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幸せを願う不器用な人間たちの哀愁漂う姿に魅入られた!~池永陽著『コンビニ・ララバイ』を読んで~

 5月末から6月末にかけて、NHK・BSプレミアムで『珈琲屋の人々』というドラマが再放送された。舞台は、東京下町の商店街にたたずむレトロな珈琲屋。人を殺めた過去をもつ店主の宗田行介(高橋克典)は、亡き父の「一杯の珈琲が人生を変えることもある」という言葉を信じ、珈琲を淹れ続ける。そんな彼の一杯を求め、心に傷を負った常連客が絶えない。その珈琲屋に、行介に殺された男の妻・柏木冬子(木村多江)が突然現れたことから思わぬ展開を始めるドラマ。私たち夫婦は、約1か月間、この全5話のドラマを楽しみに視聴し、暗い影を背負いながらも懸命に生き抜こうとする登場人物たちの健気な姿に、清々しい感動を覚えた。

 

 私はこの感動を改めて深く味わってみたいと願い、つい先日、よく立ち寄る古書店で原作の『珈琲屋の人々』を探してみた。しかし、残念ながら見つけることができなかったので、たまたま書架に並んでいた『コンビニ・ララバイ』(池永陽著)という作品を購入した。そして、暇を見つけては読み継ぎ、ここ数日間で読了した。解説を書いている北上次郎氏によると、「重松清浅田次郎を足したような小説」という評だが、私は「村松友視ブレンドしている小説」だと思った。どちらにしても、人間の本性を描きつつも、その人間の愚かさを温かいまなざしで包み込んだような作品だと言える。

 

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 本作品の舞台は、小さな町の小さなコンビニ「ミユキマート」。妻子を交通事故で亡くし、幸せにできなかったことを悔やむオーナーの幹郎は、コンビニ経営に対する希望もやる気もない。しかし、そんな店に様々な悩みや悲しみを抱えた人がやってくる。パートの治子に惚れてしまったヤクザの八坂、声を失った女優の卵の香、いつも「ミユキマート」で万引きする女子高校生の加奈子など、生きることに不器用な彼らが泣き、迷い、やがてそれぞれの答えを見つけていくストーリーが7話収録されている連作短編集の本作品は、読後に幹郎のもつ優しさや温かさに心が洗われていくような爽快感を残した。

 

 私の心に特に重く、かつ強く印象を残したのは、最後の第7話「ベンチに降りた奇跡」であった。店の前のベンチに時々座って仲良く話し込んでいる男女のお年寄り。夫婦ではなさそうだが、普通の恋人同士のようでもない、不思議な雰囲気を漂わせている。気になった幹郎は、さりげなく二人に声を掛けると、70歳前後の男性は志賀、60代半ばの女性は和子と名乗った。志賀は15年ほど前に妻を亡くし、和子は10年ほど前に夫を亡くしている、共に独身者。そんな二人が偶然、店の前のベンチで出会ったのがなれそめで、それから急速に親しくなった。しかし、志賀の息子夫婦や孫たちは二人が付き合うことに世間体が悪いと猛反対している。また、和子は一人暮らしだが、狭心症の持病があり、近くの病院に通院している。でも、そのような情況でも二人の気持ちは変わらず、今まで通りプラトニックな恋愛関係を続けていくと心に決めた矢先、和子が突然、左胸を押さえて倒れ志賀の腕の中で静かに死を迎える。その時、志賀は幹郎に結婚の立会人になってほしいと頼むことになり…。

 

 未読の方のために最後の場面をこれ以上紹介することは控えるが、老いらくの恋に落ちた不器用な人間の哀愁漂う奇跡的な結末に、私はある種の感動を覚えずにはいられなかった。二人の年齢に近い私だからか、とても共感的な気持ちで受け止めることができた。それとまだ他にも忘れられない、深く印象に残った場面があった。それは、幹郎が交通事故で相次いでこの世を去った、一人息子の喧太と妻の有紀美に出遭い、今まで思い悩んできた心が浄化していくような幻想的場面。さらに、店の前の駐車場で焚いた送り火の炎は、幹郎の再生を象徴しているようで、いつまでも私の目の裏に焼き付いた。

 

 私は、池永陽が描く他の物語世界にもじっくりと浸ってみたい衝動に駆られた。やっぱり『珈琲屋の人々』のシリーズも読んでみようか…。