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「鶴見哲学」の神髄に触れた!~上原隆著『君たちはどう生きるかの哲学』を読んで~

 今から3年ほど前、初出版から80年も経った『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎著)という本が爆発的に読まれるという現象が起こった。原作はもちろんだが、漫画形式の本も結構売れたらしい。実は自宅の書架にも、この漫画版が並んでいる。妻が読んでみたいとさりげなく言ったので、最近になって古書店で手に入れたのである。一体なぜこのブームが起きたのか。私はその分析をここで詳しくするつもりはないが、この題名に惹かれた人が少なからずいたのではないかと推察する。というのは、今から30数年前に私もこの題名に惹かれて岩波文庫版を手にした一人だったからである。初めて読んだ30代半ば、コペル君の体験したことが書かれ、それについての叔父さんの感想がノートという形で示される巧みな構成とともに、その内容の素晴らしさに私は素直に感動した。

 

 もうあれからかなりの時間が経過したが、あの感動の痕跡は今でも私の心に残っている。そんな私が、先日、よく立ち寄る古書店で『君たちはどう生きるかの哲学』(上原隆著)を目にした時、自然と手を伸ばしたのは当然のことであった。もちろん、まずは題名に惹かれた。次に著者名を見て、さらに興味を深めた。当ブログでも著者のノンフィクション・コラム集『にじんだ星をかぞえて』を取り上げたことがあったのを覚えている読者の方もいると思うが、私は著者の一ファンなのである。もう一度、30数年前の感動を呼び起こすきっかけにしよう!そんな思いで購入した。そして、最近、読書ができるだけのまとまった時間が取れたので、本書をやっと積読状態から解放することができた。

 

 そこで今回は、『「普通の人」の哲学』を新書版にリライトした本書の中で、著者が『君たちはどう生きるか』の内容理解を深めるために補助線として示している「鶴見哲学」の重要な言葉に着目しつつ、それに対する私なりの所感をまとめてみたい。

 

    最初に告白しておくが、私は本書を読むまで「鶴見俊輔」という哲学者のことやその著書についてほとんど知らなかった。しかし、著者が本書で紹介している「鶴見俊輔」という哲学者の経歴やその著書の内容等を通して、大変興味をもった。否、母親との歪んだ関係によって形成された鬱的な自己と厳しく対峙し、それを乗り越えようとして生きてきた一人の人間の生き様とそこから紡ぎ出した「普通の人」の哲学に大いなる感銘を受けた。以下、私の心に強く印象付けられた「鶴見哲学」の重要な言葉について述べていく。

 

 まず、「鶴見俊輔」の経歴について簡単に紹介しておこう。1922(大正11)年、東京麻布で生まれる。父・祐輔は、小説家でもあり代議士にもなった当時の有名な知識人。母・愛子は、満鉄総裁や大臣などを務めた後藤新平の娘。俊輔は、この母親からの強い愛情による締め付けに抵抗するように、非行に走り、学校を退学する。その後、父親の配慮によって、アメリカ・ハーバード大学に入学し、プラグマティズム論理実証主義の哲学を学ぶ。日米開戦の翌年に帰国し、海軍軍属となってジャワ島へ行く。戦後すぐに、姉の鶴見和子、丸山正男、武谷三男らと雑誌『思想の科学』を創刊。1950年代後半から60年代にかけて『共同研究 転向』や『日本の百年』といった大きな仕事をする。1982年には『戦後期日本の精神史』で、第9回大佛次郎賞を受賞。哲学以外に、漫画や歴史、伝記等と多岐にわたった仕事をしている。また、政治運動もしている。60年安保闘争の時には「声なき声の会」に参加し、ベトナム戦争の時には「ベトナムに平和を!市民連合」(通称;ベ平連)に参加し、2000年代には「9条の会」の呼び掛け人となっている。哲学者・編集者・活動家・座談の名手・書評家・教育者等と、一言では言えない大きな人物であった。2015年、死去。享年93。

 

