下落させた。その際に持ち出されたのが、「精神鑑定」の非科学性という常套句であった。しかし、なぜ「精神鑑定」が科学的でなければならないのか。社会が問うべきは、「精神鑑定」の科学性ではなく、それの社会的了解の在り方である。どうすれば精神医療に基づく「精神鑑定」に対する信頼を回復できるか、その道筋を探っていくことである。

 

 以上、「刑法第39条」削除という主張に対して、その前に問われるべき「責任能力」や「精神鑑定」に関する問題点とその解釈及び対応策についての佐藤氏の考察内容を整理してみた。私は、これらの考察内容を踏まえると、「責任能力」や「精神鑑定」に関する問題点をよりよく解決する道筋(例えば、「精神鑑定」の社会的了解の在り方について、今までの事実学的(実証主義的)な体系だけでなく、現象学の「本質観取」の概念を取り入れた本質学的な体系を構築すること。)がはっきりと見えてきて、それが実現可能な状況になるまでは、「刑法第39条」の削減はすべきではないと考えた。言い換えれば、司法や精神医療等に係わる方々を中心にして国民全てが真摯にその解決に取り組んだ結果が、犯罪被害者と精神障害等が疑われる加害者の相互の人権を尊重することにつながり、妥当性と信頼性の高い司法判断を実現するのであれば、徒に「刑法第39条」削除に対して反対すべきではないのである。