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久し振りに学校経営や教育、学習等の在り方について語り合う充実感を味わった!~その2~

 少しまとまった時間が取れそうなので、前回の記事の続きを綴ろうと思う。内容は、先週の日曜日に自宅近くの喫茶店で5時間ほど、D小学校元教頭のI先生に対して私が語った「私の学校経営観や教育観、学習観等について」である。ただし今回は、校長職を務め上げて定年退職後、現在も教壇に立ち続けて子どもたちの豊かな学びを保障しているI先生にとって、有益なものになるだろうと考えて私が熱く語った「人間形成論的な意味での授業と研究協議会の在り方について」に絞って紹介したい。

 

 まず、私は今から10年ほど前に開催された授業研究会で疑念を抱いた出来事について語った。…それは、本県東部のある小学校を会場にして開催された授業研究会の第4学年国語科の公開授業とその後の分科会でのことである。国語科の公開授業は、物語文「ごんぎつね」を教材にした単元「読んで考えたことを話し合おう」(全12時間)の第10時で、学習課題「ごんは、どんな思いでうなずいたのだろう。」の最後の解決場面であった。授業はベテランの女教師と20人ほどの子どもたちが真摯に学習課題の解決を目指したもので、緊張と弛緩のバランスが取れた心地よいリズムのあるものであった。子どもたちも自分の考えを明瞭な発声で発表することができており、「話す・聞く・読む・書く」という豊かな言語活動が保障された国語科の授業としてとても質の高いものであったと思う。

 

    ところが、学習課題「うなずいているごんの思い」について話し合う授業のクライマックスの場面で、多くの子どもに発表させた後、一人の子どもの感想を聞いただけで終わってしまったのである。一人の女児が「友達は自分の考えとは違い、いろいろな考えがあることが分かりました。」と発言したのを聞いて、教師は何とまとめの学習活動に入ってしまったのである。私は「えっ。それだけ!」と正直に驚いた。それまでの展開が大変素晴らしかったので、余計にその結末に納得がいかなかったのである。

 

    そこで、授業後の分科会でその点を質問してみた。すると授業者は「本時のねらいは、『うなずくごんの気持ちを想像し、感じたことや考えたことを話し合う中で一人一人の感じ方の違いに気付くことができる。』なので、意見交換をして話合いを深める必要はないと思った。」と答えたのである。それに対して私は「単に友達の発表を聞くだけでなく、個々の感じ方や考え方の根拠や理由等を聞いて意見交換し、話し合った結果、みんなが納得した主題解釈を出すことが大切ではないのか。」と主張した。しかし、その意見から議論は発展せず、さらに最後に助言者からは「新小学校学習指導要領の第2章第1節国語の中学年の内容C読むことの(1)のオには、『文章を読んで考えたことを発表し合い、一人一人の感じ方について違いのあることに気付くこと。』とあり、本時の指導はあれでよかった。否、ああでなければならない。」という主旨の指導があったのである。私はさらに納得しかねた。

 

    次に、なぜ私が納得しかねたのかの理由について、話を続けた。…本時は物語文「ごんぎつね」の主題に関わる学習指導であり、現在の国語科における物語文の主題指導は基本的に読者論に立っており、授業者の教材解釈に基づく唯一の主題を絶対的な“真理”として指導することは好ましくないととらえていることは私も了解している。しかし、それは読者一人一人が勝手にとらえた主題を単に尊重するだけでよいと考えているわけではない。私は「目標としての主題」ではなく「方法としての主題」として意味付けて、主題指導はすべきだと考えている。言い換えれば、唯一の主題を子どもに読み取らせることを目標にするのではなく、あくまでも読者である子ども一人一人のとらえた主題を大切にしながらもより妥当性の高い主題解釈を求めることが主題指導では大切ではないかと言いたいのである。つまり、今回の場合は一人一人の子どもが教材である物語文「ごんぎつね」の主題をとらえているのだから、それを大切にしながらも個々の主題解釈の根拠や理由等を話し合わせ、学習集団として妥当性がより高いと思われる主題解釈を求めようとする場を設定することが必要だと言っているのである。そうしないと、「個の尊重」と言いながら結局は「個の絶対化」に陥ってしまい、人間形成論的な意味での授業という営みを放棄することになってしまうのである。

 

 私は、「単に学校教育における国語の主題指導の在り方の問題点を指摘しているだけではない。」とI先生に強調した。例えば、校内研修に位置づけた公開授業後の「研究協議会」においても、意見交換をする場面で発言者は授業者に対する社交辞令的な御礼の言葉を述べた後、質疑を兼ねて遠慮がちに自分なりの意見を添える。司会者は、それらの発言をパラレルに扱い、その意見内容に互いに齟齬や対立等があっても、それを焦点化して是非を問うような議論に発展させないことが多い。この文化的背景には、近年、人文・社会的事象においては絶対的な“真理”はないという文化相対主義の考えが敷衍していることがあると思われる。しかし、この考え方は究極的には“ニヒリズム”に陥り、他者と“共通了解”を図ることで紡がれる共同体的な価値を軽んじることになる。極論すれば、人間が社会的存在であることを否定してしまい、人間を孤立させて虚無的な生活態度に堕してしまう事態を招くのである。教師たちが子どもにとってよりよい学びを保障しようと、少しでも自分たちの授業の質を高めるために行う「研究協議会」が、このような文化相対主義の考えに陥ってはいけない。明日からの授業実践に前向きに取り組む意欲が高まるように、教師集団の成員が互いの意見の齟齬や対立等を大切にし、それらのよりよい解釈や解決を図ろうと議論を深めることこそが求められるのではないだろうか。

 

 私がI先生に対して「人間形成論的な意味の授業と研究協議会の在り方について」語った骨子は以上である。つい熱を帯びてこれらの内容を語った時間は、おそらく1時間はゆうに超えていたのではないかと思う。上述した内容は、それぐらい「私の人生観や教育観、学習観等」の中核を占める考え方なのである。私はこの話を一応終えた時、コップに残っていたアイスコーヒーをストローで一口飲んだ。その際に、それまでずっと傾聴してくれていたI先生の共感的なまなざしに気付き、私は心の中が満たされている実感を憶えた。I先生、私の長話にずっと耳を傾けてくれ、本当にありがとうございました。心から感謝しています。