 『君たちはどう生きるか』が出版された年は鶴見15歳であり、それを読んだのが戦争中だったらしい。そして、彼は『君たちはどう生きるか』を「日本人が書いた哲学書として最も独創的なものの一つだ」と感動した。そこに彼独特の考えがある。普通考えられている哲学書は、正しい理論や知識を組み合わせて論じる「合成的な見方」によって書かれている。それに対して、『君たちはどう生きるか』は、ある人が生き、失敗し、その体験をもとに成長していく過程を思想としてつかむという「成長的な見方」によって書かれている。つまり、彼は生きられた行いとして思想や哲学をとらえたいと考えているのである。だから、彼は自分が感心した人の思想や哲学を「成長的な見方」でつかむために、多くの人の伝記を書いている。彼の書いた伝記を読めば、自ずと彼の思想や哲学が伝わってくる仕組みになっているのである。ここに「鶴見哲学」の神髄があると、私は思った。

 

 次に、私の心に一番印象に残った「三、ニュートンの林檎と粉ミルク」の章中に書かれている「鶴見哲学」の重要な言葉について。…ニュートンが林檎の木という身近なものから問題を見つけ考え続けたことは、とても大切なことだと話した叔父さんに対して、粉ミルクが自分に届くまでを考えて発見した「人間分子の関係、網目の法則」をコぺル君は手紙で知らせた。叔父さんは、コぺル君が身近なこところに問題を見つけ、自分の頭でここまで考えたことを褒めた。大切なことは自分の問題を見つけることだからである。鶴見は、ある編集会議の席でマルクスがすごいのは資本論を書いたからじゃない。飢えという問題を見つけたからなんだ。問題を解決するよりも、自分の問題を見つけることが重要なんだ」と言ったという。では、鶴見にとっての問題とは何だったのか。それは“母親”だったのである。

 

 鶴見には姉と妹と弟がいるが、母親は特に長男の俊輔を育てることに力を注いだ。武士の家に育った母・愛子は、質素な暮らしの習慣を子どもに付けさせなければいけないと、俊輔が幼いころから厳しくしつけた。時には折檻することもあったという。母は自身に対しても厳しい人であり、かつ言行一致の人であったから、息子に対しても誠心誠意で対したらしい。それが彼女の愛し方であった。「一生分、愛された。それは、窒息しそうな体験だった」、「何よりもこたえたのは、こどものころのわたしには、母の正しさが疑えぬことだった。正義の道は、母が独占している。その道を、母の言うとおりに服従して歩いてゆくか。もしわたしが自由を欲するならば、私は悪をえらぶ他なかった。つねに、悪をえらぼう、これが、はじめにわたしのなかに生じた魂の方向だった」、「わたしの思想の底には、単純なからくりが仕組まれているのだろう。わたしの母は、おそらく、わたしに糞便をきらうようにしつけた。自分の排泄への嫌悪。それがたやすく、自分の存在のうけいれにくさと結びついた」…と語る鶴見は、万引きをし、家出をし、女性と関係を結び、自殺未遂を繰り返し、学校を何度も退学した。しかし、自分は悪いことをしているという自意識が自分を責め続ける。この自分の存在のうけいれがたさが、鬱病を発症させたのである。

 

 「母親との関係で、自分の体の中に埋め込まれた自罰の仕組み。この問題との格闘が鶴見の思想の根源にある。彼の仕事の全てに、この問題との格闘の跡がある」と著者の上原氏は鋭く指摘している。そして、鶴見が自分を救うために行った仕事として、「かるた」と題された一連の文章について言及している。また、「鶴見にとって、哲学も歴史も伝記もコミュニケーション論も、その根源には自分を救うという動機があった。とくに、漫才や漫画といった大衆芸術の研究は、自分を肯定し、やすらぎを与えてくれるものだったのである。」と鶴見の仕事に対して明確な意味付けを行っている。さらに、こう続けている。…「鶴見らしさ」とは何か、といえば、「こうあるべきだ」という理論や原理で人や出来事を裁断しない。間違いや失敗を、まず認める。一人ひとりの「私」を大切にするということだ。それは、母親からの抑圧で仕組まれた自分を罰するという傾向から自分を救うことでもあった。鶴見の思想は自分自身を救済する必要からうまれたものであったことがわかる。…

 

 上述したような母親との歪んだ関係に根ざした経験から、上原氏が「鶴見哲学」を「自己救済としての哲学」として明確に意味付けていることはとても説得力があると私は思った。そして、このことは「鶴見哲学」の神髄に触れた体験になった。今までほとんど「鶴見俊輔」という哲学者のことやその著書について知らなかった私であったが、本書と出合って「鶴見哲学」の神髄をより究めてみたいと強く願うようになった。彼の著書を少しずつ読んでみたい。