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刑法の成立に伴う国家形成の物語について~「100分de名著」の吉本隆明著『共同幻想論』のテキストから学ぶ①~

 最近、私は新書版の学術書よりも文庫版の小説を読むことが多くなった。その理由は、梅雨に入って高温多湿の日が多くなったので、特に日中は学術書を読みながら思考を深める知的な気分にならないからである。その点、小説は気軽な気持ちで読み浸ることができる。しかし、そんな私でもNHKのEテレで放送される「100分de名著」のテキストだけは、放送日までに当該分を読んで予習している。特に7月に取り上げられた名著は、私自身が若い頃に途中で挫折した難解な思想書共同幻想論』(吉本隆明著)であったから、私は講師の日本大学危機管理学部教授の先崎彰容氏が著したテキストを読むという予習には余念がなかった。今週の月曜日(再放送は水曜日)で全4回の放送は終了したが、私は今、復習のためにそのテキストを再読し解説内容のポイントを確認しているところである。

 

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 そこで、今回と次回の2回に分けて、私が強い関心を抱いた解説内容のポイントについてまとめた記事をアップしようと考えている。今回は、第1・2回の放送分のエッセンスを紹介した上で、第3回の放送分のポイントを整理してみたい。

 

 第1回において、解説者の先崎氏は『共同幻想論』の文庫版に付されている三種の序文を徹底的に読むことで、吉本が本書を書かざるを得なかった「動機」、あるいは「問題意識」を明らかにした。その一つは、敗戦体験によって共同体への不信と自己嫌悪をもってしまったこと。二つ目は、敗戦体験が人間にとって「信じるとは何か」という根源的な課題をつきつけたこと。三つ目は、人間関係がもつ複雑な機微を「関係の絶対性」という概念で考察の俎上に載せたこと。そして最終的に、人間同士がつくる関係性を「共同幻想」と名付け、その魅力と魔力を明らかにしたのが、本書の骨格となっていることを示した。

 

 続いて第2回。吉本は国家の起源には「エロス的関係」「時間性」「タナトス(死)的関係」という関係性があったことを見出したと、先崎氏は言う。言い換えれば、対幻想(家族)から原始農耕社会の成立までの国家誕生の起源を、性(生)と死に見出したことを示したのである。このことが、人間が国家という「共同幻想」に命がけでのめり込み「信じてしまう」理由になる。吉本は単純な反国家主義者とは全く違うものに突き動かされて本書を書き進めたと、先崎氏は確信的に記している。

 

 そして今回の本題である第3回。吉本は対幻想(家族)が拡大した血縁共同体が、大和朝廷のような部族的統一性をもつ「最初の国家」になるためには、断絶や飛躍があったはずだと言った。先崎氏は、このことについて本書の後半部分である「罪責論」で取り上げた『古事記』の挿話を読み解きながら、詳しく説明していく。具体的には、吉本がアマテラスとスサノオの物語を、アマテラスすなわち大和朝廷と、スサノオすなわち原始農耕共同体が、次第に大和朝廷に支配・統一されていく場面を描いたと解釈し、次の二つの疑問を追究していく過程を解説していく。

○ 第一に、スサノオが「追放」されたことは何を意味するのか。

○ 第二に、なぜスサノオは母の国へ行きたいと泣いたのか。

 

 では、この二つの疑問を吉本がどのようにして追究していったかを、先崎氏の解説を参考にしながら整理してみよう。

 

 まず、第一の疑問を追究するために吉本が参照したのは、「系譜学」と呼ばれる手法で西洋の道徳発生の起源まで遡ってニーチェが執筆した『道徳の彼岸』であった。ニーチェは、キリスト教誕生の瞬間以来、人間は「ルサンチマン」によって相手を批判・否定する「奴隷道徳」を生み出してしまったと言う。ニーチェは、この「奴隷道徳」発生の起源を債権者と債務者の関係からとらえ、原始的共同体と犯罪者、また原始的な種族共同体内における現在世代と先行世代との関係についても同様の構図からとらえ直した。ニーチェは、この原始的種族共同体に対する負い目の意識が、種族が発展するにつれて増大し、神という「共同幻想」を生み出したと唱え、その爆破を試みたのである。吉本もまた、日本の原始農耕民に同じような罪の意識があると指摘し、最初に原罪意識を自覚して共同体繁栄の礎を築いてくれた犠牲者こそ、農耕神スサノオだと解釈したのである。

 

 スサノオは農耕社会の象徴であるにもかかわらず、父・イザナギから漁労採集社会の海原の統治を命じられる。スサノオは自身の生き方との矛盾を感じざるを得ず、父の命を拒絶した結果「追放」される。屈折と負い目、疚しさの感情がスサノウにも宿る。そして、スサノオを源流として、以後、原始農耕共同体にまで疚しさの「共同幻想」が継承された結果、この感情の負債を支払うために祭儀行為が行われるようになった。このような解釈によって、吉本は「追放」と「原罪意識」に「共同幻想」の原型を発見するのである。スサノオが戻りたいと泣いて願った母の国は母権制のことを指しているが、部族社会つまり国家の形成途上であるため、そこにはもう戻ることはできないのである。以上が、第一の疑問、すなわちスサノオが「追放」されたことの意味である。

