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何のためにまだ働くのか?~岸見一郎著『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』と小浜逸郎著『人はなぜ働かなければならないのか』を参考にして~

     数日前に後味の悪い夢を見た。…高校時代の同窓会に参加し歓談をしている場面で、「もう65歳になったから年金を全額受給しているだろう。食うのに困らないだけの収入はあるのに、何のためにまだ働いているんだ?」と、65歳で完全に現役引退したある友人から詰問するように尋ねられた。「まだ心身共に元気なので、もう少し働きたいと思ってね…。」と、私は曖昧な返事をしてしまった。すると、その友人は「でも、君は腰痛の持病があり、最近は加齢に伴って身体の節々が痛くなったとさっき言っていただろう。決して元気とは言えないのではないか!」と、さらに厳しく糾弾するように言う。それに対して、私は返答に窮して「65歳を過ぎて働くか、働かないかを決めるのは、私自身の問題だ!君にとやかく言われる問題ではない!!」と少しキレ気味に大声を出してしまった。すると、周りにいた同級生たちの眼が私に向けられので、私は徐々に赤面して恥ずかしい思いに至ったところで目が覚めた。…

 

 目覚めた時、私は少し動悸が激しくなっていた。何とも後味の悪い夢だった。夢の中とは言え、私は65歳を過ぎても働きたいと思っている理由や目的を、なぜ明確に言葉にできなかったのか。やはり金銭的な報酬を得ることを第一の目的にしているからだろうか。確かに金銭的報酬は、将来的な経済生活を多少は保障することになるであろう。しかし、それが私にとって唯一の目的なのか。だから、「働く理由や目的」について明確に言葉に出来なかったのだろうか。そのようなことに思考を巡らせて自分を責めるような気持ちになっていた私は、「高齢者になっても働く理由や目的」について改めて明確に意識したいと考え、以前にさっと目を通しただけで済ませていた『アドラーに学ぶ よく生きるために働くということ』(岸見一郎著)を先の休日にじっくりと再読してみた。すると、専門の哲学に並行してアドラー心理学を研究して『嫌われる勇気』や『幸せになる勇気』等のベストセラーを上梓している著者の語る言葉は、私の気持ちを代弁してくれているようで、読み進める内にとてもすっきりした気分にさせてくれた。

 

 そこで今回は、本書の特に「第1章 なぜ働くのか」の中で強く共感した著者の言葉を取り上げながら、私が「65歳を過ぎても働く理由や目的」についてなるべく明確な言葉で綴ってみたいと考えている。

 

 まず著者は、古代ギリシア哲学者プラトンが『クリトン』の中で、ソクラテスに語らせた「大切なことはただ生きることではなく、よく生きることである」という言葉を紹介し、人はよく生きることを願っているのであり、働くのもただ生存するためではなく、よく生きるためであるという主旨のことを述べている。私はこの「人生をよく生きるために働く」という目的が、第一義だと思っている。もちろん「働く」という活動は、金銭的報酬を得る仕事だけではなく、自然や社会の豊かな維持・発展を図るようなボランティア活動も含んでいる。だから、無報酬のボランティア活動でもよいのだが、私は今のところ金銭的報酬を得る仕事をし続けようと考えている。それは、なぜなのか。

 

 次に著者は、ドイツの心理学者であるエーリッヒ・フロムが『愛するということ』の中で語っている「愛の本質は、何かのために『働く』こと、『何かを育てる』ことにある。愛と労働とは分かちがたいものである」という言葉を紹介し、人は何かのために働く時、その何かを愛するのであり、他方、何かを愛する時、その何かのために働くのだと述べている。私は、長年連れ添った妻、結婚して独立した娘たち、そして日々成長したり新たに産まれたりする孫たちを愛している。だから、これらの家族の将来の経済生活を多少でも援助することで得られるであろう幸せを願って、今少し金銭的報酬を得る仕事をしたいのである。

 

 さらに著者は、オーストラリアの心理学者であるアルフレッド・アドラーが『生きる意味を求めて』の中で、「貢献」について説明した「私に価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益である時だけである」という言葉を紹介し、働くことで人は自分のもっている能力を他者のために使うことで貢献感を味わい、そのことで自分に価値があると思えるのだから、「働くことは自分のため」でもあると述べている。言い換えれば、「自分に価値があると思え、対人関係の中に入っていくことが働くことの目的」なのである。私は、この考え方に強く共感する。

 

 そう言えば、私が信頼する評論家の小浜逸郎著『人はなぜ働かなくてはならないのか』の中でも、上述の趣旨に関連した次のような言葉を紡いでいたことを思い出した。「労働の意義を根拠づけているのは、私たち人間が、本質的に社会的な存在であるという事実そのものである。」そして、この意味として、次の3つのことを挙げている。

○ 私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びること。

○ そもそもある労働が可能となるために、人は、他人の生産物やサービスを必要とするということ。

○ 労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する基礎的な媒介になっているということ。

つまり、労働は一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認させるための、必須条件になっているのである。小浜氏は、これら以外にも、ドイツの哲学者であるヘーゲルが『法哲学講義』の中で語っている労働についての重要な指摘を紹介し、ヘーゲルは労働という営みの根拠が、人間の社会的な本質に根ざすものである事実を突いているのであり、それが、体制の如何を越えて、相互依存、相互交流を基軸とする社会的な共同性の存在を前提としたところでしか成り立たない概念であることを言い当てていると解説している。

 

 そうなのだ。私は自分のもっている能力を共同体のため、他者のために使うことで貢献感を得て、65歳という高齢者になっても自分に価値があると思いたいのである。また、その仕事はできるだけ公共性の高いものを選び、社会的な孤立感を味わうことのないように、対人関係の中に入っていきたいのである。そして、働くことによって得た報酬は、家族の幸せにつながるように遣いたいと思っている。できれば70歳までと限定せず、体力に年齢的な限界を実感するようになる歳まで働きたいものである。