 

 次に、第二の疑問、スサノオが母の国へ行きたいと泣いた理由について見てみよう。上述したように、スサノオが母の国を目指したのは、そこが原始農耕社会の象徴だからである。スサノオは本来、母権制社会に居続けたいのである。しかし水田農耕民の大和朝廷が出現し、その統治の一翼を担うことを迫った。そこで、スサノオは原始農耕社会のルールに従うべきか、あるいは大和朝廷のそれに従うべきか引き裂かれ、延々と泣き続ける。スサノオが泣く原因は、共同体の秩序に反することの困惑なのである。そのため社会秩序が大いに乱れて悪が跋扈する。吉本は、ここに倫理問題が発生すると言うのである。この倫理の発生こそ、吉本がしきりに強調する断絶や飛躍のことを指すのだと、先崎氏は解説する。

 

 こうして国家形成へと進む段階で、母系の氏族が優位な段階から父系が優位な段階への移行が次第に進むのであるが、吉本はさらに『古事記』の「垂仁天皇」の項、サホ姫の兄であるサホ彦の叛乱をめぐる挿話を取り上げながら、この移行の過程を具体的に描いていくのである。この挿話において結果的にサホ姫が死ぬことは、宗教的権威をもつ女性が政治的権力をもつ男性を従えていた時代の終わりを意味し、次第に男性優位の政治権力だけが統治し、実効支配していくことを予感させる。すなわち天皇による統治が行われる段階まで、国家が形成してきたことを表しているのである。

 

 このような過程を経ながら、「対幻想」が拡大し、いくつかの飛躍と断絶(「倫理」意識の発生のこと)を越えて、国家が立ち現れてきて、いよいよ最終段階では「罪」がさらに腑分けされ「法」が誕生する瞬間が訪れる。吉本は「倫理」に注目すると、最初期の母権制の時代は「禁制」であり、父権優位の最終段階は「法」であり、その中間に「規範」の段階があると言う。そして、ここでも吉本はアマテラスとスサノオの師弟関係を基にした「天の岩戸」神話を取り上げながら、『祝詞』を参照してスサノオの犯した次の二つの「罪」の内容に着目する。

○ 「天つ罪」…畦放ち、溝埋み、生け剥ぎ、逆剥ぎ、屎戸など。

○ 「国つ罪」…おのが母犯せる罪、おのが子犯せる罪、畜犯せる罪、昆ふ虫の災など。

 

 スサノオが犯したのは、この中の「天つ罪」になるが、これは農耕社会の「共同幻想」に対する違反行為を意味する。彼が科された罰は、共同体からの「追放」と髭と手足の爪を切ることであった。これは当時の倫理の在り方が清祓行為であったことが分かる。特に「追放」というのが共同体の秩序を維持するためであることから、スサノオ個人を罰することよりも比重が大きい。この「天つ罪」は列島を新たに支配していく大和朝廷がもたらした罪概念だとすれば、「国つ罪」は前農耕的できわめて原始的な氏族共同体以前にまで遡る禁忌である。二つの罪の間に置かれたスサノオは、大和朝廷の秩序に背反しつつ、贖罪の仕方は原始的な祓い清めの方法で行っているので、これは「法」の一歩手前の段階、すなわち「規範」の段階にあると言えるのである。

 

 最終的に吉本は、『魏志倭人伝』と『随書倭国伝』を参照し、国家の起源に迫っていく。邪馬台国や推古朝になると、「法」が完全に呪術的な意味を離れて、公権力による刑罰となっており、この刑罰の登場をもって国家の完成とみなすことができるのである。また、国家の基盤が整うに伴って、「刑法」の内容は次第に過激さを和らげていき、「刑法」によって国家を具現化していったことは、次の2点から明らかである。

○ 刑法が定まると、犯罪者を共同体の外に「追放」し、法の外で勝手放題に暴力を振るう従来のやり方が許されなくなり、国家の「共同幻想」の完成度を増す。

○ 刑法の罰則が、共同体維持のための清祓とは違い、違反者個人への弁償を求めることになる。

 

 以上、私が強い関心を抱いた第3回放送分の解説内容のポイントを整理してみた。吉本が『共同幻想論』の中で解明した「刑法の成立に伴う国家形成の物語」は、西欧社会の歴史とは違う日本社会独自の歴史を踏まえたものであり、私は改めて吉本隆明という思想家の独自性とその論理性について驚嘆した。また、先崎氏の的確な解説によって、今まで曖昧な認識のままであった『共同幻想論』の中心的な主張内容を、概要ではありながらも明確に認識できたことは、私にとってこの上のない喜びであった。次回は、私が強い関心を抱いた第4回放送分である「人間関係の相対化の方法としての「個人幻想」について」、その解説内容のポイントを整理してみたいと考えている。